2012年09月11日

天皇陛下について127

定省親王、つまり、宇多天皇である。
菅原道真に対する、深い信頼を持たれた。

長年に渡り続けてきた遣唐使の廃止を、道真が天皇に進言されると、遣唐使の派遣が終わった。

すでに多くの学問を取り入れて、十分に、その役目を果たしましたとの、言葉である。

だが、その道真に対する天皇の信任が、藤原氏の怨みを買うことになる。
事実、天皇は、道真を用いることで、藤原氏を牽制したのである。

天皇は、譲位二年後に、髪を剃り、法皇になられた。

天皇の譲位後を、上皇とお呼びする。
更に、上皇が、剃髪して、僧になられることを、法皇と申し上げる。

宇多天皇は、法皇の第一号である。

次の、醍醐天皇、897年より930年。
ご即位は、13歳の年である。

その二年後に、左大臣が、藤原時平、右大臣が、菅原道真である。

天皇が、16歳の時、法皇は、道真と時平の折り合いがよくないことを心配して、どちらか一人に、政治を任せようと思われた。

天皇が朱雀院に、お出掛けされた際に、色々と相談されて、道真を御前に召された。そして、仰せられた。
これから政治は、一人で執るように・・・

道真は、謙虚な人柄であり、その仰せを、お断りした。
これが、藤原氏に漏れたのである。

天皇の御弟の、斉世親王のお妃が、道真の娘であった。そのため、それが、謀略、讒言に利用された。

つまり、
道真は、厚い信認に満足せずに、畏れ多くも、陛下を廃し、斉世親王を御位に、つけようとしている、というものである。

天皇は、はじめは、それを信用しなかった。
だが、傍近くの者に尋ねると、相違ございませんと、応える。

そこで、藤原時平らの上奏のままに、右大臣を辞めさせ、大宰権帥という、低い位に落としたのである。

更に、左遷である。遠く九州の筑前へ・・・

それに驚かれたのは、法皇である。
ただちに、御所に掛け付けられたが、時平の一味であった藤原菅根らが、門を閉じて、入らないようにしたのである。

法皇も、粘るが、どうしても中に入ることが出来ずに、止む無く朱雀院へ、戻られた。

翌年、二月一日、道真は、九州に旅立つ。
そして、大宰府へ。

帥とは、長官という資格だが、仕事はない。
延喜元年、901年。
その三年正月、道真は、病にかかり、それが元で、二月二十五日、亡くなる。59歳だった。

この後、都では、ひでり、大雷雨、火事と、災禍が続いた。
中でも、不思議と言われたのが、時平はじめ、その一味が続々と死んだことである。

人々は、それを、菅原道真の祟りとして、恐れた。

この最中に、延喜二十三年、道真を右大臣に戻し、正二位がおくられ復権したが、災いは、続いた。

醍醐天皇は、ご成長して、益々と賢く、能力を発揮した。

ある年の、寒い冬の夜、天皇は、急に着衣を脱いだ。近くの者、驚き、お尋ねすると、この御殿でも、この寒さである。ここ以外の場所で、どうして多くの人は、寒さをしのいでいるものか。それを思うと、一人温まっている気にはなれないのである、と、お答えになった。

後世、この時代を、延喜の治、と言われた。
この時期に、三代実録、そして、天皇が進めた勅撰和歌集の、古今和歌集の撰などもある。

天皇の、訓戒書が残る。
多く酒飲することなかれ。人に会うてはただ用事をのべ、多くの言語するなかれ。またうちうちの貧富善悪のことはいわぬがいい。
また、そしるということではなくても、よからぬことを言う人がいたら席を立つがよい。もし、どうしても、席を立つ事ができないならば、そのことに同調したりせず、またそういうことを他言せぬがいい。
大怒はいけない。心中はそうでも、思い留まるように。
また、衣類、車馬など、あるにしたがって用い、美麗ぜいたくをしないように。
また簡単に、他人のものを借りるな。借りたら、出来るだけ早く返せ。また、ともにすべきでない物をともにするのは、一家の害のみにとどまらない・・・

菅原道真は、その後、天神様と讃えられ、学問の神様として、お祭りされている。

その後、第六十六代の、一条天皇の御代では、左大臣、正一位、ついで、太政大臣の位が、追贈されている。

だが、藤原氏の勢いは、続くのである。
益々と、奢る藤原氏である。

だがその後、時代は、武士という階級が起こってくることになる。
そして、世の中が、急激に変化するのである。

しかし、天皇の権威は、揺るぐ事が無い。

天皇家には、武器も、皇居には、身を守るものが一つも無い。
ただ揺ぎ無い、天皇の権威というものが、民の心に存在した。

それが、未だに、存続している、日本と言う国である。



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2012年09月12日

天皇陛下について128

第六十一代、朱雀天皇、930年より、946年。
その御誕生は、菅原道真の復権がなった、延喜23年である。

御位に就かれたのが、8歳である。
藤原忠平が摂政となる。

時平とは違い、俊敏、豪快さはない。
だが、藤原氏の勢力が益々、盛んになる。
更に、藤原氏に、対抗する者はいない。

兵士が弱くなり、民は苦しむ。
そこで有力な人々は、多くの家来を養い、武芸に励むのである。

それが、武士になってゆく。

藤原氏の人々が、高位高官にのぼり、思いのままの政治を行う。
排斥される者は、地方にやられる。

いよいよ、武士たちが、登場するのである。

この武士の中で、後世に名を残したのが、赤旗をシンボルにした、桓武平氏であり、白旗をシンボルにした、清和源氏である。

この両氏が名を上げたのが、朱雀天皇の御代に起きた、天慶の乱である。

東国では、平将門が、西国では、藤原純友が、乱を起こした。

二人の謀叛も、つまるところ、藤原氏の、政治に対してである。

将門は、桓武天皇のひ孫高望王、平氏の流れである。
将門は、藤原氏ではないため、職に就けなかった。
そして、東国で乱を起こす。

これを、京都に出て訴えたのが、武蔵介源経基である。
そこへ今度は、海賊を率いた、藤原純友の謀叛である。

純友は、鎌足十世の孫である。

良房、基経、時平の系列ではなく、長良、ながら、の系列である。
両者は、藤原冬嗣の息子である。

その五年後の、天慶9年、946年、朱雀天皇の皇太子が、御位に就かれる。

第六十二代、村上天皇である。946年より967年。
21歳である。

その四年後に、忠平が死んでからは、関白をおかず、自ら政治を執られる。
御父、醍醐天皇の御代に劣らぬようにと、文化の進歩を計られた。
それゆえ、延喜の治と並び、天暦の治、そして、後世、延喜・天暦の治、と讃えられる。

