2012年10月01日

神仏は妄想である389

神道の堕落は、欽明天皇の仏教伝来からはじまる。
ここで言う、神道とは、神社神道のことである。

538年、百済の聖明王が、欽明天皇に仏像を献上したことから、はじまる。

仏教を受け入れる云々に関しては、推古天皇の時に、豪族たちの戦いによって決着した。結果、蘇我馬子が勝ち、聖徳太子といわれる皇子が、仏教を全面的に受け入れて、根を下ろすことになった。

最初は、外国の神という、意識の仏であった。

日本の神とは、共存を許されないという、考え方が支配的だったが・・・
神道を奉じていた家柄が、仏教勢力に滅ぼされることで、以後の日本に、仏教が大きな位置を占めることになる。

その仏教が、神道と結びついて、できたものが、両部神道、山王一実神道、さんのういちじつしんとう、である。

これは、明らかに、仏教系の神道である。
奈良の初期から、明治維新に至る、神仏分離の時まで続いたのである。

つまり、神仏習合である。

インドで発生した仏教も、変転を繰り返し、大乗仏教になると、インドの神々を仏教を守護するものとして、神の位置を、仏の下に置いた。

同じように、日本でも、仏教の勢力が拡大するにつれて、神道の神々を仏教の下に置くという、考え方が現れた。

それは、神道の神々は、仏や菩薩を守る守護神であるというもの。
そして、仏や菩薩が、人々を救うために、神の姿を取るというもので、本地垂迹説といわれるものである。

全く、人間の考え出したことである。
神と仏は、同一である。
明らかに、誤りであり、妄想である。

平安初期になると、奈良仏教の堕落から、新たな国家仏教の最澄の天台宗、そして、空海の真言宗が成立する。

この両派は、何と日本の従来の神々を摂取、包括するという手段で、それぞれの仏教体系を形成してゆくのである。
思いつきも、いいところである。

最澄は、延暦寺を開くにあたり、地主神、つまり土地の神を祀り、天台の守護と発展を祈願した。

空海も、真言宗を創建するにあたり、鎮守の社として、丹生都比売社、にふつひめしゃ、を祀ったのである。

天台宗の神道の考え方を、山王一実神道と呼び、真言宗の考え方を、両部神道と呼ぶことになる。

それ以前に、両者が学んだ、中国の仏教自体、大乗仏教の更に亜流である、密教であるから、最初から誤りなのである。
だが、朝廷、天皇の加護により、その教えが広がる。
そこには、奈良仏教界の堕落甚だしいことが、上げられるのだが・・・

稀代の詐欺師、空海が考え出した、伊勢神道と、密教の合併は、その神道を密教によって、解釈するというものである。

両部というのも、密教の、金剛、胎剛の、両界から取られている。

伊勢神宮の、内宮、天照大神を、胎剛界の大日如来とし、外宮の、豊受大神を、金剛界の大日如来の、象徴とした。
その両方が、合体して、大日如来の顕現たる、伊勢神宮を形成しているという、大嘘である。

明らかに、空海の野心が見えるというものである。

更に、神々を仏教の悟りの三段階に分けて、区別するという・・・
呆れた行状である。

最も、悪質なのは、神道曼荼羅なるものを、作り上げたことである。
そして、神像というもの。

神道には、一切そのようなものは、無い。
必要無い。
堕落以外の何ものでもない。

これは、鎌倉時代に確立したといわれる。
更に、驚くべきは、陰陽道の呪術も取り入れつつ、真言宗系の寺院、関係する神社を中心に、神仏習合の祭祀を行ったというから、呆れる。

明治維新まで、何と、社僧が神の供養のために、お経を唱えていたというから、更に呆れる。

野心のある者は、この方法に目をつけた。
日蓮もその一人である。

神前で、法華経を上げるというもの。
更には、法華経により、神道の清め祓いも行う。

節操も何も無いのである。

まあ、神道系と仏教系の間で、争いが無いというのが、救いである。
だが、それは神道、神社神道を堕落の一途に貶めたのである。

社僧という存在も、神社の僧侶という意味で、呆れるのである。

言霊、音霊を正しくすべき、神道が、密教の雑音である、陀羅尼などを平然として、受け入れていたということに、驚きを隠せない。

兎に角、暫く、この仏教との関わりにおける、神道の堕落を俯瞰してみる。

時代、時代によって、宗教も変化して行くというのは、理解出来るが、肝心なものを明け渡して、変化も何も無いのである。
それは、堕落なのである。

posted by 天山 at 05:54| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月02日

最後の沈黙を破る67

何にでも、興味がある。
それが、また、年を経るにつれて、更に増した。

沢山のメルマガを取って読む。
知らない世界がある。
そして、一つの知識として生かす。

更に、余計な迷惑メールも多い。
消去していた。
が、ふっと、一つ、二つに乗ってみようと思った。

まず、競馬予想である。
無料情報が、一ヶ月配信されるというので、千円程度を入金して・・・

即座に電話がきた。
私の担当者であると、言う。

競馬・・・
全く解らないのである。
そのことを言うと、素人さんが会員に多いとのこと。

そして、兎に角、次のレースを見てくださいとの進言。
その際に、何番から、何番の馬に注目してください。

はじめて、テレビで競馬を見た。
感想は、フロイトの言う、性的リビドーに溢れていた。
女性なら、入れ込めば、失神するだろうと、思った。

そして、翌日、担当者から、電話がきた。
これからが、詐欺の見せ所である。

何番から、何番の馬を見て、解りましたか?
全然解りません・・・
その中で、何番と、何番と、何番が、一位、二位、三位だったでしょう・・・
ええ・・・それは、解りました・・・

私の言った通りでしょう。
そうですね・・・
ですから、あらかじめ、順位が決められている、レースがあるのです。
はぁ・・・

そして、専門用語が続く説明・・・
そうなんですか・・・としか、言えない。知らないのである。

それで、その情報を得るために、ハイクラスの会員になり、儲けてください。皆さんは、年収、2500万円ほどを得ています。更に、それらをボランティア活動などに利用したりしています。

