2012年11月29日

平成24年ネグロス島へ14

その夜は、日本食堂に出かける予定だったが、疲れて止めにした。
その店は、スエヒロといい、一番古い日本食の店である。

ネグロス島戦記を読むと、その店のことが、書かれていて、兵士たちが休みの日に、船でイロイロに向かい、その店で日本食を食べた、国を思ったとある。

そこで、私も、その店に行こうと思った。
が、それは、明日の夜にすることにした。
更に、ホテルも明日、変更することにした。

別の街角に立ってみたいという思いだ。

だが、夜も、地元の食堂に出た。
ホテル付近には、多くの食堂がある。
勿論、安い食堂である。

ホテル並びの店は、スープがサービスでついていた。
そのスープーが、少し酢が入り、美味しいのである。

おかずを、二品と、ごはんである。
それで、十分。
二人で、120ペソ、240円である。

部屋に戻り、明日移るホテルを探す。
私が電話をした。
何となく、通じた。
部屋はあるということだ。

だが、翌日、そのホテル、ペンションといった方がいいゲストハウスは、すべての部屋が、窓の無い部屋で、水シャワーしかない。
これでは、駄目だと、別のホテルを探す。

そして、見つけたのが、モロ教会近くの、矢張り、古いホテルだった。
850ペソと高いが、部屋が広くて、それだけで私は満足した。

コータが、ここは、幽霊ホテルだという。
何せ、泊り客が私たちしかいないという。

四階建てだが、ホテルは、二階部分だけであり、その上の階は、何とも廃墟だという。きっと、昔は、上の階もホテルとしていたのだろうが、今は、二階のみを使っているようだった。

教会の前は、公園がある。
それが、多くのストリートチルドレンと会うのに、良かった。

昼に移って、早速、ストリートチルドレンと出会った。
そして、まず、三人の子供たちに、昼ご飯を食べさせた。

食堂に連れて、食べさせる。
最初は、入るのに、躊躇していたが、店の人が呼び込んでくれて、子供たちが入って来た。
好きなおかずを選ばせて、ご飯を貰う。
私は、何も食べずに、彼らの食べるのを見ていた。

そうして、一人、二人、三人と、それぞれのグループの子供たちに、昼飯をご馳走した。

学校に行かない子は、英語が全く話せないので、身振り手振りでの会話である。

中には、英語が出来る子もいた。
親は、いないが、兄弟は、大勢いると言う。
だが、その兄弟にも、頼れないのである。

子供たちに食べさせた後で、私も、食堂で食べた。
その近辺の人たちとは、急速に、親しくなった。

皆、食堂にテレビを見に来たり、タバコをふかしに来ている。

近くにスーパーもあり、買い物も、出来た。

夕方まで、部屋で休むことにする。
コータとは、別行動である。
そして、相変わらず、部屋の戸を少し開けていた。

その夜、漸く、日本食の、スエヒロに出掛けることが出来た。
ジプニーに乗って出掛けたが、何と、スエヒロは、ホテルの一階にあった。
ホテルは、それなりの、高級ホテルである。

値段を見て、高いと驚く。
更に、私が考えていたスエヒロと違う。

その店には、昔のセピア色した、スエヒロの写真が、飾られてあった。
つまり、スエヒロは、名前を残して、無くなったのである。
日本食イコールスエヒロということで、ホテルが、その名前を買ったということである。

昔の話を聞けると思ったが、違った。
誰も、昔の話を知らない。
ボーイたちは、若者であるから、なお更である。
少し、がっかりした。

980ペソで食べ放題だと言われた。つまり、2000円である。
食べ放題を食べるほど、気力は無い。
単品で注文した。
天ザルうんどんにした。
コータは、親子丼である。

私には、高級店は、窮屈である。
だが、日の丸のついた、バックを下げているので、日本人だと、解る。
サービスが日本のようである。

食べ終わり、早々に、ホテルに戻ることにした。
ちなみに、ホテルフロントに行き、最低の部屋の料金を尋ねると、一泊、1500ペソ、3000円である。
ああ、こんなホテルには、泊まれないと思う。