その天暦10年初秋、酷い日照りが続いた。
天皇は、紫辰殿にお出でになり、南の階の辺りにいた、年老いた下級の官士に気づき、その者をお召しになり、尋ねた。
世間では、今の世の政治をどのように申しているのか・・・

その返答を遠慮していた年老いた士は、
愚かな私どもには、よくわかりませんが、延喜の御代にくらべ、主殿寮から奉る松明が多く、率分堂に草が生えております・・・

つまり、松明が、多いのは、政務繁多で、夜に入ることが多いという。率分堂は、年貢を納める所である。そこに草とは、年貢が上がらず、空であること。
収入が多く、支出が多いということである。

天皇は、これを聞いて、大きに恥じと思し召す、のである。

原因の一つは、藤原氏のせいであろうが、天皇は、我が不徳と考えたであろう。
服御常膳を減じ、恩赦が行われた。

天皇が、35歳の、天徳四年九月にも、同じ措置をとる。
そして、その月のこと、御所が炎上した。
神鏡焼亡、という事件である。

その夜、天皇は、侍臣の叫びに起きた。
左兵衛の陣門が焼けております。消火はすでに無理と存じます・・・

天皇は、衣冠をおつけになり、南殿の庭にお出になる。
剣璽を入れた箱を持ち、左近中将重光が従う。

火勢は急である。
火は、すでに温明殿にも達していた。
延政門以南の廊も、すでに火である。

天皇は、転々として、避難場所を変えた。
その日記には、心神迷惑宛も夢裡の如し・・・

不徳の才をもって天子の位に久しくあり、この災に遭った。まことに嘆憂きわりなし・・・

温明殿の神霊鏡、他、多くのものが焼け出された。
内記所の文書なども・・・

後代のそしり、謝する所を知らず・・・人代以後内裏の焼亡三度なり。難波宮、藤原宮、今の平安宮なり・・・

謝するところ知らず・・・
つまり、すべての責任は、わが身にあるという。

天皇の心痛は、余りある。

そして、この火災は、藤原一族の我が代の春を作り出す、前兆だったのか・・・

第六十三代、冷泉天皇、967年より、969年に引き継がれる。
村上天皇の、第二皇子であり、18歳である。

だが、病気がちで、忠平の長子、藤原実頼が、関白となる。
この時から、おおよそ、100年間、第七十一代、後三条天皇が、御位に就かれるまで、天下の政治は、藤原氏の都合の良いものになるのである。

それは、朝廷の御威勢が、衰えるということになる。

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2012年09月13日

天皇陛下について129

第六十三代冷泉天皇、967年より、969年。
即位は、康保四年、967年である。
18歳の御年。

村上天皇の第二皇子である。
だが、ご病気がちで、藤原忠平の長子、実頼が関白となる。
この時から、おおよそ、100年に渡り、藤原氏の栄華の世が続く。

摂政、関白をはじめ、朝廷の高位高官は、すべて藤原一族で占められたのである。

そうすると、一族の中での、内輪喧嘩がはじまる。
第六十四代、円融天皇、969年より、987年。
御兄の冷泉天皇が譲位されて、御位に就かれた。
一年後、実頼が死ぬ。

その後は、甥の、これただ、が継ぐ。
だが、二年目に死ぬ。
その弟の、兼通と、兼家がいて、二人は、官位争いをしていた。

兄は、中納言、弟は、大納言である。
弟の方が、天皇のご信任が厚い。
そこで、関白は、兼家と決まる。

ところが、兄の、兼通は、こういうこともあるだろうと、天皇の御生母が、自分の妹に当ることをいいことに、在世中に、関白の職は、たとえ官位の高低があっても、兄弟の順にすること、という、書面を貰っていたのである。

それを天皇に、差し出した。
母君の手蹟である。
天皇は、それで、兼通を関白に任じられた。

兄弟の仲は、悪くなるばかりである。

それから、五年後に、兼通が重病になる。
ある日、その門前に前駆の武士の人払いの声がする。
家臣が、報告する。兼家様の御車です。
見舞いに来たと思った。が、しかし・・・

兼家の車は、御所に向かうのである。
そこで、病気をおして、兼通が、御所に向かう。

すでに、兼家は、御前近くにいる。
そこへ、重病の兼通である。

そして、関白を、従兄弟の左大臣、頼忠に命じた。
そして、兼家を、現職の右近衛大将から、治部卿に落とした。

兼通の死ぬは、それから一ヵ月後である。
兄弟同士の、凄まじい権力争いを、天皇は見た。

だが、藤原の世は、続く。
円融天皇の後、第六十五代花山天皇、984年より、986年。
そして、第六十六代一条天皇、986年より、1011年。

兼家の娘が、その御生母である。
ここで、兼家は、ようやく摂政となる。

だが、その時代も、四年で終わる。
長子の、道隆が関白となった。

その弟が、道兼である。
矢張り、気に食わないのである。
五年ほどで、道隆が死ぬと、道兼が、関白になる。

ところが、道隆の子である、伊周、これちか、が、快く思わない。
そこで、人をして、道兼を呪わせた。
そのせいなのか・・・
道兼は、関白になり、七日で、死ぬのである。

ところが、それでは、伊周が、関白になったのか・・・
その翌年、大宰権帥に、左遷される。

この一条天皇の御世は、時代を飾る人々が出た。
女房文学といわれる、世界を創った、紫式部、赤染右門、和泉式部、小式部内侍など。
男子では、四納言といわれる、藤原斉信、藤原行成、藤原公任、源俊賢など。

一条天皇の逸話が残る。
厳冬の一夜、天皇は、御衣をお脱ぎ遊ばされた。
中宮が驚き、問い掛けた。すると、昔、醍醐の帝は、寒い夜に御衣を脱ぎ、万民の寒さの苦しみを憐れみ給う。私も、その御行為に習うばかりである。