実に、巧い。

電話を切った後で、私は、もう一度、電話で話した内容を、吟味した。
そして・・・
ああーーー詐欺だと、気づいた。

今度は、私が電話をした。
担当者を呼び出した。というより、その本人が、声色を替えて、出ている様子なのである。
最初は、高めの声で・・・少しお待ちください・・・

そして、少しして、それが、元の声で、はい・・・

見え見え。
あのーーーさきほどの電話で、あなたは、一位、二位、三位と、言ったとおりですと、言いましたが、あなたは、それを言っていませんよ。
すると、そうですね・・・
カウンセラーのように応える。

つまり、詐欺ですね、と、私が言うと、笑う・・・
決して、焦らない・・・頑張っている。

それでは、もう二度と、情報は、いりません。
結構です。

電話を切ると、何度か、電話がきたが・・・取らない。
すると、メールである。
何か勘違いされていると思いますので・・・云々

そして、何と、私の名前を途中から、間違えて、他の客の名前を書いて、それでは・・・

それを指摘して、私は、これ以上しつこくすれば、近くの警察署に届けますと、書いて送った。

焦りが、メールに出ていたのである。

予想屋詐欺である。

そして、私は、次の挑戦をした。
今度は、ロト6の予想屋である。

千円ほどの、入会金を払い、無料情報を一ヶ月。
すぐに担当者から、電話がくる。

無料情報は、千円程度しか当らない。
ハイクラスの会員になり・・・
そして、会費を払わせて・・・

同じ繰り返しである。

トロ6は、知っているので、二度やってみたが・・・
全く当らない。

担当者との、やり取りは、相手の年齢を聞きだし、更に、給料は幾ら・・・と、尋ねてみた。
そんなことは・・・
言えないようである。
それで、私も、お終いにした。

これで、皆、やられるとは・・・
おバカとしか、言いようが無い。
そして、次は、出会い系サイトである。


posted by 天山 at 05:33| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月03日

霊学81

ユングの元型の概念は、その長い臨床体験と、夢分析によって出来たものである。

その中でも、影、というものは、夢分析の初期に、出る事が多い。

影、とは、本人が、恐れたり、嫌だったり、受け入れることの出来ないものを、言い表すために、ユングが作った。
また、生きられなかったところとか、本人の中にあるが、顧みられなかったという部分である。

一人の人間が生きるということは、その一人の中の、一部分を生きていると考える。それ以外の部分は、影、として隠れているのである。

更に、影、はそれゆえに、意識化することが出来ないという特徴もある。
ユングは、その、影、を悪いもの、罪なものではないと、肯定し、その人の一面であると、強調した。

ただ、影、はしばしば、他人に投影される。
ここが、生きる、生活をする、という面で問題になる。

影はその主体が自分自身について認めることを拒否しているが、それでも直接または間接に自分の上に押し付けられてくるすべてのこと・・・たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向・・・を人格化したものである。
ユング

われわれ人間は誰しも影をもっているが、それを認めることをできるだけ避けようとしている。影には個人的影と普遍的影とがある。前者はある個人にとって特有のもので、・・・控え目な人にとって、攻撃的なところはその人の影になっている。しかし、攻撃的な生き方をしている人にとっては、控え目なことがその人の影になるわけである。
無意識の構造 河合隼雄

普遍的影は、殺人などのように、人類共通のもので、悪の概念に近いもの。
個人的影の存在を認め、それを自我に統合してゆくことも難しいが、普遍的影は、不可能である。

自分の影の存在を、認めたくないために、色々な方法を用いるが、投影の機制は、よく用いられる。

これは、先ほど言った、他人に、影を投影させる。
ある人に対して、持っていた感情が、実は、我自身のものであったというものである。
だからこそ、それを強く感じるのである。

私の中にあったものだから、より強く相手に投影するのである。

私も、よくよく考えることが、ある。
相手に腹の立つ時、その相手の欠点が、実は、わが身の欠点であるという、気づきである。

嫉妬の感情なども、そうである。
自分が本当はやりたいことを、他人がしている。
その他人を批判することで、つまり、自分の影を投影することで、解消する。

だが、それでは、いつまでも、終わらない迷いの中を生きることになる。
そこで、投影のひきもどし、という行為が、人格の成長のために、必要だと、言われる。

相手に投げた、感情を引き戻して、わが身を観るという、行為である。

もう一つは、影の肩代わり、という、行為である。

それは、自分の身代わりに、近くの者が、肩代わりするというもの。
あまり、書きたくないが、立派な親に育てられた子どもが、全くその逆だったりと・・・

立派な人格者である父親の息子が、数々の悪行を重ねるのである。
つまり、親の影を、肩代わりしているのである。

目に見える、一番近くの人に、投影させるのが、最も簡単であり、解消させやすい。
だから、家族が、その犠牲になったりする。

思春期の反抗などは、それに近い。
親から自立しようとする時、親に対して、否定的になり、自分の影が、親に投影される。

だが、親に投げ掛けた影を、自分の方へ引き戻し、影の自覚と共に、自立的に行動し始める。
それが、成長である。

更に、影が強くなり、自我が、影の侵入を受けると、神経症になる。
それが、強力に行われると、発作的な行動を起こしたり、自殺に追い込まれたりする。

更に酷くなると、影も、一つの人格のように行為する。

臨床の場では、二重身体験に悩む人が現れる。
その名の通り、二つの体を持つというのである。

そうなると、専門家の力が必要である。

二重人格とういうものもあるが・・・
同一人物の中で、二つの人格が交互に現れるものである。

それも、元をただせば、その人の影なのである。
多くの例では、全く対照的な人格になっている。

では、どちらが正しいのか・・・
どちらも、正しいのである。

だが、夢の中では、何でもありだから、二重人格も三重人格もある。

そして、影はまた、使いようでもある。

影はたしかに暗い存在である。しかし、それのもつ逆説的な性質をもっとも端的に示すものとして、トリックスターがある。
河合

トリックスターとは、世界中の神話、伝説の中に登場して活躍する、いたずらもの、である。
策略にとみ、変化自在、破壊と建設の両面を持つという。

その存在は現存する組織をおびやかすものではあるが、それは常に新しい思いがけない結合を呼び起こし、既存の組織のもつ単層性に対して、多くの可能性を示唆し、その重層性を明らかにする。ある体制が、どの程度にトリックスターの存在を許容しうるかによって、それがどの程度に自ら改革し、進歩してゆけるかを測ることができる、とも言うことができる。自らの許容度を越えてトリックスターが活躍するとき、そこには収拾不能な混乱が生じることになろう。
河合

