2012年09月13日

天皇陛下について129

第六十三代冷泉天皇、967年より、969年。
即位は、康保四年、967年である。
18歳の御年。

村上天皇の第二皇子である。
だが、ご病気がちで、藤原忠平の長子、実頼が関白となる。
この時から、おおよそ、100年に渡り、藤原氏の栄華の世が続く。

摂政、関白をはじめ、朝廷の高位高官は、すべて藤原一族で占められたのである。

そうすると、一族の中での、内輪喧嘩がはじまる。
第六十四代、円融天皇、969年より、987年。
御兄の冷泉天皇が譲位されて、御位に就かれた。
一年後、実頼が死ぬ。

その後は、甥の、これただ、が継ぐ。
だが、二年目に死ぬ。
その弟の、兼通と、兼家がいて、二人は、官位争いをしていた。

兄は、中納言、弟は、大納言である。
弟の方が、天皇のご信任が厚い。
そこで、関白は、兼家と決まる。

ところが、兄の、兼通は、こういうこともあるだろうと、天皇の御生母が、自分の妹に当ることをいいことに、在世中に、関白の職は、たとえ官位の高低があっても、兄弟の順にすること、という、書面を貰っていたのである。

それを天皇に、差し出した。
母君の手蹟である。
天皇は、それで、兼通を関白に任じられた。

兄弟の仲は、悪くなるばかりである。

それから、五年後に、兼通が重病になる。
ある日、その門前に前駆の武士の人払いの声がする。
家臣が、報告する。兼家様の御車です。
見舞いに来たと思った。が、しかし・・・

兼家の車は、御所に向かうのである。
そこで、病気をおして、兼通が、御所に向かう。

すでに、兼家は、御前近くにいる。
そこへ、重病の兼通である。

そして、関白を、従兄弟の左大臣、頼忠に命じた。
そして、兼家を、現職の右近衛大将から、治部卿に落とした。

兼通の死ぬは、それから一ヵ月後である。
兄弟同士の、凄まじい権力争いを、天皇は見た。

だが、藤原の世は、続く。
円融天皇の後、第六十五代花山天皇、984年より、986年。
そして、第六十六代一条天皇、986年より、1011年。

兼家の娘が、その御生母である。
ここで、兼家は、ようやく摂政となる。

だが、その時代も、四年で終わる。
長子の、道隆が関白となった。

その弟が、道兼である。
矢張り、気に食わないのである。
五年ほどで、道隆が死ぬと、道兼が、関白になる。

ところが、道隆の子である、伊周、これちか、が、快く思わない。
そこで、人をして、道兼を呪わせた。
そのせいなのか・・・
道兼は、関白になり、七日で、死ぬのである。

ところが、それでは、伊周が、関白になったのか・・・
その翌年、大宰権帥に、左遷される。

この一条天皇の御世は、時代を飾る人々が出た。
女房文学といわれる、世界を創った、紫式部、赤染右門、和泉式部、小式部内侍など。
男子では、四納言といわれる、藤原斉信、藤原行成、藤原公任、源俊賢など。

一条天皇の逸話が残る。
厳冬の一夜、天皇は、御衣をお脱ぎ遊ばされた。
中宮が驚き、問い掛けた。すると、昔、醍醐の帝は、寒い夜に御衣を脱ぎ、万民の寒さの苦しみを憐れみ給う。私も、その御行為に習うばかりである。

一条天皇の長徳元年、この時、右大臣は、藤原道長である。
翌年には、左大臣になる。31歳。
およそ20年を務める。

三条天皇、1011年より、1016年。
そして後一条天皇、1016年より、1036年。
この間に、摂政となる。

後一条天皇は、9歳である。その御生母は、道長の娘、彰子である。

翌年に、摂政を子の頼道に譲り、太政大臣となる。更に、翌年、隠居する。53歳。

この年、三女の娘を後一条天皇の皇后にすすめ奉る。
三人の娘があいつで、三代の皇后に立ったのである。

その時、道長が詠んだ歌である。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば

すべてが、望み通りである。それは、十五夜の満月の欠けることのないほどだ。

如何に、得意だったか・・・

紫式部は、この中宮、彰子、しょうこ、に仕えて、源氏物語を書く。
それは、当時の宮廷の様子を見るものである。

女子供の文字、平仮名・・・
だが、物語の噂が噂を呼び、道長も、読むという。
世界初の散文小説として、有名である。



posted by 天山 at 00:06| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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