八郎為朝の猛攻撃に対して、寄手は、火を着けた。
上皇方は、あっけなく、敗れた。
先制攻撃の夜討ちを主張したのが、為朝だったが、頼長が、頑固で融通が利かないために、実行されなかったのである。
天皇方は、少納言入道の信西という者が、関白忠通を補佐して、義朝の先制攻撃案に賛成した。
そして、敵は朝敵です。朝敵征伐である、と激励した。
確かに、天皇に楯突く者は、朝敵である。
戦の世を通して、この朝敵という言葉が、いかに重大な言葉になったか・・・
天皇を敵にしてはいけないのである。
それが、日本の伝統である。
崇徳上皇は、馬で如意山に、お逃げになった。だが、再び京に戻り、知足院にて剃髪し、仁和寺にお入りになり、仏門に入る。
しかし、讃岐へ流されることになった。
9年後に、同地で崩御された。
その皇子、重仁親王も、出家された。
頼長は、戦いの流れ矢で死ぬ。
為義は、為朝の諫言を無視し、義朝を頼り、降りた。
平忠正も甥の清盛を頼り、降りた。
しかし、清盛は、忠正を斬る。
これでは、義朝に功労があっても、父為義や、弟たちを斬らねばならない。
止む無く、家来の鎌田政家に斬らせたのである。
ただ、為朝だけは、逃げた。
しかし、間もなく、捕らわれ、伊豆の大島に流罪である。
ところが、為朝は、二条天皇の御代、小舟で琉球に渡り、琉球王となった。
それから、第八十代高倉天皇の御代に、追っ手がかかり、これまでと、立ち腹斬って死んだといわれる。
以上は、保元の乱といわれるものである。
だが、引き続き、平治の乱が起こる。
後白河天皇は、ご在位4年で、第七十八代の二条天皇、1158年より1165年、にご譲位され、上皇として、院政を始められた。
相談相手には、少納言入道信西がいる。
また、臣下には、藤原信頼がいたが、入道信西と、ことごとく、ぶつかるのである。
信頼は、中納言に右衛門督にまで昇格した。が、更に、その上を望むのである。
そこで、上皇に申し出る。右近衛大将に任じてください、と。
上皇は、入道信西に相談される。
すると、反対である。それが、信頼にも、聞えた。
信西憎いとなる。更に、天皇臣下の中にも、反信西がいたのである。
それらが、信頼の味方についた。
だが、信西には、平清盛が楯になっている。
更に、義朝も、信西に恨みを持つ。やがて、義朝も、信頼の味方になる。
平治元年、1159年、12月4日。
清盛が、その子の重盛らを連れて、紀州熊野へ出掛ける。
そこで、信頼方の軍が、上皇の御所三条殿を囲んだ。
狙いは、入道信西である。
しかし、彼は逃走していた。
それを知らぬ、包囲軍である。
まず、上皇を車にお乗せして、皇居の一間にお移しする。
三条殿に放火し、信西を探すが見つからないのである。
そこで、信頼は、二条天皇も、一間に押し込めてしまった。
これでは、暴虐の罪である。
しかも、信頼は、その夜から御所にあって、天皇と上皇を擁して、政権を握ったのである。
入道信西は、大和の田原まで逃げ、穴を掘り隠れたが、自殺する。
追っ手は、その首を持ち帰り、京の西の獄門に晒した。
さて、義朝の長子、義平が豪傑に、清盛を帰路に待ち受けて、斬るという。
ところが、信頼が、都に戻った時に、討てばよいと、言う。
一方の清盛は、早馬で京の急を知り、引き返した。
17日である。
信頼のバカさ加減に愛想尽かしをした者、大勢が清盛に寝返る。
そのゆえに、25日夜、清盛は、天皇を一間から救う。
上皇も御所を抜けられた。
信頼は、それを翌朝知る。
天皇と上皇は、六波羅の清盛邸におわす。
宮廷臣たちは、六波羅へ急ぐ。
ついに、朝敵征伐の詔、みことのり、が清盛に下る。
平家の大将は、重盛と頼盛であるが、一端逃げた。それは、計略である。
御所を火にしてはいけないということだ。
信頼、義朝軍をおびき出して、その後で、平家一門の味方を入れ替える。
この時に、六波羅まで押し寄せた源氏一門の中で、朝敵になることを嫌い、頼政、光保、光基などは、六波羅を攻めていない。
そのため、義朝軍は、敗れる。
御所は、平氏の一隊に占領されている。
義朝軍は、進退窮した。
義朝は、義平、頼朝らと京を逃れた。
信頼も、同行を求めたが、義朝に鞭で打たれたとある。
都に引き返し、上皇にすがるが、清盛が許さず、六条河原で、斬られた。