実に、示唆に富んだ、考え方である。
個人の中においても、それは、可能であろうと、思う。


posted by 天山 at 05:19| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月04日

霊学82

ユングは、人間が外界に向けて見せるべき、自分の仮面をして、ペルソナと呼んだ。
つまり、仮面である。

人は、適切な仮面をつけることにより、社会が円滑に動く。
日常生活では、個人的感情より、その仮面が必要とされる。

当然である。
毎日、個人の感情で行動していたら、社会生活が送れないどころか、疎外される。

ただし、外界との適応が良すぎて、内的適応が悪い人もいる。
つまり、それは、わが身の心を忘れた人のようである。
機械のようになってしまう。

人間の内界とは・・・
それが、無意識の世界、深層である。
と、簡単に言うのが、心理学者である。

宇宙大の無意識の世界である。
その中に入れば抜けられなくなる。あるいは、狂う。
だが、心理学者は、見てきたようなうそを言う。

ユングは、それを考える手掛かりとして、アニマ・アニムスを考えた。

つまり、人は、影、を通して、アニマ・アニムスと接触できるということである。

ちなみに、アニマとは、男性の中の異性であり、アニムスとは、女性の中の異性である。

男が、その女性性を隠して、現実を生きるが、その女性性は、影、そして、無意識の中に存在する。
そして、無意識の中で、人格化されるというものだ。

男らしい、というイメージを持つためにも、男の無意識には、アニマが必要であると、言われる。
その逆の女の場合も、である。

ということは、男女共に、潜在的可能性として、両性具有的であるといえる。
その無意識が、両性具有的というのである。

こんなことは、大脳化した人間だけが、考えられることである。
動物は、生まれた性のみで、生きられる。
しかし、人間は、生まれた性のみで生きられない人もいるということだ。

夢分析という、こじ付けが、これを納得させえると考えるのが、心理学者たちである。

ユングが見つけた、お手本を元に、彼らは、いい気になって、それをやる。

さて、ユングは、アニマは男にとって、感情、ムード、非合理的なものへの感受性や、人や事物に対する、愛情や、関係性、無意識に開かれた関係を、もたらすものと言われる。

アニマが肯定的にはたらくとき、それは、生命力や創造力の根元となる。多くの芸術家が、その内に存在する「永遠の女性」を求めて努力するのも当然である。否定的にアニマが働くとき、それはペルソナをまったく破壊する。多くの人がアニマの魅力のため、社会的地位のみか、命さえ失うこともあるのである。
河合隼雄

永遠の女性は、実は、自分の中にあったということである。
ご苦労である。

芸術家ではない人の、例が無いのが残念である。
芸術家とは、圧倒的に、少数である。大多数は、芸術家ではない。

女漁りをする男は、実は、わが身の内に有る女を求めて、女を漁っていたということになるのである。

そして、遂に、別な男の中に、理想の女を見つけた時に、どうするの・・・
そういう、特例については、書いていない。

無意識という、とんでもない、世界を区切りよく、ユングは整理したつもりでいるようである。
それを信じて、心理学者が存在する。
あるいは、精神分析という、詐欺師たちがいる。

そして、アニマに深く関わるのが、エロスであるという。
要するに、男は、アニマの関係において、エロスということに大きな役割を占めるというもの。

特定の女に、アニマ像を投影して、そこにエロスの感情を生じる。
つまり、勘違いである。

女を見て、エロチックな妄想に捉えられる。
女の体に、それを感じるのである。つまり、本能的欲望であろが、違う。
それは、男の未成熟なアニマなのであるという。
真面目な男ほど、未成熟なアニマを持つといわれる。
そして、女を見て、空想、妄想に、悶えるのである。

アニマの持つ、エロス的要素には、四つの段階があるとのユングは、第一は、生物的、第二は、ロマンチック、第三は、霊的、第四は、叡智と、きた。

河合氏は、いかに道徳的な人でも、分析の初期には、生物的段階が出るという。更に、娼婦のようなイメージを持つ女性像なのだそうだ。
更に、日本人のアニマ像は、この段階に留まっていることが多いという。

ここで言っておくが、分析家は、分析家以上のもの、更に、分析家が知らないものは、見えないのである。
自分に無いものは、見えないのである。

分析家は、人間であり、それ以上の者ではない。

こうして、お勉強をしているうちに、何事かが、解ったつもりになるというのが、恐ろしい。
ただ、そう仮定しているというだけである。

人間の無意識とは、八方破れかぶれなのである。
だから、道筋を先につけた者が勝ちなのである。
だか、あくまでも、仮定である。

ユングやフロイトの貴重な研究により、人類は、少しでも幸せになったただろうか。
益々複雑に、こんがらかり、訳が解らなくなっている。

posted by 天山 at 05:03| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月05日

霊学83

アニマの持つエロス的要素の第二は、ロマンチックなアニマ像である。

第一の生物的では、女であれば誰でもいいという段階だが、ここでは、人格を持った女に対する、愛情が生じるのである。
この段階は、美的で、性的な要素によって特性づけられる。

