2012年09月30日

神仏は妄想である。388

神道には、祭りがある。
その祭りが、神道であると、言ってもいい。

自然のものは、すべて、神となれば、当然、稲も神なのである。
その他、穀物もすべて、神である。

それを、穀霊、こくれい、として、祀る。
それが、お祭りである。

穀霊は、稲の神であり、豊作の神である。

農耕民族として、お祭りは、すべてそれに関することから、始まった。

新しい年、それが、穀霊、稲の霊、豊作の霊に関わることになる。
歳神という。

この歳神が、山にいる間は、万物が忌み籠もる時期であり、命の再生を待つ期間である。
新たな命が、殖える期間として、御魂の殖ゆ、と言う。
みたまのふゆ、である。

冬の語源である。
冬は、殖える時期なのである。

そこで、冬には、太陽の弱った力を復活させるために、御魂の殖ゆ、の、お祭りをする。
更に、後に、天皇の霊力の復活をも表すことになる。

太陽祭祀、鎮魂祭・・・

冬至を過ぎると、太陽が復活する。
山に帰った歳神が、里に降りるのである。

また、祖霊も共にやって来る。それが、春であり、新年である。
正月の行事は、すべてそれである。

新年の豊作を願い、祖霊祭りを行う。

春は、ハル、であり、ハレであった。
木の芽が、一斉に、張るからである。

そして、農作業の時期が始まる。
人々は、祈年の祭りを行う。

中央、朝廷では、神祇官庁が、地方では、国司庁が中心になり、八百万の神々に、幣帛を捧げて、祈念祭の祝詞を奏上する。

春の祭りは、この祈念の祭り、としごいのまつり、である。

やがて、秋になると、収穫である。
秋の語源は、飽き食い、あきくい、からのもの。

飽きるほど食べるという意味である。

穀物の宿る、穀霊を、わが身に、たっぷりと、取り入れる。
そして、御魂の殖ゆ、に、備えるのである。

日本の神道は、自然を抜きにしては、考えられないのである。

自然と、共生、共感する感性が、神道の大元を作ったのである。

この、神観念は、妄想ではない。
言葉の限りを尽くして、語るものではなく、自然そのものに、神を見ていたのである。
妄想の入り込む余地は無い。

妄想が入り込むのは、神道家たちが、言葉を尽した時である。

日本の四大祭りとは、正月祭り、祈念の祭り、祖霊祭り、新嘗の祭りである。
冬、春、夏、秋である。

夏の、祖霊祭り、みたままつり、は、仏教伝来以前からの、日本の行事である。
決して、仏教の盂蘭盆会から始まったものではない。

自然の営みは、神の営みである。
その神の営みを、神の教えるように、つまり、自然が教えるように、実践したのが、日本民族である。
つまり、伝統である。

であるから、人間と隔絶した、超越した存在の神観念は、皆無である。

その観念が日本には無いから、神不在などという、キリスト教作家が言っても、せん無いことである。

神を世界の外に置くと、その神を渇仰する。
そして、救いを求める対象とする。

日本の伝統は、人間も自然の内にあるもので、死ぬと、神になるのであるから、特別な救世観念は無い。

神の営みと、人間の営みは、同じである。
多くの言葉の必要を感じなかったのである。
つまり、理屈を必要としなかったのである。

西欧の宗教学で判断すれば、神道は、宗教ではない。
伝統である。
更に、その宗教学は、はじめは、キリスト教が最高の宗教の形であるとしたのである。
それ以後、それは打ち消されたが、最初はそうだった。

キリスト教が、最高の宗教として言うのは、実は、最悪である。
キリスト教が生まれて、厳密に言うと、ユダヤ・キリスト教が生まれて、世界に、戦争が止むことがなくなったのである。

その排他的、非寛容は、甚だしいものがある。
準じて、イスラムである。
その、イスラムの闘争心に火をつけたのも、キリスト教である。

ここで、それらとは、全く違う次元とレベルにある、神道であることを明確にしておく。

もう一つ、欧米の自然感覚では、最早、人間が生きられない、自然の有様になったといえることである。
何せ、自然を支配するというのである。
それが、旧約聖書の神の言葉による。
すべての創造物は、人間の手に委ねられている・・・
これほど、傲慢な教えは無い。




posted by 天山 at 10:27| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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