2012年09月04日

神仏は妄想である。386

再度、繰り返しになるが、書いておく。

道教は、仏教や儒教という、支配者から支配者への伝播ではない。
更に、成立道教でもない。

大陸の民衆から、日本の民衆へ伝播されたものであると、考えるとよい。

一部を抜いて、大多数の渡来人は、日本の各地に定着して住むようになった。
中央ではなく、地方である。
彼らの生活圏と接触するのは、被支配者の人々である。

中央で、それなりの道教の使い方があったが、民衆から民衆の方が、強かった。
それは、日本史の上で、道教的な形で表面に出ているのは、古代のみである。
それ以降は、隠れてしまった。

中世以降は、仏教、神道、陰陽道、修験道、民間信仰などに習合されていったのである。

これは、恐るべきことである。
そして、私は、今、神道について、を書いている。
特に、神社神道である。その神社神道に隠れて、堂々と道教的なものが、息づいているということである。

紛れも無い事実である。

ただし、習合した後で、延々と続けていった過程で、それが日本の伝統として、認識されたものが、多々ある。
それは、それで、いいことだ。
日本的に解釈して、利用した。あるいは、昇華させた。

道教の、経典である、老壮思想が、道教とは別にして、読まれていたという、事実。

それは、それとして、解釈していたのである。

タテマエは、儒教でも、道教の経典、老壮思想があった。それと、民衆道教の、つながりは、無いのである。
それが、大陸と違うところである。

さて、各地の神社が、お札を配布し始めたのは、およそ鎌倉時代からである。
それが、道教の護符から来たことなどは知らない。
更に、お守りである。

その符についての、効力は、省略するが・・・
まあ、驚くほどの、影響なのである。

神社でも、お寺でも、配布する運勢暦なども、道教からのものである。

現世利益・・・最もそれが、強い。そして、それを必要とする人々は、辛く苦しい生活を強いられる、民衆である。

はっきり言うが、あれは、暗示効果による、力である。
暗示性が強い人には、よく利くのだろう。
これを持っていれば、大丈夫・・・

最後に、修験道を上げておく。
全く定義のつけられない、不思議な山伏の行為である。

平安期の中期から、現れて、中世、近世と、活発になっている。
山岳信仰とも、呼ばれるが・・・

山伏とは、呪術や祈祷で、病気を治し、悪事災難を逃れさせる力のある者である。
その呪術の大半は、陰陽道のマジックと同じである。その意味では、陰陽道の分派とも言える。
しかし、これが、また複雑で、密教の要素もあり、勿論、神道も混合する。

研究者は、修験道は、道教の日本版という人もいる。
また、密教のもつ仏教的要素と、陰陽道的要素が目立つが、その本質は、原始宗教の呪術、巫術であり、その信仰に他ならないとする説もある。

民族信仰を本質にするという説もあるが・・・

未だに、明確ではない。
また、彼らも、明確ではないはずである。

私も、山伏に出会ったことがあるが・・・
解らない。

滝に打たれて、修行するが、ヨガを教えているとか・・・
更に、その修行の場所の神社、寺院のお札を配布する。

神祇信仰とならんで、日本人の持つ現実肯定の論理の、具体化された一つの宗教であると言う、研究家もいる。

修験道にみる、陰陽道的呪術は、密教を通した、間接的摂取であろうとの、説もある。
兎に角、明確ではない。

そこで、言えることは、科学の無かった時代の産物であり、人の現世利益に寄与して、何がしか、特殊能力を得た者たちのことであろうと、思う。
その、特殊能力が、何処からのものであるのか。
まともなものではない。

何せ、当時も恐れられていた、山に入り、修行するというのである。
更に、肉体を痛める苦行を好む。
まともであるはずがない。

肉体を痛める苦行は、精神を固定化して、その性質を頑なにする。
柔軟な思考法が出来なくなる。

あるいは、迷信に浸りきる。
つまり、妄想全開なのである。

地域の行事として、年に一度くらい、そんな姿になり、山伏というなら解るが、本当の山伏には、近づかないことである。
思念は、強いはずであるから、その思いの力で、ある程度の、何事かは出来るが、まともではない。

まして、密教などから、影響を受けているもので、真っ当なものは、一つも無い。
あるのは、単なる強い思い込みである。
魔力という方が正しい。



posted by 天山 at 00:10| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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