2012年09月01日

神仏は妄想である。383

道教の経典に関して、記述するのは、大変なことである。
諸説ある。

だが、その経典は、道教独自に成り立った訳ではない。
仏教と、対決するために、そっくりと、仏教の経典を真似たものである。

例えば、大蔵経や、十二部経の分類法である。

ただ、簡単に要約する。
下出氏の、案内に従い書くことにする。

第一は、哲学的部門であり、道教の神学に属するものすべてを扱う。
この部門は、道家、陰陽五行、易などが入る。
第二は、伝記的部門である。
神仙、道士の伝記を中心とする。
系譜や、語録、詩集などである。

第三は、数術である。
これは、方術を言う。日本で言えば、方位学となる。
勿論、日本の方位学といわれるものの多くは、省略、単純にされたものである。
学などとは、つけられない程、安易なものである。

第四は、医術的部門である。
量的には、この部門に属するものが、最も多い。その方法も、非常に多くの種類に分れている。
第五は、倫理的部門である。
中国民衆の道徳生活に、深く関わる。儒教よりも、強く影響を与えた。
だが、今は、そんな道徳など一切ないようである。

その中で、最も、量が多いといわれる、医術である。
前回も、それは、書いたとおり。

へき穀、服餌、煉丹、調息、導引、房中である。

へき穀は、五穀を避けて、火食を断つこと。
その理由は、人間の精神は、本来、自由であるが、肉体のために、束縛されて、長生きが妨げられるというもの。よって、へき穀により、肉体を清浄に保つという。そのための、方法である。

その良し悪しについては、今は、避ける。

服餌とは、不老長生を計るための、種々の薬の服用法である。
煉丹とは、その製造法である。

煉丹で、最高に重んじられたのが、神仙になるための、性能の特に高い、金丹とか、神丹と呼ばれる仙薬の製法で、単に病気を治すための薬は、下薬といわれた。

調息と、導引は、同じ趣旨のものである。
身体中の気を保つ方法である。
腹式深呼吸、柔軟体操、マッサージ・・・

道教の神学にある、気、というものの、取り入れ方である。

天地の元気を呼吸して、その気を損ずることのないようにという。
無病息災で、長生きができるというもの。

房中とは、そのものズバリ、セックスである。
調息や、導引と同じだが、これは、男女の関係が必要である。

性生活の調和を計ることにより、元気を保存して、長生きをするというもの。

兎に角、長生きの秘訣なのである。

上記を読んで、日本で言われる、健康法のすべてが、ここから、出ていることが解るというものだ。

この医術は、決して病を治すものではない。
中には、そのような薬もあるが、それは、下薬として、劣等視されていたのである。

ところが、隋、唐の時代の、医書には、道教の医術を取り入れているものが、多数ある。
それらは、病を治すという意味の方が強い。

そして、日本の医術は、隋唐の医術の完全な、影響下にあったということである。
つまり、日本の医術は、それとは知らず、受け入れていたのである。

隋唐の、医学として、取り入れてしまった日本である。

そして、漢方といわれるものも、である。
実に、恐ろしいが、事実である。
厳密に言えば、漢方の源流である。

日本で、現存する、最古の医書は、医学を家の伝統とする、丹波康頼が、円融天皇に奏進するために、平安中期の永観二年、984年に著した、医心方、である。
30巻である。

それは、隋の巣元方の、病源候論、に基づいて著されたものである。
当時は、最も、正統的な医書である。

その内容は、主要な、治病方をあげて、仔細に述べている。そして、本草・薬性などとともに、養性、服石、房中などを、独自の項目にして、論じている。

注目は、道教の医書が、大きく取り上げられていることである。

平安初期までに、日本にもたらされた、医書の半分以上が、道教の系譜をひくものであるというのが、驚きである。

下出氏は、間接的なものを含めれば、そのほとんどが、道教からのものだと言う。

日本の医学の、平安期以後は、その医術と治療法は、道教からのものであると、断定できるのである。

よほど、興味のある人にしか、解らないことである。
現在も、漢方薬として飲むものの中には、道教の仙薬の一つを飲んでいるのである。

私も、ここに至り、今までの、無知を知らされたのである。
如何に、道教が日本に深く関わっていたのか・・・
計り知れないのである。


posted by 天山 at 00:05| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月02日

神仏は妄想である384

道教の仙薬とは知らず、現代でも漢方薬と名を替えて、利用されているという、事実に驚くばかりである。

だが、9世紀の日本では、道教の医術は、異端、不純なものと、判断された。
だから、それらは、民間の医師や、人の口から伝わった。
民間療法と言われるものの中に、道教の医術が隠されているのである。