一条天皇の長徳元年、この時、右大臣は、藤原道長である。
翌年には、左大臣になる。31歳。
およそ20年を務める。

三条天皇、1011年より、1016年。
そして後一条天皇、1016年より、1036年。
この間に、摂政となる。

後一条天皇は、9歳である。その御生母は、道長の娘、彰子である。

翌年に、摂政を子の頼道に譲り、太政大臣となる。更に、翌年、隠居する。53歳。

この年、三女の娘を後一条天皇の皇后にすすめ奉る。
三人の娘があいつで、三代の皇后に立ったのである。

その時、道長が詠んだ歌である。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば

すべてが、望み通りである。それは、十五夜の満月の欠けることのないほどだ。

如何に、得意だったか・・・

紫式部は、この中宮、彰子、しょうこ、に仕えて、源氏物語を書く。
それは、当時の宮廷の様子を見るものである。

女子供の文字、平仮名・・・
だが、物語の噂が噂を呼び、道長も、読むという。
世界初の散文小説として、有名である。

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2012年09月14日

天皇陛下について130

藤原氏の、栄華を書いている。
藤原道長・・・

その後、第四女も、後一条天皇の、同母弟である、第六十九代後朱雀天皇が皇太子の時代に、妃に上がり、第七十代、後冷泉天皇をお生みである。

四女も、宮廷に入り、外孫に当る皇子三人まで、引き続き、御位に就かれるのである。

その勢いの盛んなことは、荘園の所有が皇室より、多いことで知られる。

更に、道長の隠居にあわせて建てた、法成寺は、奈良の東大寺にも負けない大きさである。

道長は、国の費用を使い・・・
自分のために、である。

更に、関白の頼通は、朝廷のことは、後で、法成寺の御用に励めと、命じた。

その寺を、人は、御堂と呼び、道長を御堂殿と呼んだ。
その道長が、死ぬのが、後一条天皇の万寿四年、1027年である。

法成寺は、後に灰になった。
つまり、栄華を極めたが、何も残らなかったのである。

しかし、その後も、摂政、関白は、藤原氏の子孫に限り、任ぜられるようになった。
後に、その家が分れて、近衛、鷹司、九条、二条、一条の、五家となり、五摂家と呼ばれた。

第七十一代後三条天皇、1068年より1072年。
この天皇が、藤原氏の、弊害を取り除くべく、志されたのである。

御位の御年は、35歳であらせられた。

後朱雀天皇の、第二皇子。
12歳で、皇太子となられて、23年間、藤原氏の、専横を見ていた。

皇太子になられてから、関白の頼通は、内心穏やかではなかった。とても、聡明であり、すべてを見通していたからである。

頼通は、自分の娘を、後冷泉天皇の皇后にしていた。
そして、男子を生むことを、願った。
そうすれば、その子を、皇太子にするつもりであった。

宇多天皇の御代から、皇太子に対して、必ず渡される、皇太子の印というべき、壺切の剣、というものがある。
それを、頼通は、渡さなかったのである。

その剣は、元々、藤原氏の所持していたものである。
藤原基経が、宇多天皇に献上した。それを天皇が皇太子である、醍醐天皇にお授けになった。以来、東宮ご相伝の護剣となったのである。

東宮でも、藤原の血筋ではない者には、渡さないとの思いである。

しかし、皇太子は、そんなものに、捉われなかった。
私が皇太子であることと、それと何の関わりがあろうか・・・

学問に御精進され、特に内外の歴史に、御心を尽された。
その師は、大江匡房である。

その期間が23年である。
賢い、皇太子に対して、頼通は、早く血筋を持つ男子の誕生を願った。

だが、それが来ないうちに、後冷泉天皇の崩御である。

藤原氏の女を御母としない、天皇、宇多天皇が誕生した。

それ以来、十一代、170年ほど、藤原氏の女を御母にしない、天皇が続くのである。

頼通は、御即位と共に、関白を弟、教通に譲り、宇治の平等院に隠居する。

宇多天皇は、関白の教通には、相談することがなくなった。
その為、藤原氏の、勢力が衰えるのである。

宇多天皇の、最初にされたことは、荘園の調査である。
荘園は、朝廷から、私有を許された土地である。
そして、租税を納めなくてもよい。

力ある者が口実を作り、土地を占有する。
国司の支配を受けずに、国の富を私するのである。

そのトップが藤原氏である。

一門の荘園は、全国に広がり、皇室を超えていた。
租税の無い土地が増加することは、他の土地租税が高くなる。
それでは、庶民が苦しむ。

働く者が、重税に苦しみ、貴族が税を納めない。

天皇は、その弊害を取り除くため、記録所を作り、取調べを監督された。

その結果、新荘園、古いものでも、証書不明確のもの、国の政治に障害のあるもの、それらを止めた。
勿論、藤原氏は、大打撃である。

だが、長年の実績を持つ藤原氏である。
教通が、奈良の南円堂、元の藤原氏の氏寺である興福寺、その工事を天皇に願い出た。

この工事は、再建中に、工事監督の大和の国司の任期が切れた。
教通は、その国司の再任を求めた。
しかし、天皇は、
国法を一家のために破ることは、よろしくない
と、お許しにならない。

