2012年11月08日

霊学86

マンダ教の文献には、諸世界という表現がよくあらわれる。世界はこの世のほかに連鎖的に続く閉じられた権力圏の諸世界によって成立している。「異邦の命」が故郷に戻るためには、これらの諸世界を通り抜けねばならない。その世界を統制するものは霊的なダイモーンの一族である。そこで「異邦の命」である魂は道に迷い、さすらい、出口を探し求めるが、一つの世界を出ても、またべつの世界に入り込むだけである。
秋山

つまり、輪廻転生などという、単純明快なものではないということだ。
生まれ変りなどと、暢気なことを言っていられない世界を、魂は、さ迷うのである。

この、マンダ教の、諸世界という概念は、ヘレニズム的グノーシス主義では、七層、十二層、また更に、多くの天球による層を示す。
そして、それぞれの天球を支配する、アイオーンという天使のイメージと対応する。

それは人格でもあり、空間的領域そのものを指す概念であり、その領域を通り抜けることは、彼らの権力を打ち破り、その天球、また世界の魔力から、解放されるということになる。

更に、魂が遍歴する、諸世界と諸時代は、絶望的に広く長いものであるか。

宇宙の広大でほとんど無限に思える空間的で時間的な二重の様相への恐怖は、ヘレニズムのグノーシス主義におけるアイオーンという表現にさらによくあらわれている。
秋山

アイオーンとは、寿命、宇宙的時間の長さ、永遠性などをあらわす、純粋に時間的な概念だった。
それが、ヘレニズム的な宗教の中で、人格化され、ペルシャのズルヴァン神にならい、崇拝の対象となったのである。

更には、神話的な変容を遂げて、神的、半神的、ダイモーン的な存在のすべてを指す総称となった経緯がある。

アイオーンは、宇宙のダイモーン的な諸権力、闇の領域のダイモーン的な力、時間と空間が人間に、魂に強制する、巨大な圧力を示すものとなる。

そして、彼らの人格化が極端に進むと、本来の時間的形相は、その背景に隠れて、神話的想像力の流れを通じて、変化自在の姿をとるようになる。

この世界は、広大であるが、同時に閉じられた小部屋のようであり、外から来る救済者は、この世界の外側から、呼びかける。
この世界の逗留は、仮の宿であるという。

身体も衣服も、家も、本来の、自らの源流から分断されて、命、また魂は、肉体の衣の中で、憔悴し切っている。

何故、そうなったのか・・・
それは、それぞれの、グノーシスの体系によって、異なることになる。

日本の、仮の宿り、という表現は、そこまで深くない。
また、深くなくても、良かったのである。

それは、自然というものに対する、捉え方の違いである。
厳しい自然環境の中で、生まれた考え方である。

何せ、その自然でさえ、異邦の者には、異質なものなのであるから。

ある種の、狂いである。
だからこそ、ユングは、そこにわが身の狂いを、また、患者の狂いを昇華させ得る、グノーシス主義に、救いを求めたとも、言える。

それは、通常人々が、受け入れる価値の逆転の思想であり、この世と調和して生きる人には、受け入れ難いものだったからだ。

神も霊であり、更には、魔力を持つものである。
本来の神は、分断されてある存在で、それを知ることが、知識である。

キリスト教から異端視されるはずである。

夢見心地で、神の国、天の国に行くなどという、考え方は無いのである。

神の世界の内になど、いない。
すべてが、仏であるなどという、考え方はない。

さて、その典型的なグノーシス主義は、イラン型グノーシスと呼ばれるものだと、秋山氏は言う。

更に、イラン型の二元論を最も完全に、表現しているのが、マニ教である。
このマニ教について、更に詳しく述べていると、話しが進まないので、別の機会にする。

この世を構成する、二つの要素を見る。
一つは、壮麗にして闇なき世界であり、反乱のない純粋な穏和な世界。騒乱の無い正義の世界、老いや死のない永遠の世界、悪の混入しない世界である。

もう一つは、闇の世界であり、悪に満ち、焼き尽くす火と、欺瞞と策略に満ちている世界、安定なき騒乱の世界で、善が衰亡し計画が無に帰する世界である。

マニの説をとれば、この世は、光と闇との混合だが、その主たる実質は闇であり、その中に光が混入している。
マニ教の神話は、この世の二つの対立する存在によって、成立している。

この世は、その両者の混合であるとするが、それは本体から切り離され、自分とは異質なものの中に、深く沈み込んだ光の部分にとっては、悲劇的なドラマであるという。

さて、イエス・キリストは、私は光であり、道であり、真理であると、聖書に書かれる。
だが、グノーシス主義は、それを超越しているのである。

それは、根源的な統一が分裂し、多様なものの中に散乱し、その粉々に砕けた光の断片こそ、創造の全域に散乱している、閃光なのである。
そこで、救済とは、ただ一つ、闇の中に散乱した光の断片を取り集め、元の一者に返すことであり、その完成が、世界からの究極的開放の条件となる。