さて、医術と並び、もう一つ重要視されたのが、方術である。

神仙とは、自然の理にかない、生老病死を超越し、自由と全能を獲得するものである。
自然の理にかなうことが、神仙になるための、基本的条件である。

だが、人間は、容易に自然の理にかなうことが出来ない。
そのために、困難な修行と、難しい手続きを経る必要がある。

それが、道教の方術である。

その第一が、禁呪、きんじゆ、である。
災いを避け、長生を得るために、おまじない、呪文、更に、タブー、吉凶の判断と、星占いなどの、様々な占いである。

それらは、老荘の説く、自然の道理に源があり、道家の思想を具体化したものとして説かれるが、それは、すべて後からの、こじ付けである。

次ぎは、符ロクという、災い消し、病気を治し、妖怪変化、死霊の祟りを排除する力のある、護符札、お札、である。

それを持てば、神仙と同じ力が得られるという。
ここで、面白いのは、陰陽師といわれた人たちが、このお札を使い、鬼神をも自由に駆使することが出来たということである。

式神とも、呼ばれる。

風を呼び、雨を降らせるなど・・・
人間の欲望の数だけ、それらがあり、実に多種多様である。

そして、それらの後には、元始天尊、以下、道教の神々の加護があると、考える。

その神々に祈りを捧げる、祈祷の儀式をする。
これも、方術の部門である。

だが、それは、日本では発展しなかった。
専門の道士というものは、日本にはいないのである。

さて、当時の日本の官庁として、主要なものが、三つあった。
大学寮、陰陽寮、典楽寮である。

大学寮は、文官の養成期間であり、陰陽寮と、典楽寮は、特殊技能者の養成所である。

典楽寮は、各種の薬剤、今の漢方薬に当るものの、製剤処理、病気の治療、薬草園の管理などの、専門家が所属した。また、それらを養成する機関である。

専門職務は、医、針、按摩、呪禁、薬園、五種類である。
薬園以外は、皆、直接、病気の治療に携わる。

医、針、按摩は、現在のものと、同じようなもの。
ただ、呪禁は、道教の方術に当るものである。

その専門職として、呪禁師二人、呪禁博士一人、呪禁生六人の定員があり、医師、医博士に次ぐ、待遇を受けていた。

だが、具体的な働きについては、よく解らないのである。
道教の信仰とは、別にして、その方法のみを取り入れていたのである。
更に、道教の医方、マジックである、呪禁は、次第に消えてゆくのである。

呪禁とは、肉体を若々しく保ち、命を永らえさせ、生活の安全を図るための、方術である。しかし、この道教のマジックの力が信じられるほどに、その本来の目的とは違う、異常な方向に発展したのである。

社会上や感情上のおのれにとって都合の悪いもの、いわば、公私両生活においてのおのれの対立者、敵対者などへの強い脅威を与えるもの、そういった方向へのマジックの展開が希求されてくる。
下出積輿

それは、自己の安全に力があると信じられるほど、これを逆用される相手からは、恐るべき、脅威となるのである。

大陸においても、その展開が、非常に顕著であったという。

端的に言えば、呪いである。
その中には、様々な方法がある。

その中に、厭魅、えんぴ、とか、コウ毒というものがある。
えんぴは、密かに人形を作り、その心臓や目に釘を打ち付ける。手や足を縛る。すると、相手が、その苦しみを受けて、死に至るというものである。

魅とは、鬼神に託して、相手を呪う。
呪詛を符書に従い作製し、相手を殺そうとするものである。
それを、秘密裏のうちにする。

コウ毒は、数多くの虫、蛇の類を同じ壺に入れて、お互いに食い合わせる。そして、最後に残ったものの精を利用するというもの。

これらは、奈良、平安の頃の人の心に、怖れと不安を抱かせるのに、最適だった。

さて、典楽寮は、病気の治療と、予防に従事すると共に、専門家を養成する。それが、道教の医方、呪禁が、取り入れられ、医方以外の一分野として設置されたのも、効果のあるものと認識されたからである。

例えば、呪方などは、現代の心理療法ともいえるもので、その効果は大きかったのである。

それは、日本が模範にした唐でも、取り入れられていたからである。

無批判に近い態度でほとんど模倣的に設置したのが実情である。
下出

だが、上記の内容は、現代までも、生きている。人を呪い、丑三つ時に、藁人形を釘で打ちつけるなど・・・

posted by 天山 at 00:14| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月03日

神仏は妄想である。385

さて、道教の傑作は、陰陽道であろうと、思う。
そして、陰陽師である。

小説家の書いたもので、世に知られるようになった、陰陽師。
とても、怪しい。
その大元が、道教からのものであること・・・

平安時代、天皇、皇族、摂政関白という身分の高い人たちが、公的な行事に常の住まいから出掛けようとする際に、陰陽師が、呪文を唱え、一種の足踏みを行い、行く道の邪悪障害を取り払うという、作法を行う。

反閉、へいばん、と言う。

その後は、貴族だけではなく、武士も行ったというから、広く認識されたのである。

反閉は、陰陽道の呪法として、特に重んじられた。

建長六年、1251年、土御門時親の奉仕したものが、後年、手本となる模範的なものだとされた。

この呪法は、邪気を反覆閉塞して、生気を迎えて、幸を開くという意味である。
別名は、ウ歩とも、呼ばれる。

勿論、道教の方術の一つである。

その一つの例を上げると、右足を前に進め、ついで左足を前に進め、また右足を前に進める。そして、その右足に左足を揃える。
それが、第一歩である。
次に、右足を前に進め、左足を前に進めて、その左足に右足を揃える。
第二歩である。
次ぎは、左足から前に進め、続いて、右足を前に進めて、右足に揃える。
第三歩である。
以上で、終わる。

このような、特殊な歩き方をして、邪気を払うことができるというのが、道教の呪法の教えであり、特に、山にはいるときには、必ず心得ておかなければならないとされた。
現代でも、山は危険である、当時は、更に危険であった。
だが、山に入るというのは、神仙道を修めるためであり、その呪法を高めるためだった。

山の中にある、邪気、邪鬼から自分の姿を隠し、あらゆる悪霊の障害を避けて、目的を達成できると、考えた。

それが、反閉の法である。
そして、それが、更にすべての邪気にも、利くということになる。

平安期に大成された、陰陽道の代表的な方術の一つである。
それが、武士に広がり、一般庶民にも広がる。

近世以降、有識者たちは、迷信として蔑視する態度を取ったが、実質的には、そうではない。それは、日本化されて、多くの習俗の基礎をなしたのである。

この陰陽道は、中国で発生した、陰陽思想、陰陽五行説を母胎にしたものである。だが、それは、道教や、儒教を構成する要素になっていたのであり、それ自身としては、独自の道を展開してゆくことはなかった。

