2012年09月16日

性について215

性のタブーはあらゆる文化に存在しており、人間に普遍的な現象である。これほど普遍的な現象が単なる外からの押し付けによって生じたとは考えがたい。とくに近親相姦のタブーは強力で、このタブーの起源についてはこれまでいろいろな説明がなされてきたが、どれも説得力を欠いている。
岸田

その、近親相姦が、普遍的、強力なのは、近親者が、幼児の最初の性欲の対象であるとの説である。

もし、性のタブー、とくに近親相姦のタブーがなかったなら、人間の精神発達は、幼児期にあまりのショックに押し潰され、挫折してしまうであろう。
岸田

つまり、この人は、そのように、分析している。

そして、
幼児の劣等感情防衛のための合理化の努力を外から支えてやる程度のものが必要であると言っているに過ぎないのであって、過ぎたるは及ばざるがごとしのことわざの通り、あまり強く押し付け過ぎれば、逆にまた有害な結果をもたらすであろう。
岸田

その証拠に、思春期に至れば、性能力を獲得し、性のタブーは、あまり必要ではなくなるという。

今や、性のタブーは、過去の防衛策の残骸であり、無用の長物である。
岸田

学者というものは、この程度なのである。

この説にも、説得力が無い。
近親相姦は、幼児ではない。
性能力を獲得した者が、行うのである。

その、大元を、幼児期の云々とは、説得力が無い。

それで、結局、フロイトの定義した、幼児期の概念を披露するのである。

心理学の講座という、暇つぶしの最たるものである。

結局、以下説明を繰り返すという、発展性のないものになる。

まず、口唇期である。
幼児の性欲が、その時、どのように発散されるのか・・・

正常な性行為以外の手段で、満足を求めるから、幼児は必然的に、性倒錯者にならざるを得ない。

口唇期、肛門期には、それぞれの、発散の仕方がある。

口唇期の、リビドーは、口唇の栄養摂取活動にあるので、その可能な活動によって、リビドーの満足を求めようとする。

なめる、しゃぶる、吸う、噛む、くわえる・・・
すべて、大人になって、性行為をする時と、同じ状態である。
これを大人の場合は、愛撫という。

口唇期の、幼児は、自己と区別されたところの一つの全体としての、他者の存在を知らない。幼児は、母親の乳房を知覚するが、それは、幼児の世界の中では、幼児の身体と融合していて、もし離れたとしても、それは取り戻して、自己の身体の一部とする。

それゆえ、口唇期の、リビドーは全体としての対象の認識を欠いている。
対象の認識を欠いたリビドーは、自己色情的で、自己と別個の存在としての対象とのかかわり方を知らないのであると、説明している。

また、この時期の幼児は現実と空想の区別を知らず、あとになって多少その区別がつくようになっても、依然、それは曖昧な区別に過ぎないから、そのスキをついて、いろいろな妄想が咲き乱れる。それらの妄想は、形式論理以前のいわゆる魔術的論理にもとづいて形成される。魔術的論理においては、同一律、矛盾律、排中律は欠けており、部分は全体であり、全体は部分であり、部分が同じであれば全体も同じであり・・・象徴はそれが表している実物そのものであり・・・時空間の範疇はなく、偶然と必然の区別はなく、あらゆる物体は生命をもっており、・・・要するに、いっさいの限界、いっさいの矛盾が存在しない。
岸田

そこで行われる、行為は、自己色情的口唇リビドーが、こうした論理に基づき、形成された様々な妄想と結びつき、性倒錯が発生するとの、説である。

別に、幼児でなくても、大人でも、そういう人は、多々存在すると、思うのだが・・・

幼児期にかこつけて、それを説明するようである。

つまり、私は、大人の中にも、幼児期が、存在していると、考える。
その、フロイトが定義した、幼児期の様々な概念が、である。
ただし、あくまでも、仮説に過ぎない。
それを、型にして、何事かを説明するのが、学者の仕事であろう。

その時期を通ってきた。つまり、その時期を、内包しているのである。
だから、大人になってからの、行為にも、幼児期の性欲の、形が現れるのである。

肛門期に入ると、幼児は、肛門的自己を発揮する。
肛門括約筋の機能を通して、自己を主張するのである。

肛門期リビドーは、肛門帯域を中心として、排泄活動に自己をかけるのである。
それは、支配欲と、攻撃を表現する手段になる。そして、リビドーを満足させる手段でもある。

糞便は、自己から、その肉体から分離したもの・・・
この時期の、対象は、糞便に象徴され、分離したものすべてが糞便と同じレベルとしてある。
幼児は、糞便により、得意になる・・・

肛門リビドーは、完全に対象リビドーにはならないが、半自己色情的、半対象的であり、対象そのものではなく、対象に対する、支配関係に備給されている。

肛門期の幼児にとって、重要なことは、自己が対象を支配しているということである。
そして、それが、はじめての、支配するものなのである。
糞便である。

この時期には、また、様々な、性倒錯の妄想が広がる。

アナルに感じるというのは、この時期の感覚が、生きているのである。
大人になっても、それを内包している。
だから、ゲイの中でも、男らしくある男が、アナルセックスによって、満足するということも、ここから来ていると、思われる。

脳が女で、受けるというのではない。
脳が男でも、この時期を脱していない男は、受けるのである。




posted by 天山 at 00:00| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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