2012年10月08日

天皇陛下について132

僧兵鎮圧に、源義家も功績があり、京では有名であった。
その後は、義家の子である義親が、対馬守、つしまのかみ、として、任国にいた時に、朝廷の命を奉じない事態があり、隠岐島へ流された。

だが、義親は、この処罰は不当であると島を抜けて、出雲に入り、その国司を追い払い、猛威を振るった。
朝廷が、討伐使として命じたのが、平正盛である。

義親は、朝敵となったのである。
ここに、源氏の勢いが衰える原因がある。

それに代り、平氏が次第に盛んになるのである。

正盛は、白河法皇の信頼厚く、北面の武士となった。

義親討伐の後に、諸国の国司を任じられて、富を貯え、僧兵や海賊の鎮圧でも、功績を上げた。

官位も登り、更に、その子の忠盛、これは清盛の父親であるが、出世する。

この忠盛が、父親以上に、白河法皇のご信認を得る。
更に、次の鳥羽上皇が、白川法皇に続いての、院政の時期、更なる信認を得るのである。

但馬守から、刑部卿に上がり、昇殿を許されることになる。
昇殿とは、天皇の常の御殿である、清涼殿の上に足を印すことである。

これが許されるのは、殿上人といわれて、尊ばれた。

本来、武士は、鎮守府か、兵衛府、検非違使の武官になるか、地方の国司である。
八省の卿となり、昇殿を許されることはなかったのである。

平忠盛は、武士として初めて、昇殿を許された者である。

それに対して、殿上人が、妬み、闇討ちを企んだが、前もって、それを知り、うまくかわした。それがまた、上皇のご信認を厚くした。

忠盛は、宮中の礼儀などにも詳しく、諸国の国司のほかに、密かに海外貿易も行っていた。それは、平清盛にも受け継がれる。

後に、多いに栄える、基礎を築いたといえる。

第七十六代、近衛天皇、1141年より1155年。
その御代に、没する。
その後が、平氏の棟梁として、名高い、清盛の時代である。

さて、第七十七代、後白河天皇、1155年より、1158年。
崇徳上皇との争いが起こる。

これは、実に複雑な問題である。
その裏には、藤原氏の親子、兄弟の骨肉の争いが重なるのである。

皇室を巻き込んでのものである。

皇室を眺めると、白河法皇が、堀河、鳥羽、崇徳の三代、四十余年に渡り、院政を行う。崇徳天皇の初期に崩御された。

堀河天皇は、すでに崩御されている。
鳥羽上皇が院政を引き継がれていた。

その後、十年ほどで、上皇に皇子の誕生である。
崇徳天皇とは、御生母が違う、弟君である。

崇徳天皇ご在位17年目、御年21歳であらせられる。
上皇は、皇子を非常に大切にされた。
それが、皇子を近衛天皇の座に就けることになる。

崇徳天皇、23歳の時、父鳥羽法皇の仰せにより、御位を三歳の皇子に譲る。
この時、後鳥羽上皇は髪を剃り、法皇となる。

だが、依然、院政を続けた。

崇徳天皇は、上皇となるが、何もするべきことがないのである。
そして、14年を経た。
近衛天皇は、17歳で崩御される。

まだ、皇子がおられない。
つまり、崇徳上皇は、ご自分が、再び御位に就くか、我が子の皇子が御位に就くかと考えた。

ところが、噂が流れた。
近衛天皇の崩御は、崇徳上皇の呪いである。
実に、悪質である。藤原氏を疑う。

そして、関白である藤原忠通が、鳥羽法皇と相談して、近衛天皇には兄であり、崇徳上皇には、弟である、第七十七代、後白河天皇が即位されたのである。

崇徳上皇は、37歳である。

忠通には、近衛天皇の時代に、左大臣だった、弟の頼長がいた。
この二人の仲が特に悪い。

後白河天皇即位の翌年、四月に改元があり、まもなく、鳥羽法皇が重病になる。そして、七月七日崩御。

御父の危篤の報に、崇徳上皇が鳥羽院に向かうが、法皇の側近が、ご命令により、お入れすることは出来ませんと、言う。
法皇側は、上皇は左大臣と何事かを企み・・・
こういう噂は、皆、藤原氏からのものである。

左大臣頼通は、上皇の御子である重仁皇子を御位に就けて、わが身は、関白へと考えていたのである。

七月、頼長は、宇治の邸に引き籠っていた。
その六日、家来の源親治が京の東山で、捕まった。

八日、勅命が出た。
忠実と頼長の荘園所属の武士の上京を禁ずる。

翌日、上皇は、京、加茂川の東、白河殿に移られる。
頼長も宇治を発ち、その夜のうちに、白河殿に入る。

その時、後白河天皇方が不穏とみて、源義朝と、平清盛をはじめ、源平の武士を集めた後だった。

頼長の召集に応じたのは、清盛の叔父忠正程度である。
頼長は、上皇の近臣藤原教長を、源義朝の父為義のところへ派遣した。

しかし、上皇さまに、お味方申せば、長子義朝と戦うことになります、と、一端断るが、許されず、止む無く、四郎、五郎、六郎、七郎、八郎、九郎を率いて、白河殿へ向かう。

為義は、61歳である。
生涯最悪の場面であったという。
内輪同士の戦いである。




posted by 天山 at 00:06| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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