思想としての、陰陽道は、存続したが、具体的な形として、陰陽道という、展開はなかったのである。

これらの方術は、六世紀のはじめに、日本に伝わり、陰陽寮が設けられて、陰陽師以下の、専門職が存在した。
だが、呪禁も、陰陽も、共に、その方術は同一の基盤から発生したが、日本にては、呪禁は、人間の体に関する理法を究めて、それを処置するものであり、陰陽の方は、自然の理法、体を巡る外界についての、最高の法とされ、それらに対処する、道と見なされた。

呪禁は、医、針と同じように、疾病の治療法とされて、典薬寮に、陰陽の方は、別物として、陰陽寮に配置されたのである。

更に、それが、陰陽寮の方術と曖昧になり、奈良末期には、ついに典薬寮の呪禁が弾圧されたのである。

その職は、官制からも、姿を消す。
そして、方術の使い方は、素人には無理で、専業者を必要とする。呪禁者を認められなくなった以上、その方術は、必然的に、陰陽寮の陰陽師以下の者たちに、流れていかざるを得ない。

呪禁師の携わる、方術を生かすのは、陰陽寮の学問と、方術以外にないのである。

そして、平安期に入ると、陰陽寮の方術には、天文暦数よりも、呪術的、それも反閉の象徴とされる、マジックが急激に増えたのである。

しかし、大陸には無かったものである。
つまり、奈良時代の、典薬寮の呪禁を、生成発展させたものになったと、考えるしかない。

日本独自の、発展を遂げたのが、陰陽道であるといえる。
とすると、様々なタブーなどは、その頃からのものであるといえるのである。

恐るべき、道教である。
当時の、知識階級が、貪欲に取り入れた漢籍から、何もかにも、取り入れて、日本独自のものを作り上げるというエネルギーは、凄まじいが、あまりにも、無批判に取り入れたのである。

そして、それを、左道、サドウ、と呼ぶようになる。
それは、誤りの道である。
特に、呪法は、危険極まりないものとした、意識が生まれてくる。

それによる、悲劇も、多々存在した。

しかし、果たして、その呪法なるものの、真偽の程は、どうなのか・・・
それが、後に、山岳信仰などに取り入れられて、実に、奇妙なものになってゆくのである。
更に、密教とも、結びついて・・・

人間の、果てしない妄想の世界が、進化するのか、生成発展するのか・・・

日本の礼儀とか、常識というものの中にも、その時代の道教の息吹が残るのである。

更には、神道という、日本古来の信仰形態の中にも、揺るがない地位を築いてゆくのである。何せ、道教の理論に取り込まれた神道理論も生まれたのである。
勿論、それを説いた本人たちは、知らない。

posted by 天山 at 00:31| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月04日

神仏は妄想である。386

再度、繰り返しになるが、書いておく。

道教は、仏教や儒教という、支配者から支配者への伝播ではない。
更に、成立道教でもない。

大陸の民衆から、日本の民衆へ伝播されたものであると、考えるとよい。

一部を抜いて、大多数の渡来人は、日本の各地に定着して住むようになった。
中央ではなく、地方である。
彼らの生活圏と接触するのは、被支配者の人々である。

中央で、それなりの道教の使い方があったが、民衆から民衆の方が、強かった。
それは、日本史の上で、道教的な形で表面に出ているのは、古代のみである。
それ以降は、隠れてしまった。

中世以降は、仏教、神道、陰陽道、修験道、民間信仰などに習合されていったのである。

これは、恐るべきことである。
そして、私は、今、神道について、を書いている。
特に、神社神道である。その神社神道に隠れて、堂々と道教的なものが、息づいているということである。

紛れも無い事実である。

ただし、習合した後で、延々と続けていった過程で、それが日本の伝統として、認識されたものが、多々ある。
それは、それで、いいことだ。
日本的に解釈して、利用した。あるいは、昇華させた。

道教の、経典である、老壮思想が、道教とは別にして、読まれていたという、事実。

それは、それとして、解釈していたのである。

タテマエは、儒教でも、道教の経典、老壮思想があった。それと、民衆道教の、つながりは、無いのである。
それが、大陸と違うところである。

さて、各地の神社が、お札を配布し始めたのは、およそ鎌倉時代からである。
それが、道教の護符から来たことなどは知らない。
更に、お守りである。

その符についての、効力は、省略するが・・・
まあ、驚くほどの、影響なのである。

神社でも、お寺でも、配布する運勢暦なども、道教からのものである。

現世利益・・・最もそれが、強い。そして、それを必要とする人々は、辛く苦しい生活を強いられる、民衆である。

はっきり言うが、あれは、暗示効果による、力である。
暗示性が強い人には、よく利くのだろう。
これを持っていれば、大丈夫・・・

最後に、修験道を上げておく。
全く定義のつけられない、不思議な山伏の行為である。

平安期の中期から、現れて、中世、近世と、活発になっている。
山岳信仰とも、呼ばれるが・・・

山伏とは、呪術や祈祷で、病気を治し、悪事災難を逃れさせる力のある者である。
その呪術の大半は、陰陽道のマジックと同じである。その意味では、陰陽道の分派とも言える。
しかし、これが、また複雑で、密教の要素もあり、勿論、神道も混合する。

研究者は、修験道は、道教の日本版という人もいる。
また、密教のもつ仏教的要素と、陰陽道的要素が目立つが、その本質は、原始宗教の呪術、巫術であり、その信仰に他ならないとする説もある。

民族信仰を本質にするという説もあるが・・・

未だに、明確ではない。
また、彼らも、明確ではないはずである。

私も、山伏に出会ったことがあるが・・・
解らない。

滝に打たれて、修行するが、ヨガを教えているとか・・・
更に、その修行の場所の神社、寺院のお札を配布する。

神祇信仰とならんで、日本人の持つ現実肯定の論理の、具体化された一つの宗教であると言う、研究家もいる。

修験道にみる、陰陽道的呪術は、密教を通した、間接的摂取であろうとの、説もある。
兎に角、明確ではない。

そこで、言えることは、科学の無かった時代の産物であり、人の現世利益に寄与して、何がしか、特殊能力を得た者たちのことであろうと、思う。
その、特殊能力が、何処からのものであるのか。
まともなものではない。

