2012年10月05日

霊学83

アニマの持つエロス的要素の第二は、ロマンチックなアニマ像である。

第一の生物的では、女であれば誰でもいいという段階だが、ここでは、人格を持った女に対する、愛情が生じるのである。
この段階は、美的で、性的な要素によって特性づけられる。

西洋美術の女性像などがからも、想像できる。

ただし、この段階に満足できなくなる男がいる。
それは妻の他に、別に他の女に、それを求めるというもの。

妻は一家の正妻。しかし、自分のアニマ像は、別世界に求めるのである。
今の言葉で言えば、不倫、浮気の相手となる。

単なる好きモノなのであるが・・・
まあ、ユングが区分したということで。

第三は、霊的な段階となる。
これが問題である。

エロスが神聖なものに高められるという。
聖母マリアに代表される。
性的な意味合いを持たないのである。

母でありながら、処女である。母としての崇高な愛を持ち、処女の清純を持つ。
貞潔というイメージである。

そして、第四が叡智のアニマである。
第三の上にこれを置いたのは、何故か。

河合氏は、このような像が存在すること自体が、ひとつのパラドックスである、と言う。

叡智のアニマのイメージとしては、ギリシアのゼウスの頭から、鎧に身を固めて生まれたという、女神アテネである。

このことについては、これ以上の説明、あるいは、考えることを止めた方がいい。単なる妄想になる。

ユングは、普遍的無意識そのものとして、アニマを語ったというが・・・
つまり、普遍的無意識の突破口なのであろう。

ユングは、グノーシス主義の影響を大きく受けた。
つまり、オカルトである。
だから、第四のアニマのイメージを、グノーシスの女神ソフィアをよく上げている。

これは、霊学を書いているので、グノーシスについて、少し触れてみたい。
グノーシスとは、ヘレニズムの時代精神である。

われわれの紀元の初めの頃の霧のなかに神話的形象の壮麗な行列がおぼろな姿を見せている。これらの形象の巨大で超人的な像・・・それがもうひとつのシスティ大聖堂の壁と天井を埋めたとしても見劣りはしないだろう。彼らの行為と所作、彼らに割り当てられた役割、彼らの演ずるドラマのあたえるイメージは、われわれ観客の想像力を培ってきた聖書のドラマとは異なっている。だがそこには不思議な懐かしさがあり、妙に心をかき乱すものがあるだろう。
グノーシスの宗教 H・ヨナス

時は、西暦紀元前後の、地中海を取り巻く世界である。
そこから、キリスト教が生まれたが、そこには終末的な雰囲気が漂い、キリスト教の他にも、最終的な救済を求める、数多くの宗教の運動が多いのである。

アレクサンダー大王の東征に始まる、ヘレニズム時代は、ギリシャ語とギリシャ文化による、一つの統合された世界を目指していたが、その中で、それぞれの伝統を持つ、固有の精神が混合していた。
そして、更に、危機的な状態を作り上げていたのである。

その時代の、精神を最も表していたのが、グノーシス的な諸宗教である。
グノーシス主義と呼ばれる、宗教運動である。

ほとんどすべての事件は上界で、すなわち神的、天使的、あるいはダイモーン的な領域で起こる。それは超自然的世界における前宇宙的人物たちのドラマであり、自然の領域における人間のドラマはその遠く離れた反響にすぎない。・・・
神性が誘惑に陥り、至福のアイオーンのあいだに不安と動揺がまきおこる。神の迷える知恵であるソフィアはみずからの狂気の餌食となり、彼女自身が作った虚無のなかを彷徨する。彼女は果てしなき探求、悲嘆、苦悩、後悔のなかにあって、みずからの情念を物質へ、憧憬を魂へと形作る。・・・
ヨナス

対立し、矛盾するものは、言葉や論理では伝えられない。それを語るには神話的な物語によるほかはないとユングは述べているが、グノーシス派の宗教の特徴は、まず第一に、それぞれ微妙に異なるけれども、ある特殊なパターンに沿った神話を持っていることである。
秋山さと子

要するに、人間が陥る、分裂と混乱という悲惨な状態は、すでに神的な世界で始まり、必然的に、すべてを神話によって、考えることになったという訳である。

これを霊学の言い方をすれば、幽界で起こることは、人間の世界に、即座に影響を与えるということである。

ただ、グノーシス派は、それを神の世界と認識していることである。
違う。
もっと、低い霊的世界のことである。

ただ、それでも、グノーシス派の、神の世界は、人間の世界とは、全く次元の異なる世界として認識している。

神々の物語ではあるが、主題は天使の堕落や、彼らの望郷の念を描くもの。
登場人物が、すべて本来は無垢な性格を持ち、神性を持つ者である。であるから、その悲哀は、更に悲しく、しかし、人間の世界とは関わらないのである。

だが、このグノーシス派も、同じ時代に生まれたキリスト教の教父たちにより、異端として徹底的に排除され、その後は、その存在さえも知られていなかった。

キリスト教の、異端審判は、最初からキリスト教が、排他的で非寛容であることを教える。
それも、力で排除するのだから、キリスト教こそ、邪教と言わざるを得ない。

キリスト教の教義を、根本からくつがえす神話を有するグノーシス派である。
それは、実は、キリスト教も、彼らの登場人物を利用したからである。

何より、グノーシス派は、原罪を認めなかった。
それはキリスト教の、根本教義で、欠かせないものである。

その原罪意識があるから、人を支配できるのである。
原罪を許せるのは、教会以外にないという・・・
であるから、原罪というものも、キリスト教の創作である。

更に、洗脳である。
洗礼という、信者になるための秘蹟といわれる行為は、何より、この原罪を許すというものであるから、譲れないのである。

最初から、人間に罪人の意識を植え付けるという、段取りである。
呆れるとしか、言いようが無い。



posted by 天山 at 06:07| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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