教通は、再三願い出たが、遂に天皇は
関白や、摂政が恐ろしいのは、天皇の外祖でもあればのこと。私は何とも思わない
と、毅然と仰せられた。

教通は、御殿の出口で
われら藤原一門の公卿は、皆立て。春日大明神の、ご威光も、今日で尽きた
と、大声で喚いた。

春日大明神は、藤原氏の氏神である。

朝廷の重要な役職は、皆、藤原氏がおさえている。
それらが、いなくなると、政治が止まるのである。
天皇は、それでは困ると、改めて、教通の願いを許した。

しかし、以前のような、振る舞いは、出来ないのである。

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2012年09月15日

伝統について57

人目多み 常かくのみし さもらはば いづれの時か わが恋ひあらむ

ひとめおほみ つねかくのみし さもらはば いづれのときか わがこひあらむ

人目が多いので、いつもこのようにしていれば、常に恋に苦しむことだろう。

さもらはば
様子を伺う。
あらむ
恋しないときは、無い。

人目を気にするのは、現代と同じか・・・

敷たへの 衣手離れて 吾を待つと あるらむ子らは 面影に見ゆ

しきたへの ころもではなれて わをまつと あるらむこらは おもかげにみゆ

敷きたへの衣を交わすことなく、私を待っているだろう子が、面影に見える。

敷きたへ
衣の美称

子ら
親愛の接尾語

衣を交わす。つまり、交わることである。とても、大胆な歌である。
私との交わりを求める子が、いる。そして、その面影を見るというのである。

妹が袖 別れし日より 白袴の 衣片敷き 恋つつそ寝る

いもがそで わかれしひより しろたへの ころもかたしき こひつつそぬる

妻の袖を離れた日から、白袴の衣を、片方だけ敷いて、恋いつつ寝るのだ。

何かの理由で、妻と別れて来たのである。
そして、その妻を慕いつつ、片方だけを敷いて寝るという。
想う人がいる、という幸せを感じる。

白袴の 袖はまゆひぬ 吾妹子が 家のあたりを 止まず振りしに

しろたへの そではまゆひぬ わがいもが いえのあたりを やまずふりしに

白袴の袖が、ほつれた。私の妹子の言えのあたりで、しきりに振ったゆえか。

別れ際に、袖を振るという。
袖は当時、心を現す。

袖振る
愛情の表現である。

今でも、別れ際に、ハンカチを振る。

ぬばたまの わが黒髪を 引きぬらし 乱れてさらに 恋ひわたるかも

ぬばたまの わがくろかみを ひきぬらし みだれてさらに こひわたるかも

私の黒髪を引き解き、心も乱れて、更に、恋い続ける。

ぬばたま
漆黒の形容である。

激しい思いである。
黒髪を解いて、一層恋い続けるというのである。

これは、朝である。
昨夜の交わりを終えて、男が帰る前に・・・
黒髪を解いて、更に、更に、恋い続けるという、女の情。

大胆、素朴・・・
万葉の時代の生命力である。
そして、性がそのまま、生なのである。


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2012年09月16日

性について215

性のタブーはあらゆる文化に存在しており、人間に普遍的な現象である。これほど普遍的な現象が単なる外からの押し付けによって生じたとは考えがたい。とくに近親相姦のタブーは強力で、このタブーの起源についてはこれまでいろいろな説明がなされてきたが、どれも説得力を欠いている。
岸田

その、近親相姦が、普遍的、強力なのは、近親者が、幼児の最初の性欲の対象であるとの説である。

もし、性のタブー、とくに近親相姦のタブーがなかったなら、人間の精神発達は、幼児期にあまりのショックに押し潰され、挫折してしまうであろう。
岸田

つまり、この人は、そのように、分析している。

そして、
幼児の劣等感情防衛のための合理化の努力を外から支えてやる程度のものが必要であると言っているに過ぎないのであって、過ぎたるは及ばざるがごとしのことわざの通り、あまり強く押し付け過ぎれば、逆にまた有害な結果をもたらすであろう。
岸田

その証拠に、思春期に至れば、性能力を獲得し、性のタブーは、あまり必要ではなくなるという。

今や、性のタブーは、過去の防衛策の残骸であり、無用の長物である。
岸田

学者というものは、この程度なのである。

この説にも、説得力が無い。
近親相姦は、幼児ではない。
性能力を獲得した者が、行うのである。

その、大元を、幼児期の云々とは、説得力が無い。

それで、結局、フロイトの定義した、幼児期の概念を披露するのである。

心理学の講座という、暇つぶしの最たるものである。

結局、以下説明を繰り返すという、発展性のないものになる。

まず、口唇期である。
幼児の性欲が、その時、どのように発散されるのか・・・

正常な性行為以外の手段で、満足を求めるから、幼児は必然的に、性倒錯者にならざるを得ない。

口唇期、肛門期には、それぞれの、発散の仕方がある。

口唇期の、リビドーは、口唇の栄養摂取活動にあるので、その可能な活動によって、リビドーの満足を求めようとする。

なめる、しゃぶる、吸う、噛む、くわえる・・・
すべて、大人になって、性行為をする時と、同じ状態である。
これを大人の場合は、愛撫という。

口唇期の、幼児は、自己と区別されたところの一つの全体としての、他者の存在を知らない。幼児は、母親の乳房を知覚するが、それは、幼児の世界の中では、幼児の身体と融合していて、もし離れたとしても、それは取り戻して、自己の身体の一部とする。

それゆえ、口唇期の、リビドーは全体としての対象の認識を欠いている。
対象の認識を欠いたリビドーは、自己色情的で、自己と別個の存在としての対象とのかかわり方を知らないのであると、説明している。

また、この時期の幼児は現実と空想の区別を知らず、あとになって多少その区別がつくようになっても、依然、それは曖昧な区別に過ぎないから、そのスキをついて、いろいろな妄想が咲き乱れる。それらの妄想は、形式論理以前のいわゆる魔術的論理にもとづいて形成される。魔術的論理においては、同一律、矛盾律、排中律は欠けており、部分は全体であり、全体は部分であり、部分が同じであれば全体も同じであり・・・象徴はそれが表している実物そのものであり・・・時空間の範疇はなく、偶然と必然の区別はなく、あらゆる物体は生命をもっており、・・・要するに、いっさいの限界、いっさいの矛盾が存在しない。
岸田

そこで行われる、行為は、自己色情的口唇リビドーが、こうした論理に基づき、形成された様々な妄想と結びつき、性倒錯が発生するとの、説である。

別に、幼児でなくても、大人でも、そういう人は、多々存在すると、思うのだが・・・

幼児期にかこつけて、それを説明するようである。

つまり、私は、大人の中にも、幼児期が、存在していると、考える。
その、フロイトが定義した、幼児期の様々な概念が、である。
ただし、あくまでも、仮説に過ぎない。
それを、型にして、何事かを説明するのが、学者の仕事であろう。

その時期を通ってきた。つまり、その時期を、内包しているのである。
だから、大人になってからの、行為にも、幼児期の性欲の、形が現れるのである。

肛門期に入ると、幼児は、肛門的自己を発揮する。
肛門括約筋の機能を通して、自己を主張するのである。

肛門期リビドーは、肛門帯域を中心として、排泄活動に自己をかけるのである。
それは、支配欲と、攻撃を表現する手段になる。そして、リビドーを満足させる手段でもある。

糞便は、自己から、その肉体から分離したもの・・・
この時期の、対象は、糞便に象徴され、分離したものすべてが糞便と同じレベルとしてある。
幼児は、糞便により、得意になる・・・

肛門リビドーは、完全に対象リビドーにはならないが、半自己色情的、半対象的であり、対象そのものではなく、対象に対する、支配関係に備給されている。

肛門期の幼児にとって、重要なことは、自己が対象を支配しているということである。
そして、それが、はじめての、支配するものなのである。
糞便である。

この時期には、また、様々な、性倒錯の妄想が広がる。

アナルに感じるというのは、この時期の感覚が、生きているのである。
大人になっても、それを内包している。
だから、ゲイの中でも、男らしくある男が、アナルセックスによって、満足するということも、ここから来ていると、思われる。