何せ、当時も恐れられていた、山に入り、修行するというのである。
更に、肉体を痛める苦行を好む。
まともであるはずがない。

肉体を痛める苦行は、精神を固定化して、その性質を頑なにする。
柔軟な思考法が出来なくなる。

あるいは、迷信に浸りきる。
つまり、妄想全開なのである。

地域の行事として、年に一度くらい、そんな姿になり、山伏というなら解るが、本当の山伏には、近づかないことである。
思念は、強いはずであるから、その思いの力で、ある程度の、何事かは出来るが、まともではない。

まして、密教などから、影響を受けているもので、真っ当なものは、一つも無い。
あるのは、単なる強い思い込みである。
魔力という方が正しい。

posted by 天山 at 00:10| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月05日

霊学76

更に、退行と創造性ということについて考えてゆくと、フロイトの場合は、退行を病的なものと考えた裏には、それが母親との近親相姦的な結合であるという、イメージが存在していると、考えたのである。

ここで、心理学では、フロイトの説を取り上げると、どうしても、性的、そして、近親相姦的な問題に至る。
これは、フロイトの病である。

人間が、ヒトから人間になる過程で、近親相姦を乗り越えてきたのは間違いないが、それに捉われると、誤る。

フロイトは、ユダヤ人である。
ユダヤ人は、特に、それを恐れていた節がある。

だが、旧約聖書も、改竄されているため、中々、その根拠がつかめない。

モーゼ十戒の中に、母子、父子の関係を禁止しているものはない。
だが、それは、通常に行われていたのである。

白人は、近親相姦によって、成り立った人種であるから、それを特に、恐れるのだろう。それを、フロイトが代表して著した。

人類は、今に至るまで、近親相姦の危険に晒されている。
だから、フロイトの言い分も、ある程度は、納得する。

しかし、それは、少数派である。
多くは、マザー、ファザーコンプレックスとして、処理しているはずだ。

古代日本でも、母と子の関係を穢れとして、認識していた。
それが、意識下に残り・・・
そして、時に、意識の表面に出て・・・

今は、異常と判定されるが、性の有様は、百人百様であり、それを昇華して成り立つのが、人間性である。

さて、ユングは、創造的な退行を考える時、個人的な近親相姦としてではなく、普遍的な母なるものとの、合体としてみるのである。実に、健康的である。
勿論、そこに至るまでの、道のりはある。

ここで、問題なのは、それは、再生へと志向する、死の体験として、了解されるということである。
と、このように書かれると、はあーーーとなる。

とても、長い説明が必要になる。

フロイトが、個人的な親子関係を基にして、エディプス・コンプレックスを強調する。一方、ユングは、普遍的な母なるものの存在を主張するのであり、フロイトと袂をわかったのである。

そこで、今も、両者の言い分は、定義として、そこから、語られる心理学である。

本当は、ここで、仏教の唯識などを、持ってくると、非常に面白いのだが、それは、別のエッセイに譲る。

普遍的な母なるもの・・・
何と、耳障りが良い言葉だろう。
それに、騙される、心理学者たち。

普遍的な母なるものという、考え方を導入することで、退行の持つ創造性ということが、より生き生きと説明できるようになったという、経緯がある。

これで、ユングの、原型、元型の、概念が生まれた。それが、また、ユング心理学の核心である。

ここで、心理学の概念ではなく、哲学的概念であることを、加えておく。

何故なら、哲学的概念は、時代性と時代精神によって、刷新されなければならないからである。

勿論、ユングの元型は、実に素晴らしい人間性の、心理学を生み出してくれたことは、否定しない。

私がいいたいことは、言葉に騙されるな、である。

母なるもの・・・
それで、次の言葉を失う。

ユングは、分裂病の幻覚、妄想を研究するうちに、それらが、世界中の、神話、昔話などと、共通のパターン、主題があることに気づいた。

ユングは、これらの、典型的なイメージを最初、原始心像と、呼んだ。

その言葉は、ヤーゴプ・ブルクハルトという人の用語である。
そして、同じく、バッホーフェンという人にも、影響を受けた。
それは、ユングが高校、大学を過ごした、バーゼルの住人だった。

彼らは、宗教、神話の研究に専念していた。
中でも、母性に関する論文が多い。

そして、ユングも、イメージの世界への深い関心を持った。

彼らは、概念を明確にし、それを組み立てることより、その背後に存在するイメージの生命に、ひかれていた。
それは、実に、健康的である。

ユングは、原始心像という、用語を用いて、それらのイメージを捉え、研究をはじめたのである。
そして、イメージのもととなる型が、無意識に存在すると考えた。それを元型と呼んだ。

1919年の、本能と無意識、という論文において初めて紹介される。

原始心像は、元型的イメージであり、そのイメージを通じて、無意識に存在する、色々な元型を探るという試みが、ユングの心理学の重要な課題となったのである。

その恩恵を受けて、心理学は、飛躍的に発展してゆく。

勿論、初期の頃は、多くの誤解を生んだ。
それは、元型は、無意識内に存在するものとして、意識によって、把握できないもの。仮説的概念である。
この意識内における、働きを自我がイメージとして把握するものが、元型的イメージである。
つまり、原始心像である。

