2012年11月01日

平成24年ネグロス島へ2

首都のマニラには、古くから多くの親日家がいることは耳にしていたものの、このネグロス島の田舎町にさえ、親日家のいることに改めて驚異の念を抱いたのであった。・・・

案内役の青年は、好意をもってあらゆる角度から、フィリピンと日本、そして今後のアメリカとの将来のかかわりについて熱心に語った。・・・

「われわれのフィリピンは、三百年にわたる長い年月、スペインの植民地だった。続いてアメリカが百年近くもこの国を支配してきた。そして今、あなたの国、日本が占領している。初めて来たスペインの人々は、私たちの先祖に、キリスト教を、偉大な精神文明を与えてくれた。次に現れたアメリカ人は、これまた素晴らしい精神文化と物質文明を与えてくれた。
さて問題は、これからである。「日本人は世界で最高の優秀な人種である」こう、日本の為政者は、日本の軍人は、われわれに高言してはばかることをしらない。しかし、この国に侵入して来た日本人はわれわれに、フィリピンの国民に、一体何をこれから与えようとするのですか。
日本軍が、フィリピンのネグロス島に来て、アメリカを、われわれと日本の共同の敵であるといって攻めて来た。自分たちは静かで平和な祈りの日々を、昨日まで過ごしてきた。そこへ突然に日本軍が現れた。
私はあなたに対して何の恨みもない。あなたは私が最も信頼する日本の友人の一人である。けれども、今日までの日本軍の行動について、私は許すことができない。
日本が東洋の盟主であると自負するのであれば、われわれフィリピン国民の一人ひとりが納得のできる方法を、手段をとるべきである。きっとできるはずだと思う」
ネグロス島戦記 池 平八

その青年に対して、一家の主人が、なだめるような優しいまなざしで、言う。
「そのような話はよせ。私たちの心の内は、この方には十分にわかって戴いているはずである。大切な日本の友人に対して失礼ではないか。今は混乱の中にいる。遠い日本からはるばるこのシライの町まで来てくれている日本の方に、こうして会えることだけで十分ではないか。それだけでも私たちは幸せではないのか」

シライの町とは、バコロドの隣町であり、そのシライに日本軍のネグロス島本部があり、そこから、日本軍が壮絶な戦いをする、マンダラガン山は、すぐ目の前である。

ネグロスにおける戦闘は、フィリピン第三の激戦地として知られる。
マニラのルソン島、レイテ島に次ぐ。

軍属の総数は、14000名であり、生き残った者は、600名程度である。

一部在留邦人の非戦闘員の痛ましい死もある。

更に、遺骨が内地の遺族に戻ったのは、僅かに、数十柱であり、その他の遺骨は、マンダラガン山中の、樹海の底に放置されたままだった。

生き残り、捕虜となった兵士が、帰国する際に、多くの戦友の遺骨を見捨てることに対して、慙愧の念を強く抱き、涙して帰国したと言う。

戦闘は、ネグロスの名峰の三山、シライ、マンダラガン、クワンラオンの山中である。

三山の中央に悠然と位置する名山。そのマンダラガンの山頂に、今、私は立っている。平和はまだまだ遠いというのに、自分の足で山頂を踏みしめている。悲しい現実の中で、やっと思いはかなえられた。それにしても、この日まで、なんとも長い月日であった。
池 平八

副官をはじめ、ネグロスの守備隊の第百二師団の将と兵は、死を賭してこのマンダラガンの頂上を目指した。しかし、そこにあったものは戦死と戦病死と餓死であった。死をかけてまでも、なぜ、マンダラガンに登らなければならなかったのであろか。己の行く手に死が待っているというのに、人々は先を争うようにしてこの山に向かったのであった。
だれがこの決死の競技を企てたのであろうか。なんと無謀なことをしたものだ。何万もの戦友が落伍し、挫折して最期を遂げたというのに・・・

私が、仙人峡の深い密林の独房にただ一人取り残され、歌い続けたある歌は、多くの戦死者への、餓死者への、鎮魂の挽歌であったのか。

遥か西に向かって、ゆるやかな裾野の先にシライの町がある。海岸には南の国の黒潮が寄せているというのに、山の頂上は寒風が吹き荒れ、冷たい霧雨がほおを流れ落ちる。
ああ、一時も忘れ得ぬ思い出多き日本。故郷の山河、故郷の人の心の温かさが足元の大地の底から伝わってくるようだった。
池 平八

引用は、これで止める。

先の、案内役の青年の言葉に関して、私は、別の感慨を持つ。
三百年のスペインの植民地時代によって、フィリピンは、バラバラに分断され、伝統を破壊され、すべてをキリスト教によって、まとめられた。

偉大な、精神文明・・・
嘘である。

そして、アメリカがもたらしたもの・・・
軽薄な、精神文化である。
フィリピンの島々にある、伝統の方が、実に深く、実りあるものだった。

スペインも、アメリカも、フィリピンのすべてを、奪ったのである。

残していったものは、争いの種である。
特に、根強いものは、宗教対立である。

元からの、イスラム教徒を、カトリックは、平然として、虐殺した。
それが、ミンダナオ島の、反政府組織となった。

今年、はじめて、その反政府組織と、政府の間で、和平の調停が整った。そこに、日本が最初から、アドバイザーとして存在していた。
日本の仲介を求めたのは、反政府側である。

仲介に、宗教の国々では、話にならないと、宗教色の無い、日本を選んだのだ。

さて、今回、私は、ネグロス島だけに留まらず、フィリピン戦線にて散華した、すべての日本兵の追悼慰霊を、ネグロスにて行おうと決めて、出掛けた。

それは、今までの、追悼慰霊六年間の、締めくくりでもあるという、意識だ。
更に、これからも、死ぬまで続けて行く覚悟であり、七年目からは、また再度、慰霊地を訪ねて、追悼慰霊の儀を執り行いたいという、決意である。

準じて、尋ねる国と地域の人たちに、衣類支援と、孤児たちには、食糧支援をするという、決意である。

これを、人生最期の希望として、生きる。
更に、忘れた兵士たちの思いを、人々に伝えることである。
歴史は、我が心の内にある。




posted by 天山 at 05:48| 平成25年ネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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