脳が女で、受けるというのではない。
脳が男でも、この時期を脱していない男は、受けるのである。


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2012年09月17日

性について216

対象を糞便の延長線上にしか見ず、対象に対する攻撃と支配に重きをおく肛門的人格体制は、独自の存在をもつ対象にぶつかって破綻する。幼児は、この独自の存在をもつ対象との新しいかかわり方を見出さねばならない。ここで、自己と対象とをつなぐものとして登場してくるのが男根である。男根は、自己の肉体から突き出ていて、対象の肉体のなかにはいり、自己と対象とを一体とする。リビドーは、男根に集中される。
岸田

という、男根期である。

幼児の最後の期間である。

フロイトは、この男根期までは、男の子と、女の子は、同じ過程を進むとみた。しかし、この時期から、両者が別れてゆくのである。

女の子には、クリトリスが男根の役割を果たすが、あまりに、それは小さい。やがて、膣が発見されて、リビドーは、膣に移行するという、説である。

膣リビドーは、対象の男根を受け容れることにより、自己と対象とを、つなぐことを目指すといわれる。

だが、私は、この説をすんなり受け入れることは、出来ない。
その前に、膣より、クリトリスの快感を覚えるのである。

あらかじめ、決めておいたような説に、無理やり、合わせたという感じがする。

学者によると、男、女は、別々の過程を辿るという主張する人もいる。その方が、受け入れやすい。

さて、ここからは、聞き慣れた、エディプス・コンプレックスの時期に入る。
母親との、性行為を望み、父親に敵対する、と言う説である。

女の子は、母親をリビドーの対象とするが、そのうちに、父親に対象を切り替えるという。
この説明を延々と続けてきた、心理学の世界である。

だから、省略する。

いずれにせよ、エディプス願望は、挫折する。
挫折した、男根、膣リビドーは、抑圧され、残存していた、口唇リビドー、肛門リビドーと、混ざり合い、潜伏期の間は、目立った活動をしないのである。

あくまでも、仮説である。
その仮説を、真っ当だと、これにかこつけて、様々に分析してきたのが、世界の心理学である。
そして、日本の心理学である。
そこには、自分の幼児期の分析は、無い。棚上げしている。

知らぬ人は、ああそうかなーーー程度に聞いている。

そして、やがて、嵐の時期がくる。
思春期である。

肉体が成熟して、性交渉が出来る状態になる。
大量のリビドーが溢れる。
その、リビドーの正常なはけ口は、性交である。

性行為が出来れば、問題がない。ところが、無理である。社会的に・・・
ここで、正常なリビドーのはけ口を、性交と考えることである。
リビドーのはけ口は、マスターベーションである。

性行為が、社会的に認められなければ、方法は、それである。

心理学者は、正常な性交以外の満足の形式を知り、その形式に固着している・・と言う。マスターベーションといえば、済むことだ。

だが、その固着が、性倒錯を生むらしい。

成熟した、性器と、性器リビドーと、それ以前のリビドーを、前性器リビドーと呼ぶ。
その二つのリビドーの戦いがあるというのだ。

前性器リビドーが勝てば、性倒錯者になる。
性器リビドーが勝てば、一応正常者となる。

そのために、延々と説明する必要はないだろう。

ただ、面白いのは、性器リビドーが勝利を得た後でも、正常な性交で、何らかの挫折体験をきっかけに、前性器リビドーが勢力を盛り返して、性倒錯に移行することもあるという。

ここで強調しておきたいが、人間においては、成熟した異性同士の男根と膣の結合というリビドーの正常な表現形式は、けっして本能的なものではない。・・・人間の場合も、正常な性交は本能に規定されていると思われがちであるが、けっしてそうではない。
岸田

それは、エロスの発達の成果である。

個人を正常な性交に向かわせるのは性器リビドーであるが、リビドーが性器に備給されるのは、個人が、自己とは別個の独自の存在としての対象を発見し、この対象と自己とをつなぐものとしての男根の役割を、あるいはその男根を受け容れる膣の役割を認識したときにはじまるのであって、本能的、生理的に条件づけられているのではない。この認識がなければ性器リビドーは生じない。
岸田

私は、素人なので、ここまで書かれると、思わず、笑ってしまう。
だが、それが、まだまだ続く・・・

要約する。
認識は自我の機能であり、性器リビドーを成り立たせているのは自我である。自我は、現実原則に従っている。更に、快感原則に従って動くエスの衝動を統制し、有効に利用しようとする。

正常な性交は、自我が、対象関係の確立と種族の保存という二つの現実的に価値ある目的のために、快感だけを求める前性器リビドーを統制することに成功したときにはじめて欲求されるのである。人間は、本能だけに従っていたのでは、自己保存はおろか、種族保存すら可能でない。
岸田

岸田氏の、意見として、参考にさせて頂きます。ところで、先生は、大丈夫なのでしょうか。まさか、不能ということは、ありませんよね・・・
素人の私は、それを心配してしまうのである。

posted by 天山 at 05:42| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月18日

性について217

正常な性交が自然な姿であり、性倒錯は異常で不自然であるというのが一般の常識であるが、動物の場合ならいざ知らず、人間の場合は、正常な性交はけっして自然な姿ではなく、多分に無理をして獲得された形式なのである。
岸田

確かに、今までの説明を見ていると、その通りである。
また、私も、それに賛同する。

さて、その正常だと思われる性交の中に、前性器リビドーが細やかに入り込んでいる。
これは、私の言い方である。

正常な性交の中に、前戯とか、色々な性交体位、更に、誘発される、空想、妄想、本来、性交そのものとは関係ない、諸々の行為などは、それである。

前性器リビドーにより、正常行為も左右されるということである。

もともと性器以外の口唇や肛門を基点としているリビドーが性器の優位に完全に服することはあり得ず・・・・
岸田

同じ床にあって異なる夢を見ているのである。
岸田

上手い表現である。

それでも、性器リビドーが主流を占めている限り、正常と言われるのである。

さて、性倒錯に関しても、岸田氏は、人間の自然な姿ではない、と言う。

人間のエロスに関して、自然な姿など、そもそもどこにも存在しない。
岸田

ここに、岸田秀の分析が生きている。
そして一つの思想となる。

心理学者の名誉挽回である。

次ぎに、フロイトによる、精神生活を支配する二つの原則からである。

快感原則と現実原則である。
エスの本能的衝動は、快感だけを追求する。しかし、それだけだと、大きな苦痛を味わうことになる。そこで、自我が、現実原則に従い、エスをコントロールするのである。

