2012年10月23日

もののあわれについて587

源氏「かう何やかやと聞ゆるをも、思す所やあらむとややましきを、かの大臣に知られ奉り給はむことも、まだ若々しう何となき程に、ここら年へ給へる御中にさし出で給はむことはいかが、と、思ひめぐらし侍る。なほ世の人のあめる方に定まりてこそは、人々しう、さるべきついでもものし給はめ、と思ふを、宮は一人ものし給ふやうなれど、人柄いといたうあだめいて、通ひ給ふ所あまた聞え、召人とか、憎げなる名のりする人どもなむ、数あまた聞ゆる。さやうならむ事は、憎げなうて見なほい給はむ人は、いとようなだらかにもて消ちてむ。少し心なくせありては、人にあかれぬべき事なむ、おのづから出できぬべきを、その御心づかひなむあべき。大将は、年へたる人の、いたうねびすぎたるをいとこがてら求むなれど、それも人々わづらはしがるなり。さもあべい事なれば、さまざまになむ人知れず思ひ定めかね侍る。かうざまの事は、親などにも、さわやかに、わが思ふさまとて、語り出で難き事なれど、さばかりの御よはひにもあらず、今はなどか何事をも、御心にわい給はざらむ。まろを、昔ざまになずらへて、母君と思ひない給へ。御心に飽かざらむことは心苦しく」など、いとまめやかに聞え給へば、苦しうて御いらへ聞えむともおぼえ給はず。




源氏は、このように、色々と申すのを、不思議に思われるかと気になるが、あちらの大臣に、こうと知られるにしても、まだ若くて、何も知らない年頃で、長い間、会わずにいた兄弟の中に入るのは、どんなものかと、思案しています。やはり、普通の女の落ち着く先に落ち着いてこそ、一人前で、適当な機会もあると思うが。宮は独身でいるが、人柄が酷く浮気で、通っている女も、多いとの噂だし、召人とか、嫌な名のついた女どもも、大勢いるという、話だ。そういう風な事は、憎むことがないように、大目に見る女なら、上手に、穏便に済ませられるだろう。だが、少しでも嫉妬の気持ちがあれば、主人に嫌がられてしまう事が、いつの間にか出てくるだろうし。その点は、注意が必要だ。大将は、長年連れ添った、北の方が、ひどく年上なのを嫌がるところもあり、あなたに申し込むそうだが、それも、よく言わない人も多い。最もなことだから、私は、あれこれと、人知れず、決心しかねている。こういう事は、親などにも、さらりと、自分はこうだと、言い出しにくい事だが、それほどの年齢でもないし、今は、どんなことでも、判断がつかない事があろう。私を、昔に返ったつもりで、お母様と思ってください。ご不満があれば、辛いことだなどと、真面目な言葉なので、姫は困って、返事をする気もなくなる。

昔の源氏の行動を見ていると、源氏のこの説明が、おかしい、滑稽に思えるのである。まあ、それでも、細やかに、玉葛のことを、考えているという気持ちは、伝わる。




いと若々しきもうたておぼえて、玉葛「何事も思ひ知り侍らざりける程より、親などは見えぬものにならひ侍りて、ともかくも思う給へられずなむ」と、聞え給ふさまのいとおいらかなれば、げにと思いて、源氏「さらば世のたとひの、後の親をそれと思いて、おろかならぬ心ざしの程も、見あらはしはて給ひてむや」など、うら語らひ給ふ。思すさまの事はまばゆければ、えうち出で給はず。けしきあることばは時々まぜ給へど、見知らぬさまなれば、すずろにうち嘆かれて渡り給ふ。




あまり子供のようだと思われても嫌だと思い、玉葛は、何も解らない頃から、親など、いないものだと習慣がついてしまいまして、何とも思われません、と申し上げる様子が、実に、おっとりとしているので、最もだと思い、源氏は、それでは、世間の諺に言う、養父を実の親だと思い、そういう気持ちを見届けてくれまいか、などとおっしゃる。心の底の思いは、面映くして口には出せない。意味ありげな言葉は時々言うが、気づかない様子なので、何となく、ため息をついて、お帰りになる。

けしきあることば
心の中を示すような言葉である。

一体、源氏は、何を考えているのか・・・
玉葛をものにしようとしているのか・・・
ものにしようとしているのである。




御前近き呉竹の、いと若やかにおひたちて、うちなびくさまのなつかしきに、立ちとまり給うて、

源氏
ませのうちに 根深くうえし 竹のこの おのが世々にや 生ひわかるべき

思へばうらめしかべいことぞかし」と、みすを引き上げて聞え給へば、いざり出でて、

玉葛
今さらに いかならむ世か わか竹の おひはじめけむ 根をばたづねむ

なかなかにこそ侍らむ」と聞え給ふを、いとあはれと思しけり。




お庭の呉竹が、大変青々と伸びて、風になびいている姿が、嬉しく、歩みを留めて、

源氏
家の奥で、大切に育てた娘も、それぞれ伴侶を得て、出て行くわけか。

思えば、恨めしく思うことだ、と、御簾を引き上げて申すと、玉葛が、にじり出て、

玉葛
今になり、どんな場合に、生みの親を探すことができるでしょう。

かえって、困りますことでしょう、と申し上げるのを、実に、可哀想だと思うのである。

いとあはれと思しけり
この、あはれ、は、憐れの思いである。




さるは心のうちにはさも思はずかし。いかならぬ折聞え出でむとすらむ、と、心もとなくあはれなれど、この大臣の御心ばへのいとありがたきを、おやと聞ゆとも、もとより見なれ給はぬは、えかうしもこまやかならずや、と、昔物語を見給ふにも、やうやう人のありさま、世の中のあるやうを見知り給へば、いとつつましう、心と知られ奉らむ事は、かたかるべう思す。




実のところ、姫は、心中では、そう思っていないのだ。いつになったら、おっしゃって下さるのか、と、気が気ではなく、心を痛めるのだ。この大臣のお心の、並々ならぬ思いを、実の親でも、最初から一緒ではないと、とてもこれほどに、可愛がってくれないだろうと、昔物語を見ても、次第に、人の様子も、世の中の有様も、解ってくるので、とても遠慮して、自分の方から、知っていただくことは、難しいと思うのである。

何とも、人の心の、微妙な状態を、こうして、延々として書くのである。
源氏物語の、大きな特徴は、これである。

心もとなくあはれなれど
実に、漠然としている語意であるが・・・
それが、物語全体を包むのである。

物語全体が、もののあはれ、なのである。
つまり、心の綾、微妙繊細な心模様なのである。

そして、それに風景が着く。
自然の風景自体も、あはれ、の中に納まるのであるから、不思議だ。

一体、源氏と、玉葛は、何を思いあっているのか・・・
それが、先に進むと、解ってくるのである。

心の綾の、推理小説である。




posted by 天山 at 03:53| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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