西洋美術の女性像などがからも、想像できる。

ただし、この段階に満足できなくなる男がいる。
それは妻の他に、別に他の女に、それを求めるというもの。

妻は一家の正妻。しかし、自分のアニマ像は、別世界に求めるのである。
今の言葉で言えば、不倫、浮気の相手となる。

単なる好きモノなのであるが・・・
まあ、ユングが区分したということで。

第三は、霊的な段階となる。
これが問題である。

エロスが神聖なものに高められるという。
聖母マリアに代表される。
性的な意味合いを持たないのである。

母でありながら、処女である。母としての崇高な愛を持ち、処女の清純を持つ。
貞潔というイメージである。

そして、第四が叡智のアニマである。
第三の上にこれを置いたのは、何故か。

河合氏は、このような像が存在すること自体が、ひとつのパラドックスである、と言う。

叡智のアニマのイメージとしては、ギリシアのゼウスの頭から、鎧に身を固めて生まれたという、女神アテネである。

このことについては、これ以上の説明、あるいは、考えることを止めた方がいい。単なる妄想になる。

ユングは、普遍的無意識そのものとして、アニマを語ったというが・・・
つまり、普遍的無意識の突破口なのであろう。

ユングは、グノーシス主義の影響を大きく受けた。
つまり、オカルトである。
だから、第四のアニマのイメージを、グノーシスの女神ソフィアをよく上げている。

これは、霊学を書いているので、グノーシスについて、少し触れてみたい。
グノーシスとは、ヘレニズムの時代精神である。

われわれの紀元の初めの頃の霧のなかに神話的形象の壮麗な行列がおぼろな姿を見せている。これらの形象の巨大で超人的な像・・・それがもうひとつのシスティ大聖堂の壁と天井を埋めたとしても見劣りはしないだろう。彼らの行為と所作、彼らに割り当てられた役割、彼らの演ずるドラマのあたえるイメージは、われわれ観客の想像力を培ってきた聖書のドラマとは異なっている。だがそこには不思議な懐かしさがあり、妙に心をかき乱すものがあるだろう。
グノーシスの宗教 H・ヨナス

時は、西暦紀元前後の、地中海を取り巻く世界である。
そこから、キリスト教が生まれたが、そこには終末的な雰囲気が漂い、キリスト教の他にも、最終的な救済を求める、数多くの宗教の運動が多いのである。

アレクサンダー大王の東征に始まる、ヘレニズム時代は、ギリシャ語とギリシャ文化による、一つの統合された世界を目指していたが、その中で、それぞれの伝統を持つ、固有の精神が混合していた。
そして、更に、危機的な状態を作り上げていたのである。

その時代の、精神を最も表していたのが、グノーシス的な諸宗教である。
グノーシス主義と呼ばれる、宗教運動である。

ほとんどすべての事件は上界で、すなわち神的、天使的、あるいはダイモーン的な領域で起こる。それは超自然的世界における前宇宙的人物たちのドラマであり、自然の領域における人間のドラマはその遠く離れた反響にすぎない。・・・
神性が誘惑に陥り、至福のアイオーンのあいだに不安と動揺がまきおこる。神の迷える知恵であるソフィアはみずからの狂気の餌食となり、彼女自身が作った虚無のなかを彷徨する。彼女は果てしなき探求、悲嘆、苦悩、後悔のなかにあって、みずからの情念を物質へ、憧憬を魂へと形作る。・・・
ヨナス

対立し、矛盾するものは、言葉や論理では伝えられない。それを語るには神話的な物語によるほかはないとユングは述べているが、グノーシス派の宗教の特徴は、まず第一に、それぞれ微妙に異なるけれども、ある特殊なパターンに沿った神話を持っていることである。
秋山さと子

要するに、人間が陥る、分裂と混乱という悲惨な状態は、すでに神的な世界で始まり、必然的に、すべてを神話によって、考えることになったという訳である。

これを霊学の言い方をすれば、幽界で起こることは、人間の世界に、即座に影響を与えるということである。

ただ、グノーシス派は、それを神の世界と認識していることである。
違う。
もっと、低い霊的世界のことである。

ただ、それでも、グノーシス派の、神の世界は、人間の世界とは、全く次元の異なる世界として認識している。

神々の物語ではあるが、主題は天使の堕落や、彼らの望郷の念を描くもの。
登場人物が、すべて本来は無垢な性格を持ち、神性を持つ者である。であるから、その悲哀は、更に悲しく、しかし、人間の世界とは関わらないのである。

だが、このグノーシス派も、同じ時代に生まれたキリスト教の教父たちにより、異端として徹底的に排除され、その後は、その存在さえも知られていなかった。

キリスト教の、異端審判は、最初からキリスト教が、排他的で非寛容であることを教える。
それも、力で排除するのだから、キリスト教こそ、邪教と言わざるを得ない。

キリスト教の教義を、根本からくつがえす神話を有するグノーシス派である。
それは、実は、キリスト教も、彼らの登場人物を利用したからである。

何より、グノーシス派は、原罪を認めなかった。
それはキリスト教の、根本教義で、欠かせないものである。

その原罪意識があるから、人を支配できるのである。
原罪を許せるのは、教会以外にないという・・・
であるから、原罪というものも、キリスト教の創作である。

更に、洗脳である。
洗礼という、信者になるための秘蹟といわれる行為は、何より、この原罪を許すというものであるから、譲れないのである。

最初から、人間に罪人の意識を植え付けるという、段取りである。
呆れるとしか、言いようが無い。

posted by 天山 at 06:07| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月06日

霊学84

魂は世界という迷宮のなかに捕らえられて途方に暮れており・・・彼方の光からの救済者は身の危険もかえりみず下なる世界に侵入し、闇を照らし、道を開き、神界の裂け目を癒す。これは、光と闇、知識と無知、静謐と情念、奢りと敬神の物語だ。それも人間の次元ではなく永遠の存在の次元での物語である。永遠の存在も苦悩と迷いを免れてはいないのだ。
グノーシスの宗教 ヨナス

グノーシスの諸派にも問題があった。
彼らは攻撃的で、排他的であり、彼らに特有な倫理観に基づく、極端な禁欲主義、あるいは放埓主義は、人々の受け入れがたいものだった。

更に、この世は、神ならぬ悪魔が、または、堕天使が作り出したものという、反コスモス的な思想である。

そこで、ユングは、キリスト教のあり方に満足出来ず、聖書の物語と、舞台も主題も同じテーマであるにも関わらず、その内容と、意味が全く違う、グノーシスの物語に惹かれたのである。


それらは時間と空間の概念を持つことで、人間が過去や未来と、自他の区別を知るようになる以前の、永遠の世界における神々が引き起こしたドラマであった。そして人間が感覚でとらえ、思考によって想像し得るこの宇宙とは隔絶した、はるかに遠くの異次元における出来事であった。
秋山さと子