だが、長期的に見た場合、結果的には、快感原則に従う、もしくは、奉仕するのである。
何故か。
人間は、快感を求めるからである。

そして、それは、人間特有の、精神的対立を生むのである。
ちなみに、動物のは、現実原則に従う。

自我が、エスの快感原則に従うと、不適応に陥る。
エスの衝動を抑圧しなければならない。

快感原則と、現実原則の対立・・・
人間の永遠の悩みである。

そして、人間は、この対立ゆえに、文化というものを、作り上げたという。

前性器リビドーは、ひとえに快感原則のみにもとづいており、あらゆる現実的有用性とは無縁で、純粋に無償のものである。それは完全に遊びのエロスである。それを現実的有用性をもつ正常な性交の枠のなかに押し込めるためには自我の強引な介入が必要である。
岸田

だから、更に、
性器リビドーも前性器リビドーも、不自然であるという点では同じであり、個人がどの形式によってそのリビドーを満足させようが、それは個人の自由であり、自然に反するという根拠にもとづく性倒錯者への批難や軽蔑は正当ではない。
岸田
と、なる。

性倒錯者は、神経症と同じ病人であるとは、言えないと、岸田氏は言う。

面白い例えを言う。
同性愛者を説いて異性愛に転向させるのは、正常な異性愛者を説いて同性愛に転向させるのと同じくらいむずかしい。

同感である。

そして、今、現代では、正常といわれる、性交が、性倒錯と同じように、純粋に無償の遊びとなっているのである。

要するに、妊娠しない、性交は、すべて不自然ということになるから・・・

経口避妊薬から、避妊技術の革命的な発達・・・
そして、妊娠のための、人工授精技術・・・

性交と、妊娠が明確に、切り離されているのである。

それは、
人間のエロスの、この点に関する快感原則と現実原則との対立はほとんど解消された。現実原則が快感原則に歩み寄ったのである。
岸田

時代が変わったのである。
それを、時代性という。
そして、そこに、人間の考え方を入れた時に、時代精神となる。

エロス・・・
新しい定義や、概念が必要になったのである。

今までの、観念的な遊びの時代ではない。

女の子の会話を聞いていて、彼氏、もう、食ったの?と平然として言う時代になった。食うとは、性交したか、しないかを言う。
昔は、男たちが、食った、食わないと、言っていた。
今は、男たちが、沈黙をはじめている。
そして、草食系・・・だと・・・
フリーセックスなどと言われた時代が遠退く・・・性とは、何か・・・

posted by 天山 at 06:35| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月19日

もののあわれについて580

御声もいと寒げに、打ちわななきつつ語ら聞え給ふ。見わづらひ給ひて、源氏「御衣ものなど、後見聞ゆる人は侍りや。かく心やすき御住ひは、ただいとうちとけたるさまに、ふくみなえたるこそよけれ。えはべばかり繕ひたる御装は、あいなく」など聞え給へば、こちごちしくさすがに笑ひ給ひて、末摘花「醍醐のあざりの君の御あつかひし侍るとて、衣どもえ縫ひ侍らでなむ。かはぎぬをさへとられにし後、寒く侍る」と聞え給ふは、いと鼻赤き御兄なりけり。




お声も寒そうで、ぶるぶると震えながら、お話しする。見かねて、源氏は、お召し物のことなど、お世話する者は、おりますか。このような気楽なお住まいでは、ひたすらくつろいだ格好で、ふっくらした、柔らかいものがいいのです。表面だけをつくろった身なりは、感心しませんよ、などと、おっしゃると、ぎこちなく笑い、末摘花は、醍醐のあじゃりの君のお世話をいたしますので、自分の着る物も、賄いません。かわぎぬ、まで取られてからは、寒くしています。と、申し上げる。それは、赤い鼻の兄君のこと。

醍醐に、末摘花の、兄がいるというのが、解る。
あじゃり、とは、僧職の位である。




心うつくしといひながら、あまりうちとけ過ぎたりと思せど、ここにてはいとまめやかにきすぐの人にておはす。源氏「かはぎぬはいとよし。山伏の蓑代衣にゆづり給ひてあへなむ。さて、このいたはりなき白妙の衣は、七重にもなどか重ね給はざらむ。さるべき折々は、うち忘れたらむことも驚かし給へかし。もとよりおれおれしく、たゆき心のおこたりに、まして方々の紛らはしききほひにも、自らなむ」と宣ひて、向ひの院の御倉あけさせて、絹綾など奉らせ給ふ。荒れたる所もなけれど、住み給はぬ所のけはひは静かにて、御前の木立ばかりぞいと面白く、紅梅の咲き出でたるにほひなど、見はやす人もなきを見渡し給ひて、

源氏
ふるさとの 春の木末に たづね来て 世のつねなら 花を見るかな

ひとりごち給へど、聞き知り給はざりけむかし。




心美しい、素直だというものの、これでは、あまりに構わな過ぎる、と思われるが、ここでは彼女は、実直で、無風流な人になっている。源氏は、かわぎぬ、は、そうされてもいいです。山法師の蓑代わりの合羽に、お譲りされてもいいでしょう。それはそれとして、惜しげの無い、白地の着物は、七枚でもよいのに、どうして、重ね着されないのですか。欲しい物がある時は、私の忘れていることでも、おっしゃってください。もともと、愚かで、心の動きの鈍い怠け者、その上、公私共に、雑用が続いて、ついつい、このようになってしまいます。と、おっしゃり、向かい側の院の倉を開けさせ、絹や綾などを差し上げる。荒れている所はないが、殿様が住みにならない所だけに、辺りも閑静で、庭の植木だけが、見所があり、紅梅の咲き始めた匂いなど、誰も、賞賛する人もいないのを、眺めて、

源氏
昔住んでいた里の、春の木の枝を訪ねて来て、世にも珍しい花を見たことだ。

と、独り言を言うが、姫君は、気づかないのである。

ここにては いと まめにきすぐの人にて おはす
他の人なら、冗談を言う、皮肉を言える、笑うこともできるが、末摘花では、さすがの源氏も、そのようにはいかないのである。