だが、元型と、元型イメージを混同していたのである。

それでは、ユングが混同していたものは何か、ということである。
次に続ける。

posted by 天山 at 06:06| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月06日

霊学77

何度も何度も私は、元型はその内容に関して決定されている、つまり、それは一種の無意識的な観念であるという誤解にあっている。元型はその内容に関して決定されるものではなく、その形態に関してのみであり、それも非常に限られた程度においてのみそうであることを、ここにふたたび指摘しておくことが必要である。
原始心像は、その内容に関して、それが意識化されるとき、従って意識的経験の素材によって満たされるときのみ決定される。しかしながら、その形態は・・・結晶の軸構造と比較しうるものであろう。それはそれ自身物質的な存在ではないが、母液のなかの結晶構造をつくりあげるかのようなものである。・・・元型はそれ自身空で形態的であり、潜在的可能性にすぎない。それは先験的に与えられている表象可能性なのである。
ユング 元型と普遍的無意識

元型は、先験的に与えられている表象可能性、なのであり、表象ではないのである。

簡単に説明すると、元型は、普遍的無意識にあり、それが、個人的無意識、そして、意識に、元型による、原始心像が現れるということだ。

元型は、生得的に存在していると、ユングが言う。
それで、後天的に獲得したイメージが、遺伝されるのは、不可能だという、批判を受けた。

しかし、上記に書いた通り、それは、元型と、元型的イメージと、区別することによって、解決された。

それを、後で、解説するが、グレートマザーだの、影、アニマ、アニムス、などという、重要なポイントが出てくるのである。

その元型を見ていると、すでに、タロットカードなどでは、お馴染みなのである。
占いの、イメージとしては、ユングより、先に使用されていた事実がある。

ユダヤ教の、タルムードなどにも、それは、見出せる。

ユングは、それに学問的意義と意味を見出したのである。

ユングが後に、星占いや、東洋の易などに、興味を持ったのは、正解である。それらは、すでに、元型など、とうの昔にやっていたのである。

今も、ユング研究所では、星占いや、易を学ぶという。当然である。

以下の説明も、すでに、占いの世界では、当たり前のことだった。

元型的なイメージは個人のコンプレックスによっても、色付けされる。普遍的無意識から、個人的無意識の層を経て、自我に達するのであるから、当然である。

更に、コンプレックスは、元型的な心的内容の自我に対する、直接的な侵入を防いでいるということも。コンプレックスの弱い人は、元型的なものの侵入を受ける可能性が、高いともいえる。

元型は、人類共通のものと、仮定されるが、それが、元型的イメージとして把握される場合は、個人の意識のあり方、そして、個人の地域性、時代性、それぞれの文化的影響を受ける。
それで、文化的無意識という、概念を立てる人もいる。

こうなったら、言った者勝ちである。

心理学と同じように、何々的無意識・・・

ホント、いい加減にして欲しい。

あくまでも、元型という、普遍的無意識とは、仮定、仮説である。

それを見た人は、いないし、いれば、狂う。
狂わない程度で、小難しいことを言うのが、学者たち。

ある時代、ある文化において、ある特定の元型がとくに強烈な力をもつ場合も考えられる。ある元型的イメージがひとつの文化や社会を先導する象徴となり、その集団の成員のエネルギーを結集せしめるときもある。
河合

当然である。

一々例を上げることもない。

私は、様々な占いの教養を持ち、ユングを読むので、時々、実用的な占いに、感心することがある。
勿論、占いとしての、認識は、非常にレベルの低いものと見られるが、それは、見方の問題である。

ユングが、それを無碍にしていたら、共時性の法則なども、打ち立てられなかったはずである。

更に、多くヒントを得ている。
要するに、その人の意識次第で、占いの知識も、充分に生かせるという、証拠である。

さて、普遍的無意識と呼ばれる領域が存在するということを、前提にして・・・

母なるもの、といわれる、耳障りの良い言葉、グレートマザーの存在が第一に上げられる。

われわれ人間は、その無意識の深層に、自分自身の母親の像を超えた、絶対的な優しさと安全感を与えてくれる、母なるもののイメージをもっている。それらは外界に投影され、各民族がもっている神話の女神や、崇拝の対象となったいろいろな像として、われわれに受け継がれている。ユングはそれらが人類に共通のパターンをもつことに注目し、母なるものの元型が人間の無意識の深層に存在すると考えた。
河合

その、母なるものの特性は、包含するという、働きである。そして、一体となるという、イメージである。
分離、分割ということがない。

心理療法にとっては、とても重要視される、母性的存在である。
と、このように観念を作り上げて、それを単に学んで、心理療法などされたら、たまったものではない。

たまったものではないから、このグレートマザーに関して、もう少し、説明しなければならない。
そして、夢である。

フロイトの夢判断、分析から、はじまったもので、ユング派も、最も夢の分析を重要視するのである。
これから、それを、説明しつつ、批判してゆくことにする。

posted by 天山 at 00:02| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月07日

霊学78

1957年、アメリカの、デメントとクレイトマンという学者が、夢に関する、研究を発表した。

睡眠中に、眼球がくりくりと動き、脳波は覚醒時と同様に動き、筋肉は緊張がなくなるという時期があることを見出した。筋肉の緊張がなく、よく眠りに入っているのに、脳波が覚醒状態を示している。
その眠りを、逆説覚醒と名付け、あるいは、眼球が動くので、REN期とも言う。レム睡眠である。

そこで、睡眠中の人に、レム睡眠がおとずれたとき、すぐに起こして、夢をみていたかどうかを尋ねると、夢を見ていたと報告する人が圧倒的に多いことが、解ったのである。

80パーセントの人が夢を報告したという。

この、レム睡眠の時期は、一般的に、一晩に五度くらいあるので、睡眠時に、五回くらいの夢を見ていると、言われているのである。

最近は、レム睡眠以外でも、起こすと、夢を報告する人が、ある程度いるので、確定的ではないが、人間は夢を見ることが確かだということが解った。

デメントは、断夢、という、実験を行い、レム睡眠が起こりかけると、その人を覚醒させ、夢を見させないようにした。
五日間続けて、あとは、自由に眠らせると、レム睡眠が増加することがわかった。

