2012年09月24日

国を愛して何が悪い31

ゴッホにとっての、真の宗教とは、日本人の、自分から花のように自然の中に生きている生活であった。

彼は、牧師である。
キリスト教の布教をしていた。
それが、日本人の生き方に対して、真の宗教とは・・・

こちらが、あちらを理解できないように、あちのも、こちらを、理解出来ないと、考えていた私は、とても、驚いたのである。

ゴッホは、理解した。

ゴッホは、宗教が最高のものであり、その生き方が、最上のものであると、考えていたのであるから、それが、日本人が有するものと考えた訳であり、行き着いたところである。

西洋の宗教の概念を超えたとも、理解する。

では、その日本人の生活とは・・・

自然をそのままにしておけば、自然は、滅茶苦茶になる。
ジャングルがそうだ。
何一つ秩序立つものがない。

日本の自然観とは、それではない。

人間の行為を、文化的なものと、定義しておく。

日本人の自然に対する、行為は、日本人の文化意識が入るのである。

人間が、道具を使い、自然に何か手心を加えることが、文化の本来の生活である。

日本人は、最初に日本を、葦原の中津国、あしはらのなかつくに、と、呼んだ。古事記である。それが、いつしか、豊葦原の瑞穂国、とよあしはらのみずほのくに、と、なってゆく。というより、そのように、国造りを始めたのである。

それは、稲作が始まり、その姿が、豊になり、そのまま、瑞穂と、讃えたのである。

実際、葦は、とても強い植物であり、そこに、稲を植えるのは、大変なことである。
だが、それでも、両者を対立させず、それぞれに、生かしてきた過程がある。

最初は、葦を利用して、様々な生活用品を作った。
だが、稲作がはじまると、葦の除去が必要になる。
それでも、それを対立させるという、考え持たないのである。

野生のものを利用する段階から、次に土地を耕し、稲を実らせるという、文化生活が、はじまる。

そこに、日本人特有の、融和の思想が見えるのである。

それが、自然のいのち、と、人間のいのち、の、連続性である。
そして、結びつきである。
自然を対立したものとは、考えなかったのである。

だから、征服するという、考え方もない。

であるから、外国人が、神道を言う時、宗教としてより、日本人の生活にある、根底的な、ものの感じ方、考え方、内なる心を、外に向かって現す時の、表現として、使うようである。

神社神道のことではない。

日本人の中に、脈々と生き続ける、ものの見方、感じ方を、神道と呼ぶ。
それは、実に、正しいことである。
なんとなれば、神道は、宗教概念に当てはまらないのである。

日本的なものを、神道と総称する外国人の方が、正しく、神道を捉えている。

三世紀頃に、イギリスのスコットランド高地方に、オシアンという名の、伝説的詩人がいた。
18世紀に、その詩が、翻訳され、出版された。

その内容は、自然を観照することによって、救いにあずかるということを、歌うものであった。
そこで、自然との対話による救いを、オシアン的救済と、呼び慣わしているという。

だが、日本の場合は、それとも違うのである。

オシアンの方は、あくまでも、自然からの一方的な慈愛により、人間に与えられると、考える。
しかし、日本人の場合は、自然と人間と、二つの存在が、形を異にしつつ、連携し、そのいのちの、中で一つになるのである。

互いに歩み寄る行為である。

その際に、人間が、手心を加えて、つまり、文化的行為を持って、自然に対処するのである。
その行為を、宗教と呼んでもいい。
だから、日本の宗教学は、西洋の宗教学と、自ずから、区分けして、考えなければならない。

西洋の、宗教学にて、日本の宗教的行為を、解釈したところで、限界があるということである。
そして、無理である。

西洋は、人為的宗教であり、日本は、自然的宗教であるから、全く別物になる。

更に、あちらは、人格神というものを、置く。
神に人格である。この矛盾。

更に、膨大な言葉遊びの数々である。
神学という。
だが、それは、ギリシャ哲学があっての、物種である。

自然と同化する、日本人には、言葉遊びが必要なかった。
自然が先生であり、更に、その自然のいのちと、同化するのである。
そして、更に、手心を加えて、文化を築いたのである。
それが、伝えられて、伝統として、成り立ってゆく。



posted by 天山 at 00:09| 国を愛して何が悪い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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