ユングは、己自身も、そして、多くの患者たちにも、人間の小さな意識の中にある自我では、どうしようもない、抗えない運命的なものがあると、感じたようである。

そこで、グノーシスの物語が、一つの救いとなる。

ユングは、人間の存在を超える、更に大きな力を、星の強制力と呼んだ。

これでは、オカルトである。しかし、オカルトを通してまでも、人間の無意識の世界を理解し、研究したいという、心意気である。

だが、実際に、ユングの時代は、このグノーシスの文献は、破壊されていた。
だから、ユングは、辛うじて、それを知る得る限りの文献を漁っていた。
その後、エジプトで、そのパピルスが発見されるという、事態になるのだが・・・

ユングが、元型、という言葉を生み出したのは、ブルグホリツリ病院の医局長をしていた頃、患者が語る、筒のある太陽と風の由来に関する妄想が、ミトラス教の文献と一致したという話である。

元型という、概念が、古代文献による知識と深く関わるということである。

20世紀前半、死海文書、その他の古文書、そして、グノーシスの文献である、ナグ・ハマディ文書が公開されてから、グノーシス諸宗教を異端と考える人は少なくなった。
キリスト教と同時期に発生した、別の宗教運動であると、捉える。

キリスト教によって、消滅した、諸宗教は、キリスト教に欠けているものを、有していると、ユングは考え、そして彼の研究に取り入れたのである。

その中には、イエスの双子の兄弟のことが、書かれてあった。
イエスが、兄弟のトマスに語った言葉がある。

あなたがたの中にあるものを引き出すならば、それがあなたがたを救うであろう。あなたがたの中にあるものを引き出さなければ、それはあなたがたを破滅させるであろう。

無意識を見つめる者には、十分にその意味が解るという言葉である。

つまり、自分の中にあるものにより、救いがあるという。
360度廻って、元に戻る類の話である。

ギリシャ文化の隆盛は、人間の意識に表層と底流という二重構造をもたらしたが、それがヘレニズム後期になると、オリエントの神話やバビロニアの占星術、イランの二元論やヘレニズム的ユダヤ教が、プラトン主義の概念やストア派の宇宙論と合体し、勢いを増しつつあったキリスト教の救済=終末論がさらにこれにかぶさって、一大宗教的シンクレティズムの時代を作り上げつつあった。
秋山

グノーシス主義の、原理としては、この宇宙とは隔絶した超越的神の存在を信じていたことである。
その超越的神の実在を説くために、コスモスの内と外に分かれた、二つの世界を作り上げた。
そこから、神とコスモス、霊と物質、光と闇、善と悪、生と死などの、対立概念が生まれたのである。

絶対的二元論である。

超越的神のもとの二元論による、人間の救済こそ、グノーシス主義の原理である。

グノーシスとは、ギリシャ語で、知識という意味である。
そして、その知識とは、コスモスにおける、人間に対する知識ではなく、隔絶された、コスモスの外の神々の行為に対する、知識となる。

人間はつねに因果律の上に立ち、時間と空間の概念の中で、自らの意識を発達させて文化を築いてきた。・・・しかしまた、そのために我々は、時間と空間とに限定され、縛られて生きることにもなった。神秘思想は、言葉よりも、主として体験とイメージによって、これらの束縛からの解放を説くものである。
秋山

グノーシス主義には、ギリシャの調和のとれた宇宙の秩序と言う概念を、逆転させた宇宙観が生まれた。
人間は、幾層もの天に土牢のような世界に住むものであり、人間が、そこから抜けようとすると、それぞれの天球を支配する、人間と隠された神との間を隔てる、星の神々が邪魔をする。

この、天球のイメージは、バビロニアの占星術による観念が使われている。
だが、その占星術からの概念も、逆転して用いられている。

七層の天球を支配する、それぞれの惑星は、そのまま人間の魂の脱出を妨害するものとなる。
その外には、更に、第八の恒星界があるとする。

この星の看視人たちは、旧約聖書の神の名で呼ばれているが、それも、ユダヤ教の唯一神の全能の神の概念みが、覆されている。
その神は、真の神ではない。
神性はもつが、下級の霊的存在であるとする。彼らの支配が、ヘイマルメネーと呼ばれる、星の強制力、である。


posted by 天山 at 06:30| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月07日

天皇陛下について131

藤原氏一門の栄華により、当時の風潮は、贅沢だった。
そのため、宇多天皇は、先頭に立ち、倹約された。

石清水八幡宮へ行幸された時に、拝観者の車に、金の飾り物が沢山打ってある。それを御覧になり、あの金も、ことごとく抜き取らせよ、と、命じられたほどである。

その後、加茂の社に行幸された時は、目立つような車は、一つもなかったという。

宇多天皇の在位は、五年。
御位を貞仁王に譲られ、上皇になられる。

その翌年、ご病気になられ、崩御される。
御年、まだ40歳であった。

さて、少しばかり、当時の情勢を書く。

藤原氏の栄華の頃・・・
力をつけていたのが、武士である。
特に、源氏と、平氏である。
いずれも、元は、皇族である。

源氏は、第五十六代、清和天皇から出た。平氏は、第五十代桓武天皇から出ている。

将門の乱の時、その謀叛を朝廷に訴えたのが、武蔵介経基、つねもと、である。清和天皇の第六皇子、貞純親王の御子である。
この経基が、村上天皇の御代に、源氏を賜り、源氏の先祖となる。

平氏の先祖は、桓武天皇のひこ孫高望王である。
孫の将門の乱以来、一族として、一時衰えるが、将門を倒した、従兄弟の貞盛がいたため、この一門は、東国で栄える。

平忠常という者がいる。
高望王の、ひこ孫で、将門、貞盛の従兄弟である。

後一条天皇の御代に、安房の国司を殺した。
貞盛のひこ孫である、検非違使直方が、討伐に行く。だが、強い相手である。
朝廷は、直方を呼び戻し、源頼信に追討を命じた。
そこで、平定し、頼信は、忠常の兵士を、すべて家来とすることを許された。

