2012年10月03日

霊学81

ユングの元型の概念は、その長い臨床体験と、夢分析によって出来たものである。

その中でも、影、というものは、夢分析の初期に、出る事が多い。

影、とは、本人が、恐れたり、嫌だったり、受け入れることの出来ないものを、言い表すために、ユングが作った。
また、生きられなかったところとか、本人の中にあるが、顧みられなかったという部分である。

一人の人間が生きるということは、その一人の中の、一部分を生きていると考える。それ以外の部分は、影、として隠れているのである。

更に、影、はそれゆえに、意識化することが出来ないという特徴もある。
ユングは、その、影、を悪いもの、罪なものではないと、肯定し、その人の一面であると、強調した。

ただ、影、はしばしば、他人に投影される。
ここが、生きる、生活をする、という面で問題になる。

影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも直接または間接に自分の上に押し付けられてくるすべてのこと・・・たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向・・・を人格化したものである。
ユング

われわれ人間は誰しも影をもっているが、それを認めることをできるだけ避けようとしている。影には個人的影と普遍的影とがある。前者はある個人にとって特有のもので、・・・控え目な人にとって、攻撃的なところはその人の影になっている。しかし、攻撃的な生き方をしている人にとっては、控え目なことがその人の影になるわけである。
無意識の構造 河合隼雄

普遍的影は、殺人などのように、人類共通のもので、悪の概念に近いもの。
個人的影の存在を認め、それを自我に統合してゆくことも難しいが、普遍的影は、不可能である。

自分の影の存在を、認めたくないために、色々な方法を用いるが、投影の機制は、よく用いられる。

これは、先ほど言った、他人に、影を投影させる。
ある人に対して、持っていた感情が、実は、我自身のものであったというものである。
だからこそ、それを強く感じるのである。

私の中にあったものだから、より強く相手に投影するのである。

私も、よくよく考えることが、ある。
相手に腹の立つ時、その相手の欠点が、実は、わが身の欠点であるという、気づきである。

嫉妬の感情なども、そうである。
自分が本当はやりたいことを、他人がしている。
その他人を批判することで、つまり、自分の影を投影することで、解消する。

だが、それでは、いつまでも、終わらない迷いの中を生きることになる。
そこで、投影のひきもどし、という行為が、人格の成長のために、必要だと、言われる。

相手に投げた、感情を引き戻して、わが身を観るという、行為である。

もう一つは、影の肩代わり、という、行為である。

それは、自分の身代わりに、近くの者が、肩代わりするというもの。
あまり、書きたくないが、立派な親に育てられた子どもが、全くその逆だったりと・・・

立派な人格者である父親の息子が、数々の悪行を重ねるのである。
つまり、親の影を、肩代わりしているのである。

目に見える、一番近くの人に、投影させるのが、最も簡単であり、解消させやすい。
だから、家族が、その犠牲になったりする。

思春期の反抗などは、それに近い。
親から自立しようとする時、親に対して、否定的になり、自分の影が、親に投影される。

だが、親に投げ掛けた影を、自分の方へ引き戻し、影の自覚と共に、自立的に行動し始める。
それが、成長である。

更に、影が強くなり、自我が、影の侵入を受けると、神経症になる。
それが、強力に行われると、発作的な行動を起こしたり、自殺に追い込まれたりする。

更に酷くなると、影も、一つの人格のように行為する。

臨床の場では、二重身体験に悩む人が現れる。
その名の通り、二つの体を持つというのである。

そうなると、専門家の力が必要である。

二重人格とういうものもあるが・・・
同一人物の中で、二つの人格が交互に現れるものである。

それも、元をただせば、その人の影なのである。
多くの例では、全く対照的な人格になっている。

では、どちらが正しいのか・・・
どちらも、正しいのである。

だが、夢の中では、何でもありだから、二重人格も三重人格もある。

そして、影はまた、使いようでもある。

影はたしかに暗い存在である。しかし、それのもつ逆説的な性質をもっとも端的に示すものとして、トリックスターがある。
河合

トリックスターとは、世界中の神話、伝説の中に登場して活躍する、いたずらもの、である。
策略にとみ、変化自在、破壊と建設の両面を持つという。

その存在は現存する組織をおびやかすものではあるが、それは常に新しい思いがけない結合を呼び起こし、既存の組織のもつ単層性に対して、多くの可能性を示唆し、その重層性を明らかにする。ある体制が、どの程度にトリックスターの存在を許容しうるかによって、それがどの程度に自ら改革し、進歩してゆけるかを測ることができる、とも言うことができる。自らの許容度を越えてトリックスターが活躍するとき、そこには収拾不能な混乱が生じることになろう。
河合

実に、示唆に富んだ、考え方である。
個人の中においても、それは、可能であろうと、思う。




posted by 天山 at 05:19| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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