つまり、それで、人間が夢を必要としていることが、解ったのである。

それでは、その夢について・・・

夢は自分自身によって演出され、演じられたドラマであると、考えることができる。更に、夢は、劇と同じような構成を持ち、四段階に分けられる。

場面の提示
発展
クライマックス
結末
である。

ただし、それは覚醒したときに、記憶しているもので、その一部しか覚えていないということも多い。

夢の構成力が強い場合は、一度、覚醒しても、再び、夢の続きをみるということもある。

人が眠っている間、無意識が活性化され、その動きを睡眠中の意識が把握し、それを記憶したものが、夢である。
夢は、意識と無意識の、相互作用のうちに生じてきたものを、自我がイメージとして、把握したものであるといえる。

古代では、夢は、もう一つの現実として、捉えられていた。
古代人が、いかに、夢を重要視したかは、様々な記録で、見る事ができる。

また、夢占いの話も多い。
ただし、合理主義が登場してから、その夢に対して、注意を払わなくなった感がある。

夢を再び正面から取り上げようとした、フロイトの夢判断により、再度、夢というものに、注目が集まった。

更に、ユングが取り上げて、夢分析による、人間回復が行われるようになる。

治療の分野でも、夢は、実に有効な手段となるのである。

先の、ユングの元型の概念も、夢分析から、生じてきたものである。

最近では科学的な、いやまさに自然科学的な夢研究が存在している。しかしその研究者たちは、嫉妬深く科学性を気にかけて、夢の意味についての問いに直面することを避けている。我々は彼らから、夢に関連している神経生理学的条件、関与している脳構造や類似の生物学的要因について多くのことを聞いている。
夢の意味 C、A、マイヤー

我々はまた、覚えているか否かにかかわらず、あらゆる人が規則的にリズミカルな間隔で一晩に四、五回夢を見ることを学んだ。また夢の実験的な剥奪はよからぬ効果をもち、補充のための夢需要を引き起こすことを知った。この最後の十分に確証された事実は、夢が少なくとも生物学的に必要であることを明らかに物語っている。
マイヤー

マイヤーは、ユングの高弟子である。

科学的な心理学は、意識の現象のみに関われるが、それに対して、夢は、生粋に無意識的な心の産物であるとする。

そして、自発的な自然産物として、理解されるべきであるとする。

無意識の、妨げがない、活動が夢である。

故に、夢から、無意識の世界を覗く、あるいは、無意識の世界の手がかりを捜すことができるというものである。

夢を全く見ないという人は、単に、夢を忘れているだけで、夢を見ない人は、いないのである。
更には、覚えている夢と、忘れる夢の差もある。

眠りから覚めて、夢を忘れるというのは、健康な証拠であると、わたしは、考えている。それは、睡眠中の、夢により、無意識を意識化させることなく、つまり、余計な感情に左右されることなく、生活出来るからである。

朝の光で、夢を忘れる。
全く、健康である。

それが、夢の感覚を引き摺りつつ、生活するというのは、何とも、嫌なものである。
だが、そういう人がいる。
意味の解らぬ、不愉快、不安・・・

夢の続きを、生活の中に存在させてしまう。

だが、夢についてを、少し語らなければならない。
夢が無意識の世界の、入り口だから。

ただし、あくまでも、仮説として、私は考える。
確かに、夢を手掛かりにして、心の問題を解決するという、夢分析の効果と、実績を、否定するものではない。
出来れば、そんなことをせずに、心の問題解決をしたいものであるが。


posted by 天山 at 05:51| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月08日

霊学79

科学的な心理学はもっぱら意識の現象のみにかかわっているが、それに対し夢は生粋に無意識的な心の産物である。それはそもそも自発的な自然産物として理解されなければならない。それ故に夢は、意識的産物に妥当するのと異なる法則に従うであろう。法則、即ち不変の関係は、夢においても―――我々が自然産物とみなすならーーー見出すことができよう。
マイヤー

夢が、無意識の産物であることを、確定しているのである。

それが、人どころか、あらゆる高等な脊柱動物においても、睡眠中に、リズミカルで規則的な夢活動が生じているのである。

そして、
夢の心理学は、物理学が観察者と観察される者との間の分裂の問題、即ち有名な主観/客観――関係の問題に遭遇したのと全く似た状況にある。
マイヤー
なのである。

無意識的な過程の心理学とは、出来る限り、客観の方へ移そうとする試みとなる。

主観と、客観の問題が、夢心理学のテーマである。
また、その研究においても、である。

フロイトも、夢を、抑圧、そして、検閲者という意識で解釈するため、その傾向を継いだ人たちが、逆効果を成してしまうという、誤りである。

精密になってゆく、神経生理学的研究により、夢現象を乱し、更には、破壊する。調べるべき現象を益々と、少ししか明らかに出来ないように、より細分化してゆく過程で、夢現象をすり替えた。

主観/客観という関係において、その間の境界を豪胆に客観の方へ押しやることで、物理学においてはついに心へ、心理学においては物理学に突き当たるであろうとことが推論できる。
マイヤー

それは、
心的なものは常に心的な手段によってのみ観察されうる、という昔から知られた事実を、少し複雑な仕方で言い表しているだけのことである。
マイヤー
と、なる。

その後の、夢研究の方法などは、専門家に譲る。

ただし、後に、再度、マイヤー氏の論述に触れることにする。

さて、フロイトは、無意識を意識に対する、否定的側面を強調したが、ユングは、無意識は、意識の母胎であり、自律的なものであると、解釈した。

ユングは、無意識は、それ自体一つの宇宙に比すべき、全体性が備わっていると、解釈する。否定的部分だけではなく、肯定的な部分もあり、全体として、統一され運動しているということだ。

