マイヤー
夢が、無意識の産物であることを、確定しているのである。
それが、人どころか、あらゆる高等な脊柱動物においても、睡眠中に、リズミカルで規則的な夢活動が生じているのである。
そして、
夢の心理学は、物理学が観察者と観察される者との間の分裂の問題、即ち有名な主観/客観――関係の問題に遭遇したのと全く似た状況にある。
マイヤー
なのである。
無意識的な過程の心理学とは、出来る限り、客観の方へ移そうとする試みとなる。
主観と、客観の問題が、夢心理学のテーマである。
また、その研究においても、である。
フロイトも、夢を、抑圧、そして、検閲者という意識で解釈するため、その傾向を継いだ人たちが、逆効果を成してしまうという、誤りである。
精密になってゆく、神経生理学的研究により、夢現象を乱し、更には、破壊する。調べるべき現象を益々と、少ししか明らかに出来ないように、より細分化してゆく過程で、夢現象をすり替えた。
主観/客観という関係において、その間の境界を豪胆に客観の方へ押しやることで、物理学においてはついに心へ、心理学においては物理学に突き当たるであろうとことが推論できる。
マイヤー
それは、
心的なものは常に心的な手段によってのみ観察されうる、という昔から知られた事実を、少し複雑な仕方で言い表しているだけのことである。
マイヤー
と、なる。
その後の、夢研究の方法などは、専門家に譲る。
ただし、後に、再度、マイヤー氏の論述に触れることにする。
さて、フロイトは、無意識を意識に対する、否定的側面を強調したが、ユングは、無意識は、意識の母胎であり、自律的なものであると、解釈した。
ユングは、無意識は、それ自体一つの宇宙に比すべき、全体性が備わっていると、解釈する。否定的部分だけではなく、肯定的な部分もあり、全体として、統一され運動しているということだ。
ユングの方が、夢を積極的に利用する価値がある。
全体と考えた場合、生き方や、生きる社会の歪みを示唆し、それをプラスにも、マイナスにも生かし、何らかの、変容をもたらすものという意識である。
ユングは、それまで否定的側面が強調された、退行という概念も、退行は、退行のみを意味せず、むしろ根元的な生命に戻り、新たな生命力を精神活動の中に再統合する試みがあり、再生や、生まれ変りとしての意味を持つと、解釈した。
ユングの方が、フロイトより、随分と明るいものである。
だが、それには、才能が必要である。
夢分析という行為も、才能の成せる業である。
ユング研究所で、学ぶ人たちは、必ずその中から、師匠のような人に師事し、夢分析を受けたりする。
何となく、一子相伝とか、宗教の奥義を受け継ぐような行為をしている。
まあ、それが、ユング派と言われたり・・・
つまり、派閥、宗派の違いのようなものになる。
人間の本能・・・集うという、行為である。
学閥などという、言い方もする。
さて、それでは、ユングは自我というものを、どのように捉えたかである。
自我はもろもろの表象の複合体、コンプレックスと呼ぶ、が、意識野の中心を形成していて、高度の連続性と高度の自己同一性を備えている、とする。
認知し、記憶し、判断するのが、自我である。
更に、意志決定し、行動するのも、自我である。
それが、私ではないということになると、精神の病と、判断される。
自我に、ある程度の、まとまりがあるから、一貫した、認知、思考、行動を取るのである。
更に、意識を構成する要素について、心理学的類型論を作った。
世界に対する、基本的な態度によって、内向、外向と分けた。
この基本的態度に、意識の一定の機能として、思考、感情、感覚、直観の、四つが想定された。
この四つの機能は、合理性の対である、思考と感情、そして、非合理性の対、感覚と直観に、分けられる。
思考機能は、あるものが何であるかを知り、それに名をつけて、他の物事に結びつける。
感情機能は、あるものの価値を考慮すること、ある何かについての観点を持つこと。
感覚機能とは、五感で経験できる、あらゆる事実を表し、何かが存在するということを教えるが、それが何であるかを教えない。
直観機能とは、何かが生じているのは、どこか、どのような可能性が存在するかということを意識的な証明や知識によらず、感じ取るということ。
人は、この四つの機能のうち、一つを優越機能として持ち、更に、もう一方の機能を、補助機能として、用いているという。
この二つの態度と、優越機能および、捕縄機能の組み合わせにより、16の基本的類型を考える事ができるのである。
更に、ユングは、劣等機能にも、注目した。
それは、未分化という意味において、である。
自分の劣等機能を自覚し、自我に統合してゆくことを、個性の基本要素とした。
こう言われると、何となく、解った気になるものであるから、不思議だ。