源氏の、独り言の歌の意味も、解さないであろう、姫君である。

珍しい花は、彼女の、赤い鼻を、かけている。

赤鼻の、末摘花・・・なんとも、登場人物としては、面白い存在である。




空蝉の尼衣にも、さしのぞき給へり。うけばりたる様にはあらず、かごやかに局住みにしなして、仏ばかりに所えさせ奉りて、行ひ勤めけるさまあはれに見えて、経、仏の飾り、はかなくしたるアカの具なども、をかしげになまめかしく、なほ心ばせありと見ゆる人のけはひなり。




空蝉の尼君の所へも、顔を出した。大層な様子ではなく、こじんまりとした小部屋を造り、住んでいる。仏様には、広い場所を差し上げて、勤行している様子が、胸にこたえて、経典や、仏様の装飾など、ちょっとした水入れの道具なども、趣味が見え、優美で、矢張り、気が利いていると思われる、人柄である。

うけばりたる様
得意げになること。
でも、空蝉は、それには、あらず・・・




青鈍の凡帳、心ばへをかしきに、いたく居隠れて、袖口ばかりぞ色異なるしも、なつかしければ、涙ぐみ給ひて、源氏「松が浦島を遥かに思ひてぞ、やみふべかりける。昔より心憂かりける御契かな。さすがにかばかりの睦びは、絶ゆまじかりけるよ」など宣ふ。尼君ももののあはれなるけはひにて、空蝉「かかる方に頼み聞えさするしもなむ、浅くはあらず思う給へ知られ侍りける」と聞ゆ。源氏「つらき折々重ねて、心惑はし給ひし世の報いなどを、仏にかしこまり聞ゆるこそ苦しけれ。思し知るや。かくいとすなほにしもあらぬものを、と思ひ合せ給ふ事も、あらじやはとなむ思ふ。と宣ふ。かのあさましかりし世の故事を、聞き置き給へるなめりと恥づかしく、空蝉「かかる有様を御覧じはてらるるより外の報いは、何処にか侍らむ」とて、まことにうち泣きぬ。いにしへよりも、もの深く恥づかしげさまさりて、かくもて離れたること、と思すしも、見放ち難く思さるれど、はかなきことを宣ひかくべくもあらず、大方の昔の物語をし給ひて、かばかりのいふかひだにあれかし、と、あなたを見やり給ふ。




青にび色の凡帳の、様子も面白いが、すっかりと体を隠して、座っている。袖口だけは、色が変わっているのも、女らしい感じがするので、涙ぐみ、源氏は、松が浦島は、遠くから思っているだけにして、来ないでおくべきでした。昔から、辛い御縁でした。と、言っても、この程度のお付き合いは、切れないものですね。などと、おっしゃる。尼君も、もののあはれなる気配にて・・・思いに耽る様子で、こうしたことで、お頼りすることは、ご縁が浅くないことだと、解りますことです。と、申し上げる。源氏は、辛い目を何度も見せて、私を迷わせた罪の報いを、仏に懺悔するとは、お気の毒だ。おわかりですか。私のように、おとなしいものはないと、お気づきになることも、ありはしないかと思います。と、おっしゃる。あの情けなかった、昔の事を、お耳にしているだろうと、顔も上げられず、空蝉は、こうした私の、最後の姿を、お目にかけなければならぬ以上の報いなど、どこにありましょうか。と、心の底から、泣くのである。源氏は、昔よりも、一層、思慮深く落ち着き、こうして、独り身を保っているのだと、思うと、かえって、捨てておけない気にもなる。だが、浮いた話を仕掛けるわけにもゆかず、昔や今の、世間話をされて、この程度の話し合いに、なって欲しいものだと、末摘花の方を、御覧になる。

松が浦島
後撰集
音に聞く 松が浦島 今日ぞ見る むべも心ある あまは住みけり

もののあはれなるけはひにて
ここで、はじめて、もののあはれ、という、言葉が出る。
あはれ、ではない。
空蝉の全体の雰囲気に、感じられる、もののあはれ、である。

その人生のすべての、有様を、もののあはれなるけはひ、として、表現するのである。
これ以上の、言い方は無い。

もののあはれなる様子
人生をすべて凝縮させて・・・

いずれの身も、この、もののあはれ、に、行き着く日本人の言葉となったのである。
もののあはれ、の、概念云々を言う人がいる。
概念を超えるものは、言葉に出来ない思いである。
そして、それで、よしとした、日本人の感性である。

あはれ、の一言が、すべてを語ることがあるという、事実である。


posted by 天山 at 04:31| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月20日

もののあわれについて581

かやうにても、御かげに隠れたる人々多かり。皆さしのぞき渡し給ひて、源氏「おぼつかなき日数つもる折々あれど、心の中におこたらずなむ。ただ限りある道の別れのみこそ、うしろめたけれ。命ぞ知らぬ」など、なつかしく宣ふ。何れをも程々につけて、あはれと思したり。われはと思しあがりぬべき御身の程なれど、さしも事々しくもてなし給はず、所につけ、人の程につけつつ、あまねくなつかしくおはしませば、ただかばかりの御心にかかりてなむ、多くの人々年を経ける。




これくらいのあり様で、源氏の世話になる婦人たちは多い。その住まいの皆に、一人一人顔を出して、源氏は、無沙汰に過ごす日が多くなることが時にはあっても、心のうちでは、忘れていない。ただ、命が尽きて、お別れだけが、心配です。命は、解らないことです。などと、優しくおっしゃる。どの婦人に対しても、その身分に応じて、情けを持っている。我こそは、と、思い上がった心になりそうな、身分であるが、そのような横柄な振る舞いはしない。場所に応じ、身分に応じて、どなたにも、なつかしく、優しく接するのである。ただ、それだけを、拠り所にして、多くの婦人たちが、年月を送っている。

あはれと思したり
愛情持って、情け深く、など、心のあり様を言うのである。

憐れみではない。
哀れではない。

この、源氏の心に、もののあはれ、というものを、表現して、描いた物語なのである。




今年は男踊歌あり。内裏より朱雀院に参りて、次にこの院に参る。道の程遠くて、夜、明け方になりにけり。月の曇りなく澄みまさりて、薄雪すこし降れる庭のえならぬに、殿上人など、ものの上手多かる頃ほひにて、笛の音もいと面白く吹き立てて、この御前はことに心づかひしたり。御方々も物見に渡り給ふべく、かねて御消息どもありければ、左右の対、渡殿などに、御局しつつおはす。西の対の姫君は、寝殿の御方に渡り給ひて、こなたの姫君、御対面ありけり。上も一所におはしませば、御凡帳ばかり隔てて聞え給ふ。