気違い沙汰である。

混合、散乱、一、多、という概念が、一者に向かい、統合をはかることが、人間の、世界の救いになるのである。

この狂いの教えを持って、ユングは、そして、彼の患者も、救われるのである。
グノーシス主義が、狂っているからである。

小さな狂人は、大きな狂人には、適わないのである。

ユングの、全体への統合へと向かう、個性化の過程という理論は、ここからの影響を受けたものだろうと秋山氏は言う。




posted by 天山 at 23:59| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

霊学85

占星術による運命決定論が見られ、人間はこの運命的な星の強制力から逃れることができずに、さまざまな苦労を重ねる。彼らの主神こそ、この宇宙を創造したものたちであり、その神、または悪霊は、プラトンの「ティマイオス」に描かれているこの世界の製作者、デーミウールゴスの名でよばれている。そして、デーミウールゴスをはじめ、各天球の看視人たちこそ、死後の人間の魂が、その故郷である欠けたるもののない充満の場、プレーローマに戻ることを防げるのである。
秋山さと子

以下、要約すると、
人間は、これらの下級な霊が作った仮の衣である、肉体だけしかない、肉体人間であり、物事を感じ取る心はあるが、星の影響下で苦しむ、心魂人間である。
そして、肉体と、心魂の中に閉じ込められて、脱出を求める神性を持つ、霊的人間の、三種に分けられる。
天界を構成する、大宇宙では、人間そのものが、幾層もの天球により、閉じ込められて苦しんでいる。
その人間の、内的世界である、小宇宙では、幾層もの心魂という衣の中に、真の魂である霊が埋没している。
人間が持つ、本来の神性の断片は、この宇宙の毒に酔わされ、肉体の快楽と、心魂の中で、麻痺し、眠り込む。自己の本質を自覚しない。
グノーシスの知恵は、眠れる自己の本質の、神性に対する覚醒と、解放の呼びかけである。

キリスト教の教義より、グノーシスの知恵は、霊学に近いものである。

自己の本質に、神性を認める。
そして、その覚醒と解放を言う。
まさに、宗教の大元の考え方である。

ユダヤ・キリスト教の神も霊の一つであり、それが悪質であることも言う。
ここでも、複数の神、悪霊を上げている。

壮大な妄想である。
あるいは、事実なのか・・・

グノーシスによる、人間の救済は、拘束的な宇宙とは無縁であることを知り、人間の本質は、全一的で充足した世界に属するという。
そこに、知ることのできない、神が実在するという、隠された知識を得ることである。

これは、既成宗教にとっては、脅威である。
神は、認識できるものではない。
そして、そのことを知ることが、知識なのであるという。

神を語る何ものも人間は有しないのである。
そして、それを知ることが、知識なのである。

名前のある神は、単なる霊である。
それは、私の霊学と、同じである。

ユングもまた、彼世界と、彼の経験の中から、これらのものを知ったと思うし、それを知るには、いわゆる知識を越えた一瞬の飛躍が必要であろう。そして、ユングにとってこの知識こそ、彼をはじめとして、多くの近代以降の人々が陥っている人間の問題、合理と非合理、意識と無意識、その他さまざまなものの間で分裂し、散乱して収拾のつかなくなった人間の自我の救済となるものと考えられたに違いない。
秋山

ユング心理学と、グノーシスの関わりについては、推測するしかないという。
更に、グノーシスといっても、微妙に違う教義を、それぞれの派閥が持つのである。

最初に引用した、ヨナスという人は、グノーシス精神を伝えるものとして、マンダ教文献を取り上げた。

それは、チグリス・ユーフラテス沿岸に住む、サバ人の宗教であり、ヘレニズムの影響から、地理的にも社会的にも、遠く、今でもそのまま残されているという。
だが、概念化、体系化されていないため、理論的には、一貫性に欠ける。

しかし、純真で生彩に富む、神話的空想に溢れる。
秋山氏によると、それは、グノーシス的な神性の魂が、いかにこの世で、苦しんでいるのかを物語るという。

秋山氏の案内で、進むと、その特徴的な表現は、異邦のもの、という考え方である。

マンダ教の文献は、ほとんどが、光の諸世界より来た第一の異邦の命、一切のわざの上に立つ至高のものの名において、という、一文からはじまる。

多くのグノーシスの文献には、異邦の神、異邦の者、他者、知らざれる者、名を持たぬ者、隠れたる者、知らざれる父、などと呼ばれる。

自分の異邦性を想起し、流離の地を異国として認識することであり、そこから失われた故郷に戻ろうとする彼の苦難の道が始まるのである。
秋山

これは、日本人が、仮の宿りと呼ぶ心境に近い。
人生は、仮のものであり、本来のものではない。
とすると、つまり、何処かに、故郷があるということだ。

しかし、日本の場合は、それ以上に追求しないというより、仏教の極楽浄土に取られてしまった感がある。

更に、他宗教でも、簡単に天国とか、神の国になってしまう。
この辺り、グノーシスには、特殊な実存思想がある。

グノーシスの基本的思考は、この世を越えて存在する優越性と、そのために苦しむ異質性である。

そこから孤高なる魂の劇的な救済の道が続くのである。
秋山

つまり、人間は、この世では、異邦者であり、本来の世界、故郷に帰るべく存在である。とすると、他宗教も皆、同じようなことを言う。
だが、その考え方が、違うのである。

人間は、この世界にあり、この世界に属することで、彼岸から隔絶されているとする。
他宗教は、神仏も世界に抱かれて、この世があると、認識する。

グノーシス派は違う。
隔絶されてあるという。

実在界が、あの世で、この世は、虚仮の世界という認識でもない。
とすると、道元が言う、生は生、死は死という、世界でもない。そこでも、連続性がある。何せ、すべてが仏の世界であるから。

これは、非常に面白い。


posted by 天山 at 06:26| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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