平氏の根拠地である関東が、源氏の勢力の中に入るのである。
源氏が東国で盛んになる源である。

忠常の乱後、二十年、後冷泉天皇の御代に、陸奥において、安倍頼時の乱が起こる。
この時もまた、源氏が活躍する。
乱が起きた時、相模の国司であった、源頼信の子である、頼義が上京していて、即座に、追討しに出た。

頼義は、長子、八幡太郎頼家と共に、陸奥に下る。
頼時は、頼義の威名に、戦わずして降ったのである。

だが、再び、謀叛を起こす。
頼時の子である、貞任が殺され、平定するのに、九年を要した。
前九年の役、といわれる。

第七十二代白河天皇、1072年より、1086年。
源氏は、更に、後三年の役により、東国武士の間に、確固たる地位を築く。

平定したのは、義家である。

さて、白川天皇は、後三条天皇の長子である親王。
ご在位、15年で、御譲位される。
その後は、上皇の御所において、院政を行うことになる。

藤原氏の勢力は、もはや衰退の一途である。

白川上皇は、院政のために、朝廷とは別にして、院の御所に役所を置き、役人も別にした。
そこから命令を出されるから、藤原氏の専横は、抑えられ、勢力も削いだ。

しかし、天皇の政治が出来ない状態である。

院におかれた役所を院庁、役人を院司、院中を警備するため、別に武士をおいた。それが、北面の武士である。
院庁から出る命令が、院宣である。その威力は、天皇の詔勅よりも、上になった。
院政がある限り、天皇は、ただ御位に就いているだけと、なったのだ。

更に、白川上皇は、仏教を深く信じられて、御譲位10年で、法皇となられ、その後も、院政を続けられた。

それが、第七十三代、堀川天皇、1086年より1107年。そして、第七十四代鳥羽天皇、1107年より1123年。第七十五代崇徳天皇、1123年より1141年。
つまり、その御子と、御孫、そして、御ひ孫に渡る、三代、44年間、政治を支配したということである。

この間、仏教崇敬のあまり、国費は乏しくなり、御父、後三条天皇が改革したことが、覆るという事態になる。

つまり、親政14年、院政43年、57年、お一人で政治を支配したのである。

ただ、嘆いたことがある。
私の思うにならないことは、加茂川の水、すご六のさい、そして山法師の三である。

山法師とは、延暦寺の僧兵のことである。

武士が起こったと同じように、寺院の自衛のために、兵士を作ったのである。

また、僧兵同士の争いもあった。
つまり、寺院は、宗教の場ではなく、権力闘争の場と化したのである。

延暦寺の僧兵は、日枝神社の御輿をかついで、朝廷に直訴する。更に、興福寺の僧兵は、春日神社の神木をかついで、直訴するという。こちらは、奈良法師である。

朝廷は、源氏、平氏の二氏に命じて、対抗せざるを得ない状態になった。

それにより、武士の台頭が早まることになる。
いよいよ、武家政権の誕生となるのである。

僧兵の、悪行に関しては、省略するが、その行為は、僧にあらずの行動であった。


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2012年10月08日

天皇陛下について132

僧兵鎮圧に、源義家も功績があり、京では有名であった。
その後は、義家の子である義親が、対馬守、つしまのかみ、として、任国にいた時に、朝廷の命を奉じない事態があり、隠岐島へ流された。