今年は、をとこどうか、あり。まず宮中から朱雀院に参上して、次に、六条の院に参上する。道のりが遠いので、夜の明け方になっていた。月は、一点の曇りもなく、澄み渡り、薄雪が少し降り積もった。言いようもない、美しい庭に、殿上人などで、音楽の上手な人が多いこの頃のとこで、笛の音も、大変面白く吹き鳴らし、六条の院の御前では、特に、気を配っているのだ。ご婦人方も、見物にお越しになるようにと、前もってお手紙があったので、寝殿の左右の対の屋、渡り廊下などに、席を設けて、おいでになる。西の対の姫君は、寝殿の南の部屋においでになり、明石の姫君と対面した。紫の上も一緒なので、凡帳だけを間に置いて、お話になる。




朱雀院の后の宮の御方など巡りける程に、夜もやうやう明け行けば、水駅にて、ことそがせ給ふべきを、例あることよりほかに、さま異に事加へて、いみじくもてはやさせ給ふ。影すさまじき暁月夜に、雪はやうやう降りつむ。松風小高く吹きおろし、ものすさまじくもありぬべき程に、青色のなえばめるに、白襲の色あひ、何の飾かは見ゆる。かざしの錦は、にほひもなきものなれど、所がらにや面白く、心ゆき、命延ぶる程なり。殿の中将の君、内の大殿の君達、そこらにすぐれて、めやすくはなやかなり。




朱雀院の、母后の御所などを廻り、夜も次第に、明けてゆくので、水駅で、簡単にされるはずだったが、決まり以上に、特別に追加して、とても景気をつけるのである。身の引き締まるような明け方の月に、雪は段々と降り積もる。松風は高い木の上から吹きおろし、興ざめしかねない時分に、人々の、青色のうえの絹の、柔らかくなったのに、白い下重ねを着ている色の、取り合わせは、何の飾り気も感じられない。頭につけた、かざしの綿花は、色艶もないが、場所のせいか、風情があり、心も満ちて、命も延びる頃である。殿の中将の君と、内大臣の子息たちは、大勢の中でも、特に立派で、気持ちよく、派手である。

この中将とは、夕霧のことである。

水駅、とは、酒や湯を出す場所であり、饗応である。




ほのぼのと明け行くに、雪やや散りて、そぞろ寒きに、竹河謡ひて、かよれる姿、なつかしき声々の、絵にもかきとどめ難いからむこそ口惜しけれ。
御方々、何れも劣らぬ袖口ども、こぼれいでたるこちたさ、物の色あひなども、曙の空に春の錦立ち出でにける霞の中かと見渡さる。あやしく心ゆく見物にぞありける。さるは高巾子の世離れたるさま、寿詞のみだりがはしき、鳴子めきたることもことごとしくとりなしたる、なかなか何ばかりの面白かるべき拍子も聞えぬものを。例の錦かづき渡りてまかでぬ。




ほのぼのと夜が明けて、雪がちらつき、何となく寒いが、竹河を謡い、寄り添う舞姿、優美な楽の声などは、絵にも描き残せないのが、残念である。
ご婦人方の、どなたも、いずれも劣らぬお召し物の袖口が、御簾からこぼれ出ている豊かさ。色合いなども、明け行く空に、春の霞が姿を現した霞かと見える。本当に、満足できる、見物であった。とは言え、高い巾子、こうじ、の世間離れした様子と、祝いの言葉を述べる騒々しさ、馬鹿らしいようなことも、最もらしく行為する様は、かえって、何と言うほどの面白い拍子も聞えないが、例の如く、錦を頂戴して、退出した。

春の錦立ち出でにける
古今集 素性法師
見渡せば 柳さくらを こきまぜて 都ぞ春の 錦なりけり




夜明け果てぬれば、御方々帰り渡り給ひぬ。大臣の君、すこし大殿籠りて、日高く起き給へり。源氏「中将の声は、弁の少将にをさをさ劣らざらめるは。あやしく有職ども生ひ出づる頃ほひにこそあれ。いにしへの人は、まことに賢き方やすぐれたることも多かりけむ。情だちたち筋は、この頃の人にえしもまさらざりけむかし。中将などをば、すくずくしき公人にしなしてむとなむ思ひおきてし。みづからのあざればみたるかたくなしさを、もて離れよと思ひしかど、なほしたにはほのすきたる筋の心をこそとどむべかめれ。もてしづめ、すくよかなるうはべばかりは、うるさかめり」など、いとうつくしと思したり。万春楽、御口ずさみに宣ひて、源氏「人々のこなたにつどひ給へるついでに、いかでものの音こころみてしがな。私の後宴すべし」と宣ひて、御琴どもの、うるはしき袋どもして秘めおかせ給へる、皆引き出でて、おしのごひて、ゆるべる緒整へさせ給ひなどす。御方々、心づかひいたくしつつ、心けさうをつくし給ふらむかし。




夜が明けたので、見物の御婦人たちは、それぞれ、お帰りになった。大臣の君は、少し眠られて、日が高くなってから起きられた。そして、中将の声は、弁の少将に比べてほとんど、劣っていないようだ。変にベテランが現れるこの頃だ。昔の人は、本当に学問の面で優れたことも、多かったが、趣味の面では、近頃の人には、とても適わないだろう。中将などを、生真面目な役人にしょうと決めていた。自分の風流に偏る融通のなさを、真似させないようにと思ったが、やはり心の中には、遊びの事も、心得ていなければならない。表向きは澄まして、真面目にしているだけでは、駄目だろう。などと、可愛いと思うのである。万春楽を口ずさみつつ、源氏は、女の方々が、こちらに集まり、どうかして音楽会をやりたいものだ。こちらの、後宴をしよう。と、おっしゃり、弦楽器などの、見事な袋に入れた秘蔵のものなどを、皆取りだして、ほこりを払い、緩んでいる糸を調律させる。ご婦人方は、気を使い、心の準備を充分にしていらっしゃるらしい。

中将の君とは、源氏の子、夕霧である。
我が子の成長を、可愛いと思う、父親としての、源氏が見られる。

初音を終える。


posted by 天山 at 06:08| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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