2012年11月06日

平成24年ネグロス島へ7

夕方、少し薄暗くなってから、エジアさんのお宅に伺うことにした。
電話連絡も着き、相手も待っている。

自転車タクシー、シクロに乗った。
おじいさんだった。
息を切らせて、自転車をこぐ。
これで、彼は生活をしているのだ。
そして、それがまた、多いのである。

エジアさんの家は、バコロドの中心部で、長屋が延々と続く、端にある。
そこに入ると、その辺の人たちが皆、知りあいになるという、場所である。

家に入ると、エジアさんの他に、ボーイフレンドの、フランシス君、おばさん、親戚の子供たち三人がいた。

お互いに、顔を見合って、歓声を上げる。
一年振りである。

おばさんが、私たちのために、パスタを作ってくれていた。
それをご馳走になる。
そして、デザートのプリンと、果物。

コーラーも私たちのために、用意していた。

必要なものは、近くの小さな店、サリサリデパートという店で買う。
そういう、一間の店が、フィリピンには多い。

エジアさんの英語は、見事で、とても聞きやすい。
だが、答えることが出来ない。
ただ、片言の英語を口にする程度だ。

エジアさんは、朝五時から活動していた。
日曜日は、忙しいのである。
最後に、教会のミサに出たという。
熱心なカトリック信者である。

暫くして、ようやく、明日の行動の計画である。
今回は、平日の支援なので、孤児施設の子どもたちは、学校へ行く。だから、施設に行くならば、夕方以降になる。
すると、追悼慰霊とズレる。

そこで、二つの施設に絞った。
学校へ行く前の子供たち、幼児がいる施設である。
その他の衣類は、主にストリートチルドレンに上げることにした。

エジアさんは、その場で、車をチャーターし、運転手も前回と同じ人にした。

その場で電話して、すべてが決った。
朝、10時にホテルを出て、最初は慰霊すること。

それから、施設に行き、衣類を支援し、ホテルの近くに戻り、カテドラルの前の公園にある、フィリピン無名戦士の碑に慰霊する。

時間は、おおよそ、二時間程度になる。
荷物が多いから、車は、バンである。
それで、2000ペソ。4000円と高い。

だが、翌日、一つの施設行きをやめたので、1500ペソに値引きして貰った。

マザーテレサの修道会が行う施設であり、そこには、多くの支援があると聞いたからだ。

一時間ほど、お邪魔して、ダンボールの支援物資一個を持って、シクロに乗って、ホテルに戻る。

皆、総出で、見送ってくれた。
また、来年会うことになるという、予定である。

現地に、こんな知り合いがいるということが、心強い。
帰国しても、メールと電話でやり取りすることを、確認する。

ホテルに着いて、矢張り、日本食のレストランに行くことを止めた。
もう、腹が一杯である。
それに、疲れた。

外は、お祭りの騒ぎで、煩い。
物を食べると、酒が飲みたくなくなるので、その夜は、酒は飲まなかった。

更に、外にも出たくない。
コーターが夜に出掛けた。
彼は、夜行性なので、問題ない。

私は、シャワーを浴びて、早々にベッドに就く。
と、携帯電話の番号を新しくしたので、日本の辻友子理事に、電話をした。
一年以上使用しないと、以前の番号が無効になるのである。

最初は、コータの電話を使っていたが、私用の電話にも、番号を入れた。
新しい番号は、安いもので、300ペソである。
そして、100ペソ分の通話料を入れる。

こういうことに関しては、実に便利になったものだ。

辻さんは、電話をすると、掛け直してくれるので、助かる。
ただ、私と長話して、一万円ほどもかかると聞いて、驚いた。
日本にいる調子で、話しているのだ。

だから、要点のみを話して、終わるように心掛けた。

ホテルの扉は、閉めても、自動ロックにならず開くので、そのまま寝ることにする。
ただし、海外では、決して、そんな真似はしないで欲しい。
更に、私のように、扉を少し開けたまま寝るとか・・・

ホテルでは、一番危険なことだ。
扉を少し開けるということさえ、フィリピンの人もしない。
とても、とても、危険だから・・・

私の場合は特別である。
死ぬのが、怖くないし、取る物もありまないし・・・
強盗の方が、がっかりするだろう・・・
まあ、そんな問題ではないが・・・




posted by 天山 at 01:30| 平成25年ネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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