昔話の期待は無くなり、ジプニーに乗って、ホテルに戻った。
今ひとつ、何か物足りないのであるが・・・

今夜と、明日の夜で、イロイロから離れる。
もう、マニラに一泊して、日本に帰国するのである。
あす、一日で、出来る得ることをする。

子供たちに、食事させることだ。




posted by 天山 at 06:12| 平成25年ネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月30日

平成24年ネグロス島へ15

翌日、イロイロ最後の日、私は近くのモロ教会に出掛けた。
スペイン統治時代に建てられた、古い建物である。

そこで、教会に入ろうとしたが、表門が開いていない。
そこで、裏側に回った。
それが、幸いした。

教会に入る扉が見当たらない。
その教会の裏に住む人に声を掛けた。
すると、何と、日本語で返事をされた。

わたし、すこし、日本語できるよ・・・
出て来た人は、女性だった。
昔、日本で働いていたよ・・・

その夫も、一緒だった。
とても、礼儀正しい。

教会に入れますか・・・
ああ、入れますよ、案内します・・・

そこで、彼女に連れられて、逆の方向に向かった。

もし、そのまま、私が逆の方向に行って、教会の中に入れば、それからのことは無かったのである。

彼女は、教会の中に案内してくれた。
そして、説明した。

聖堂の祭壇の真ん中の像が、聖母アリアの母の、アンナの像であること。
そして、マリアの像が横にある。
実に、巧みな、聖堂であった。

聖母の母が、真ん中にある。
そして、マリアの像である。
十字架が無い。

カトリックは、その地に合わせて、崇拝の対象を変えたのである。

母の母を祭ることで、母なる教会を意識させる。
これは、カトリックの独特の手法である。

それでは、イエスの像というと、聖堂の後ろにある。
それも、黒いイエス像である。
その地方の人の肌に色に合わせた色なのである。

これ以上は、説明しない。

さて、次ぎに彼女は、私を司祭のいる場所に連れた。
神父様に会わせるというのである。
この教会には、一人しか、司祭がいないと知る。

この巨大な教会に、一人の司祭である。
ということは、大変なことである。

案の定の、司祭は多忙だった。
その事務所で、少し待たされた。
司祭のスケジュールが、黒板に書かれている。
予定が、びっしり。

それでも、私に会うという。
光栄である。

その日は、特に暑い日だったので、事務所で待つことにした。
隣が司祭の部屋である。

呼ばれた。
快く、司祭が私を迎え入れた。
たどたどしい英語で、私は挨拶した。
そして、フィリピンにて活動していることを言う。

司祭は、アントニオ神父と言った。
とても、感激してくれた。
神父は、修道会の司祭ではなく、教区司祭である。
つまり、司教の下にいる司祭である。

私は、カトリックの洗礼名で名前を言う。
ミカエル、マイケルである。

少し、話しをした。
そして、忙しい中を会って下さったことを感謝すると、神父は、お会いして大変嬉しいと、言う。

私は、信者が求めるように、祝福を求めて手を合わせ、頭を垂れた。
アントニオ神父は、私を祝福した。

神父様、ありがとうございます。お会いできて、嬉しいです。また、イロイロに来ますと、言った。
また、会いましょう・・・
神父は、そう言って、私を送った。

カトリックに会えば、カトリックに。イスラムに会えば、イスラムに。私の信条である。
勿論、私は、カトリックの洗礼を受けているので、カトリックと言っても間違いないが・・・

私は、キリスト教徒であり、イスラムであり、バリヒンドゥーであり、ブデッストであり、古神道であり・・・
気違いといわれても、それでいい。

宗教による、争いを最も忌むものである。

我が国の宗教というものは、無い。
日本は、宗教の国ではないのである。
日本は天皇を戴く伝統の国である。
その意識で、宗教に対する。

そこにいた人たちは、皆々、親切だった。

私は、ロザリオを買った。
友人に差し上げようと思った。

スペイン統治時代から、フィリピンは、カトリックの布教がついて回ったのである。
そして、今は、伝統になっている。
それを否定する何ものも無い。

幸福感というものは、人それぞれである。
だから、私は、どの宗教に対しても、否定はしない。

相手の大切にするものを、私も大切にする。
だから、話し合いが出来る。

この姿勢は、日本人なら、ある意味で、簡単に出来る行為である。
相手の信じるものを、否定することなく、日本人は、対応出来るのである。


posted by 天山 at 00:00| 平成25年ネグロス島へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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