2012年09月12日

天皇陛下について128

第六十一代、朱雀天皇、930年より、946年。
その御誕生は、菅原道真の復権がなった、延喜23年である。

御位に就かれたのが、8歳である。
藤原忠平が摂政となる。

時平とは違い、俊敏、豪快さはない。
だが、藤原氏の勢力が益々、盛んになる。
更に、藤原氏に、対抗する者はいない。

兵士が弱くなり、民は苦しむ。
そこで有力な人々は、多くの家来を養い、武芸に励むのである。

それが、武士になってゆく。

藤原氏の人々が、高位高官にのぼり、思いのままの政治を行う。
排斥される者は、地方にやられる。

いよいよ、武士たちが、登場するのである。

この武士の中で、後世に名を残したのが、赤旗をシンボルにした、桓武平氏であり、白旗をシンボルにした、清和源氏である。

この両氏が名を上げたのが、朱雀天皇の御代に起きた、天慶の乱である。

東国では、平将門が、西国では、藤原純友が、乱を起こした。

二人の謀叛も、つまるところ、藤原氏の、政治に対してである。

将門は、桓武天皇のひ孫高望王、平氏の流れである。
将門は、藤原氏ではないため、職に就けなかった。
そして、東国で乱を起こす。

これを、京都に出て訴えたのが、武蔵介源経基である。
そこへ今度は、海賊を率いた、藤原純友の謀叛である。

純友は、鎌足十世の孫である。

良房、基経、時平の系列ではなく、長良、ながら、の系列である。
両者は、藤原冬嗣の息子である。

その五年後の、天慶9年、946年、朱雀天皇の皇太子が、御位に就かれる。

第六十二代、村上天皇である。946年より967年。
21歳である。

その四年後に、忠平が死んでからは、関白をおかず、自ら政治を執られる。
御父、醍醐天皇の御代に劣らぬようにと、文化の進歩を計られた。
それゆえ、延喜の治と並び、天暦の治、そして、後世、延喜・天暦の治、と讃えられる。

その天暦10年初秋、酷い日照りが続いた。
天皇は、紫辰殿にお出でになり、南の階の辺りにいた、年老いた下級の官士に気づき、その者をお召しになり、尋ねた。
世間では、今の世の政治をどのように申しているのか・・・

その返答を遠慮していた年老いた士は、
愚かな私どもには、よくわかりませんが、延喜の御代にくらべ、主殿寮から奉る松明が多く、率分堂に草が生えております・・・

つまり、松明が、多いのは、政務繁多で、夜に入ることが多いという。率分堂は、年貢を納める所である。そこに草とは、年貢が上がらず、空であること。
収入が多く、支出が多いということである。

天皇は、これを聞いて、大きに恥じと思し召す、のである。

原因の一つは、藤原氏のせいであろうが、天皇は、我が不徳と考えたであろう。
服御常膳を減じ、恩赦が行われた。

天皇が、35歳の、天徳四年九月にも、同じ措置をとる。
そして、その月のこと、御所が炎上した。
神鏡焼亡、という事件である。

その夜、天皇は、侍臣の叫びに起きた。
左兵衛の陣門が焼けております。消火はすでに無理と存じます・・・

天皇は、衣冠をおつけになり、南殿の庭にお出になる。
剣璽を入れた箱を持ち、左近中将重光が従う。

火勢は急である。
火は、すでに温明殿にも達していた。
延政門以南の廊も、すでに火である。

天皇は、転々として、避難場所を変えた。
その日記には、心神迷惑宛も夢裡の如し・・・

不徳の才をもって天子の位に久しくあり、この災に遭った。まことに嘆憂きわりなし・・・

温明殿の神霊鏡、他、多くのものが焼け出された。
内記所の文書なども・・・

後代のそしり、謝する所を知らず・・・人代以後内裏の焼亡三度なり。難波宮、藤原宮、今の平安宮なり・・・

謝するところ知らず・・・
つまり、すべての責任は、わが身にあるという。

天皇の心痛は、余りある。

そして、この火災は、藤原一族の我が代の春を作り出す、前兆だったのか・・・

第六十三代、冷泉天皇、967年より、969年に引き継がれる。
村上天皇の、第二皇子であり、18歳である。

だが、病気がちで、忠平の長子、藤原実頼が、関白となる。
この時から、おおよそ、100年間、第七十一代、後三条天皇が、御位に就かれるまで、天下の政治は、藤原氏の都合の良いものになるのである。

それは、朝廷の御威勢が、衰えるということになる。



posted by 天山 at 05:49| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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