ユングの方が、夢を積極的に利用する価値がある。

全体と考えた場合、生き方や、生きる社会の歪みを示唆し、それをプラスにも、マイナスにも生かし、何らかの、変容をもたらすものという意識である。

ユングは、それまで否定的側面が強調された、退行という概念も、退行は、退行のみを意味せず、むしろ根元的な生命に戻り、新たな生命力を精神活動の中に再統合する試みがあり、再生や、生まれ変りとしての意味を持つと、解釈した。

ユングの方が、フロイトより、随分と明るいものである。
だが、それには、才能が必要である。

夢分析という行為も、才能の成せる業である。

ユング研究所で、学ぶ人たちは、必ずその中から、師匠のような人に師事し、夢分析を受けたりする。
何となく、一子相伝とか、宗教の奥義を受け継ぐような行為をしている。

まあ、それが、ユング派と言われたり・・・
つまり、派閥、宗派の違いのようなものになる。

人間の本能・・・集うという、行為である。

学閥などという、言い方もする。

さて、それでは、ユングは自我というものを、どのように捉えたかである。

自我はもろもろの表象の複合体、コンプレックスと呼ぶ、が、意識野の中心を形成していて、高度の連続性と高度の自己同一性を備えている、とする。

認知し、記憶し、判断するのが、自我である。
更に、意志決定し、行動するのも、自我である。

それが、私ではないということになると、精神の病と、判断される。

自我に、ある程度の、まとまりがあるから、一貫した、認知、思考、行動を取るのである。

更に、意識を構成する要素について、心理学的類型論を作った。

世界に対する、基本的な態度によって、内向、外向と分けた。
この基本的態度に、意識の一定の機能として、思考、感情、感覚、直観の、四つが想定された。

この四つの機能は、合理性の対である、思考と感情、そして、非合理性の対、感覚と直観に、分けられる。

思考機能は、あるものが何であるかを知り、それに名をつけて、他の物事に結びつける。
感情機能は、あるものの価値を考慮すること、ある何かについての観点を持つこと。

感覚機能とは、五感で経験できる、あらゆる事実を表し、何かが存在するということを教えるが、それが何であるかを教えない。
直観機能とは、何かが生じているのは、どこか、どのような可能性が存在するかということを意識的な証明や知識によらず、感じ取るということ。

人は、この四つの機能のうち、一つを優越機能として持ち、更に、もう一方の機能を、補助機能として、用いているという。

この二つの態度と、優越機能および、捕縄機能の組み合わせにより、16の基本的類型を考える事ができるのである。

更に、ユングは、劣等機能にも、注目した。
それは、未分化という意味において、である。
自分の劣等機能を自覚し、自我に統合してゆくことを、個性の基本要素とした。

こう言われると、何となく、解った気になるものであるから、不思議だ。


posted by 天山 at 05:35| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月09日

霊学80

自我には、主体性と統合性がある。
そして、その自我と関わる重要なものが、コンプレックス、つまり、表象の複合体である。

自我が、コンプレックスに対して行うことが、重要であるということだ。

自我は、コンプレックスとの関わりにおいて、耐えず、変化し、成長している。
だが、自我が、他のコンプレックスの存在を認めようとしない場合、自我は、様々な防衛機制を用いることによって、安泰を図ろうとするが、それが、極端で柔軟性がなくなると、神経症という状態に陥ることもある。

また、自我が、他のコンプレックスを認めない度合いが、甚だしくなると、交代人格と呼ばれる状態になることがある。

例えば、賢いバカなどは、賢いと思うので、自分のコンプレックスを認めない、認めたくないという、防衛機制を働かせる。
すると、相手を攻撃することで、それを保とうとする。
また、徹底的な批判をする。

教師や、学者などにも多いが、人から、指摘を受けることが、癇に障るのである。

自分は、いつも、人の上にあると、思い込む人なども、である。

何かに、イライラして、原因が解らない時は、暗に、劣等感を抱かせるようなものに、触れる時である。

つまり、劣等感コンプレックスに、脅かされるのである。

さて、ユングは、自我よりも、もっと大きなものとして、自己というものを、仮定した。

それは、日常的なものや、精神分析における意味とは、違う。
個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと高める過程を、ユングは、個性化の過程、自己実現の過程と呼んだ。

それを、人生の究極の目的として、考えたのである。

このような過程を生じさせる、意識を超えた働きの中心として、自己という、仮定をおいた。

であるから、何かの症状が出た時に、否定されるべきものではなく、そこに、目的論的な意味があると、考えたのである。

そして、一生を自己実現の過程として捉え、すべてのことが、過程、プロセスであるという、考えに至る。

それは、臨床的に非常に救いになった。

つまり、その人の事柄にとって、何一つ、無駄なものはない、ということである。
そこに、積極的に人生に関わるという、意欲が見出される。

さて、自我の確立がなければ、どんな自己の体験も不可能である。
自我は、自己を必要する。そして、自己も自我を必要とする。
この二つのバランスが崩れる時、病的な状態に陥るのである。

それは、自己が自我を圧倒する場合である。
これは、分裂的になる。あるいは、精神分裂病である。
無意識の特性である、時間と空間の相対性や、部分と、全体が等しくなったりする。

そして、もう一つは、自我が膨張して、自己と同一視することである。
自分の力に、幻想的な万能力を抱き、妄想を繰り返す。
人生を転々として、人との、深い関わりを避けてしまうような状態を作るのである。