だが、義親は、この処罰は不当であると島を抜けて、出雲に入り、その国司を追い払い、猛威を振るった。
朝廷が、討伐使として命じたのが、平正盛である。

義親は、朝敵となったのである。
ここに、源氏の勢いが衰える原因がある。

それに代り、平氏が次第に盛んになるのである。

正盛は、白河法皇の信頼厚く、北面の武士となった。

義親討伐の後に、諸国の国司を任じられて、富を貯え、僧兵や海賊の鎮圧でも、功績を上げた。

官位も登り、更に、その子の忠盛、これは清盛の父親であるが、出世する。

この忠盛が、父親以上に、白河法皇のご信認を得る。
更に、次の鳥羽上皇が、白川法皇に続いての、院政の時期、更なる信認を得るのである。

但馬守から、刑部卿に上がり、昇殿を許されることになる。
昇殿とは、天皇の常の御殿である、清涼殿の上に足を印すことである。

これが許されるのは、殿上人といわれて、尊ばれた。

本来、武士は、鎮守府か、兵衛府、検非違使の武官になるか、地方の国司である。
八省の卿となり、昇殿を許されることはなかったのである。

平忠盛は、武士として初めて、昇殿を許された者である。

それに対して、殿上人が、妬み、闇討ちを企んだが、前もって、それを知り、うまくかわした。それがまた、上皇のご信認を厚くした。

忠盛は、宮中の礼儀などにも詳しく、諸国の国司のほかに、密かに海外貿易も行っていた。それは、平清盛にも受け継がれる。

後に、多いに栄える、基礎を築いたといえる。

第七十六代、近衛天皇、1141年より1155年。
その御代に、没する。
その後が、平氏の棟梁として、名高い、清盛の時代である。

さて、第七十七代、後白河天皇、1155年より、1158年。
崇徳上皇との争いが起こる。

これは、実に複雑な問題である。
その裏には、藤原氏の親子、兄弟の骨肉の争いが重なるのである。

皇室を巻き込んでのものである。

皇室を眺めると、白河法皇が、堀河、鳥羽、崇徳の三代、四十余年に渡り、院政を行う。崇徳天皇の初期に崩御された。

堀河天皇は、すでに崩御されている。
鳥羽上皇が院政を引き継がれていた。

その後、十年ほどで、上皇に皇子の誕生である。
崇徳天皇とは、御生母が違う、弟君である。

崇徳天皇ご在位17年目、御年21歳であらせられる。
上皇は、皇子を非常に大切にされた。
それが、皇子を近衛天皇の座に就けることになる。

崇徳天皇、23歳の時、父鳥羽法皇の仰せにより、御位を三歳の皇子に譲る。
この時、後鳥羽上皇は髪を剃り、法皇となる。

だが、依然、院政を続けた。

崇徳天皇は、上皇となるが、何もするべきことがないのである。
そして、14年を経た。
近衛天皇は、17歳で崩御される。

まだ、皇子がおられない。
つまり、崇徳上皇は、ご自分が、再び御位に就くか、我が子の皇子が御位に就くかと考えた。

ところが、噂が流れた。
近衛天皇の崩御は、崇徳上皇の呪いである。
実に、悪質である。藤原氏を疑う。

そして、関白である藤原忠通が、鳥羽法皇と相談して、近衛天皇には兄であり、崇徳上皇には、弟である、第七十七代、後白河天皇が即位されたのである。

崇徳上皇は、37歳である。

忠通には、近衛天皇の時代に、左大臣だった、弟の頼長がいた。
この二人の仲が特に悪い。

後白河天皇即位の翌年、四月に改元があり、まもなく、鳥羽法皇が重病になる。そして、七月七日崩御。

御父の危篤の報に、崇徳上皇が鳥羽院に向かうが、法皇の側近が、ご命令により、お入れすることは出来ませんと、言う。
法皇側は、上皇は左大臣と何事かを企み・・・
こういう噂は、皆、藤原氏からのものである。

左大臣頼通は、上皇の御子である重仁皇子を御位に就けて、わが身は、関白へと考えていたのである。

七月、頼長は、宇治の邸に引き籠っていた。
その六日、家来の源親治が京の東山で、捕まった。

八日、勅命が出た。
忠実と頼長の荘園所属の武士の上京を禁ずる。

翌日、上皇は、京、加茂川の東、白河殿に移られる。
頼長も宇治を発ち、その夜のうちに、白河殿に入る。

その時、後白河天皇方が不穏とみて、源義朝と、平清盛をはじめ、源平の武士を集めた後だった。

頼長の召集に応じたのは、清盛の叔父忠正程度である。
頼長は、上皇の近臣藤原教長を、源義朝の父為義のところへ派遣した。

しかし、上皇さまに、お味方申せば、長子義朝と戦うことになります、と、一端断るが、許されず、止む無く、四郎、五郎、六郎、七郎、八郎、九郎を率いて、白河殿へ向かう。

為義は、61歳である。
生涯最悪の場面であったという。
内輪同士の戦いである。


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2012年10月09日

天皇陛下について133

7月11日、早朝、後白河天皇方の、源義朝、平清盛らの軍兵が、崇徳上皇方の、白河北殿に先制攻撃をかけた。
八郎為朝の猛攻撃に対して、寄手は、火を着けた。

上皇方は、あっけなく、敗れた。

先制攻撃の夜討ちを主張したのが、為朝だったが、頼長が、頑固で融通が利かないために、実行されなかったのである。

天皇方は、少納言入道の信西という者が、関白忠通を補佐して、義朝の先制攻撃案に賛成した。
そして、敵は朝敵です。朝敵征伐である、と激励した。

確かに、天皇に楯突く者は、朝敵である。

戦の世を通して、この朝敵という言葉が、いかに重大な言葉になったか・・・

天皇を敵にしてはいけないのである。
それが、日本の伝統である。

崇徳上皇は、馬で如意山に、お逃げになった。だが、再び京に戻り、知足院にて剃髪し、仁和寺にお入りになり、仏門に入る。
しかし、讃岐へ流されることになった。

9年後に、同地で崩御された。
その皇子、重仁親王も、出家された。

頼長は、戦いの流れ矢で死ぬ。
為義は、為朝の諫言を無視し、義朝を頼り、降りた。

平忠正も甥の清盛を頼り、降りた。

しかし、清盛は、忠正を斬る。
これでは、義朝に功労があっても、父為義や、弟たちを斬らねばならない。
止む無く、家来の鎌田政家に斬らせたのである。

ただ、為朝だけは、逃げた。
しかし、間もなく、捕らわれ、伊豆の大島に流罪である。
ところが、為朝は、二条天皇の御代、小舟で琉球に渡り、琉球王となった。
それから、第八十代高倉天皇の御代に、追っ手がかかり、これまでと、立ち腹斬って死んだといわれる。

以上は、保元の乱といわれるものである。

だが、引き続き、平治の乱が起こる。

後白河天皇は、ご在位4年で、第七十八代の二条天皇、1158年より1165年、にご譲位され、上皇として、院政を始められた。

相談相手には、少納言入道信西がいる。
また、臣下には、藤原信頼がいたが、入道信西と、ことごとく、ぶつかるのである。

信頼は、中納言に右衛門督にまで昇格した。が、更に、その上を望むのである。

そこで、上皇に申し出る。右近衛大将に任じてください、と。
上皇は、入道信西に相談される。
すると、反対である。それが、信頼にも、聞えた。

信西憎いとなる。更に、天皇臣下の中にも、反信西がいたのである。
それらが、信頼の味方についた。

だが、信西には、平清盛が楯になっている。

更に、義朝も、信西に恨みを持つ。やがて、義朝も、信頼の味方になる。

平治元年、1159年、12月4日。
清盛が、その子の重盛らを連れて、紀州熊野へ出掛ける。

そこで、信頼方の軍が、上皇の御所三条殿を囲んだ。
狙いは、入道信西である。
しかし、彼は逃走していた。

それを知らぬ、包囲軍である。
まず、上皇を車にお乗せして、皇居の一間にお移しする。
三条殿に放火し、信西を探すが見つからないのである。

そこで、信頼は、二条天皇も、一間に押し込めてしまった。
これでは、暴虐の罪である。

しかも、信頼は、その夜から御所にあって、天皇と上皇を擁して、政権を握ったのである。

入道信西は、大和の田原まで逃げ、穴を掘り隠れたが、自殺する。
追っ手は、その首を持ち帰り、京の西の獄門に晒した。

さて、義朝の長子、義平が豪傑に、清盛を帰路に待ち受けて、斬るという。
ところが、信頼が、都に戻った時に、討てばよいと、言う。

一方の清盛は、早馬で京の急を知り、引き返した。
17日である。

信頼のバカさ加減に愛想尽かしをした者、大勢が清盛に寝返る。

そのゆえに、25日夜、清盛は、天皇を一間から救う。
上皇も御所を抜けられた。

信頼は、それを翌朝知る。

天皇と上皇は、六波羅の清盛邸におわす。
宮廷臣たちは、六波羅へ急ぐ。

ついに、朝敵征伐の詔、みことのり、が清盛に下る。
平家の大将は、重盛と頼盛であるが、一端逃げた。それは、計略である。
御所を火にしてはいけないということだ。

信頼、義朝軍をおびき出して、その後で、平家一門の味方を入れ替える。
この時に、六波羅まで押し寄せた源氏一門の中で、朝敵になることを嫌い、頼政、光保、光基などは、六波羅を攻めていない。
そのため、義朝軍は、敗れる。

御所は、平氏の一隊に占領されている。
義朝軍は、進退窮した。

義朝は、義平、頼朝らと京を逃れた。
信頼も、同行を求めたが、義朝に鞭で打たれたとある。

都に引き返し、上皇にすがるが、清盛が許さず、六条河原で、斬られた。


posted by 天山 at 06:21| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月10日

天皇陛下について134

源氏の勢力は全く衰えた。
武士は平氏ばかりになった。政治権力も、その一門の手に落ちたのである。
その棟梁は、平清盛である。

ちなみに、源頼朝であるが、当時、14歳である。
東国への途上に捕らわれて、京に連れ戻される。
清盛は、斬るつもりだったが、継母の池の禅尼が哀れに思い、命乞いを乞うゆえ、危うきに命を助かる。
だが、伊豆の蛭ガ島に流される。

第七十九代六条天皇。1165年より1168年。
仁安二年、1167年、清盛は、太政大臣になる。
翌年、剃髪して、浄海と名乗る。

三年後、第八十代高倉天皇。1168年より1180年。
承安元年、1171年、清盛の娘、徳子が入内する。そして、女御になる。

その、六年後、治承元年、1177年、藤原成親、平康頼、僧俊寛らによる、平氏討伐が発覚する。
俊寛らは、鬼が島に流される。

治承三年、清盛は、後白河法皇の院政を止めて、鳥羽殿に幽閉する。

第八十一代安徳天皇、1180年より1185年。
その治承四年、1180年、四月、源頼政は、以仁王、もとひとおう、を奉じて、平氏追討の令旨を諸国の源氏に伝える。

以仁王は、頼政などと共に、平氏軍と宇治川で戦い、共に敗北して死ぬ。

八月、源頼朝、伊豆にて挙兵し、十月、頼朝は、平氏軍と富士川で対決する。
平氏軍は、戦わずして、敗北するのである。

養和元年、1181年、清盛、病死する。64歳である。

その二年後、寿永二年、1183年、三年前に挙兵した、源義仲、みなもとのよしなか、が、平家が安徳天皇を奉じて、西に向かった後の京都に入る。

その八月、後白河法皇は、第八十二代後鳥羽天皇を立てる。1183年より1198年。
つまり、二人の天皇である。

安徳天皇は、6歳、後鳥羽天皇は、4歳である。

院の御所では、平家討伐の恩賞として、第一が頼朝、第二が義仲、第三を行家とした。

ただ、義仲は、東国にて動かぬ頼朝が第一というのが、気に入らないのである。
そして、源氏が義兵を挙げたのは、以仁王の令旨によるものと、王の御子を戴かないのが、また気に入らないのである。

義仲の不平不満が募る。
更に、木曾の山中で暮らしていた義仲は、朝廷の作法を知らない。
公卿との折り合いも悪い。

そのうちに、西国へ落ちた平家の勢いが強くなってきた。
義仲は、備中へ向かう。
そこへ、都から、密使が来た。

法皇が、行家の讒言を信じて、義仲を討て、との院宣を下したというものである。
京に戻った義仲勢の乱暴は以前より増した。

人々の難儀を聞いて、法皇は、そのとり鎮めを命じられた。

だが、なだめを聞かない義仲である。
法皇に、全く服するところあらず、かえって謀叛を企んでいます・・・

そこで、法皇は、致し方ない、よきように致せとの仰せである。

無骨乱暴な義仲は、ついに、法皇の御所に押し寄せた。
そして、法皇を別の御殿に押し込め、勝手に朝廷の官職を留めおいて、支配者の如くに振舞ったのである。

これを鎌倉で聞いていた、頼朝は、しめた、と思う。
嫡流でもない義仲の京都占領に、口実を待っていたのである。

そこへ、法皇からの、義仲追討の院宣が下った。
そこで、弟の範頼と義経を攻め上らせた。
総勢、六万である。

この軍は、義仲を攻め滅ぼし、更に、法皇の仰せで、福原の平家討伐をする。
一の谷の戦。屋島の戦。そして、壇ノ浦の合戦で、平家が亡ぶ。

この時、悲劇は、8歳の安徳天皇が、壇ノ浦の海深く沈まれたことである。

また、三種の神器のうち、神璽と宝剣は海底に沈む。
神璽の箱は浮かんだが、宝剣は、行方知らずに。
祟神天皇、御模造の宝剣は、一千年後にして、失われた。

今日伝われるのは、伊勢神宮から献上したものである。
御鏡は、船中で発見されたため、二点は、義経が奉じて、法皇にお届けしている。

簡単に流れを書いてきたが、源平合戦は、平家物語に詳しく書かれている。

更に、何故、平家が奢ったのか・・・
それは、藤原氏と同じである。
権力を持つものは、権力にて、敗れるのである。

以後も、権力によるものは、権力にて、破れては、また、権力者に代わる。
しかし、一貫して、天皇の存在は、権威として、存続したのである。

帝の位を狙った馬鹿者もいるが、決して、それは成功しなかった。
天皇になられるのは、天皇から天皇への移行である。

桓武平氏も、源氏も、皇室の血を引く者であるが、天皇の臣下である。

君と、臣下の身分が、存在する。
そして、それは、この国の知恵なのである。

激動の歴史の中でも、天皇の存在は、動かずに存在したということである。
そして、その御位に就く御一人は、その権威にあることを自覚し、ありうべき存在として真っ当しようと努力したのである。


posted by 天山 at 06:05| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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