永遠の少年といわれる、現実感覚欠如の人間になる。

無意識の世界に、選別をつけた、フロイト、ユングなどのお蔭で、ある程度の、考える道がついた。
そして、この無意識は、霊学に関しても、大きな影響と、道筋を与えてくれる。

これが、超心理学、心霊主義に続く道でもある。
そして、神智学、神秘学。

霊能的能力というものも、この辺りで、裁くことが出来るものも多数ある。

霊能力で、人の無意識の世界を見るという者もいるが、その怖さを知らないゆえに言う。

自分の無意識でさえも、計り知れない世界であり、下手をすれば、溺れる。つまり、死ぬ。

無意識は、大海のような世界、あるいは、宇宙のような存在である。
簡単に、人の無意識の世界など、見ることなど、出来るはずもない。

また、それを見たとしても、収拾がつかなくなる恐れあり、同じように、狂うか、死ぬ。

ユング自身も、狂う寸前まで行っている。

辛うじて、集合意識、民族の集合意識程度の概念を作り、狂いを免れた。

ただし、仏教では、唯識が、すでに潜在意識を発見している。
更に、そこには、アラヤシキ、マナヤシキと言う、意識のレベルまで、取り入れている。

単なる、潜在意識というものも、層があるというのだ。
潜在意識も、無意識の世界にある。
その、無意識にも、幾層もある。

潜在意識を生かす方法などと、言われるが、その程度で十分であり、それ以上になると危険である。その、危険を知らない人が、危険を冒す。

無意識の霊域に入ると、出られなくなる恐れ多々あり。
自然万物の意識とつながる。
そうすると、生身の人間は、狂うしかなくなる。

瞑想などで、ある程度の域に達して、満足しているのが、幸せである。
宇宙大の意識とか・・・
神の意識とか・・・
それらは、妄想である。

もしそうならば、生まれてない。
生まれてきたということは、そうではないから、生まれたのである。
生まれた意味を、じっくりと、詮索すると、それが解る。
大半のことが、推測に過ぎない事が解る。

posted by 天山 at 05:22| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月10日

天皇陛下について126

第五十八代光孝天皇、884年より887年。
文徳天皇の御弟である。

ご在位四年で、重い病にかかられた。
その時、まだ、皇太子が決まっていない。

天皇は、心中、定省、さだみ親王と、考えていた。しかし、親王のご生母は、桓武天皇の、御孫に当る。つまり、藤原氏の娘ではない。

摂政の、藤原基経は、早く皇太子をと思う。天皇に、お言葉を求めるが、天皇は、ご遠慮される。
そして、基経の考えに任せると、仰せられた。

基経も、天皇の御心を察して、定省親王を、お立て申すことに、と、申し上げる。

親王は、大変、聡明であらせられた。

21歳で、ご即位される。
そして、基経を信頼し、天下の政治は大小となく、すべてこれを太政大臣に関白、あずかりもうして、しかるのちに奏下せよ、と、詔を示したのである。

この時に、あずかりもうして、という、関白という名称が登場する。
その後は、藤原氏が、天皇幼少の間は、摂政、ご成人された後は、関白として、朝廷の政治を思いのままにするのである。

習慣になってしまったのである。

摂政も、関白も、職は同じである。
天皇のお年によって、職名が変わるだけである。
これを合わせて、摂関ともいう。

この職に就くのは、太政大臣の上にあり、一般は、これを貴び、殿下と呼んだ。

豊臣秀吉の、関白殿下が、有名である。

基経にとって、それは、大手を振って、朝廷の政治を左右することが出来るというもの。藤原氏の勢力が更に強まった。

それを見て、天皇は、これは良くないと、思われた。
しかし、しばらくは、見守るしか、方法がないのである。

ご在位、四年目に、基経が亡くなった。
そのため、その後は、関白も、太政大臣もおかず、天皇自ら、政治を執られた。

天皇は、在位二年の年に、
わが国は神国である。よって毎朝、四方、大中小天神地祇を敬拝す。敬拝のこと、ただ今よりはじめて一日も怠るなし
と、日記に、記してある。

今日の、皇居で行われる、四方拝のはじめは、この天皇の、寛平二年、890年からである。

更に、自ら、服御常膳を、節約になり、役人もまた、その料の四分の一を減ずる措置を執られた。

そして、七年後、寛平八年、896年、服御を減じ、年料を省くの詔をお出しになる。

去る仁和五年、私の服御や常の膳はなるべく節約するように命じた。役人にも、四分の一の料を減らさせた。私は微力である。民の苦を除きえぬことを思うと、まことに不安である。そのため、どんな小さなことでも、民の幸福をはかることなら、実行したい。そう思い身近なところから節約をした。
そのためか、衣食たって、民も礼節を知るようになった。いくらかは、世の中が明るくなってきたかと思われる。が、近年、思いがけぬ洪水、ひでり、兵禍、疾病などの、災いがおこり、穀物も不出来である。
しかし、天を怨み、人を咎めてもならぬ。また鬼神を疑い、神を責めるべきでもない。これらは、私の不徳がなせるわざであり、私一人がその責に任ずべきものである。
私は、今日ただ今の民の、貧苦をみるに忍びない。そこで、更に、服御の三分の一を減らし、また、あらたに、一年の諸雑費半分を節約する。
富国のことは私の、このからだである。この心を、お前たち民に合体させ、ともに励む以外にない。

さて、寛平二年には、讃岐守の任期が過ぎて、菅原道真が、都に戻った年である。
基経は、その翌年、死ぬ。

そこで、天皇は、かねてから、藤原氏の、勢力を抑えたいと考えていたので、道真を蔵人頭に、任じた。

朝廷の重大な文書を、司る役目である。
更に、政治の相談相手とされた。

道真に対する、天皇のご信任は、益々と厚くなり、藤原時平が、中納言になると、道真は、参議になり、時平が、大納言になると、道真は、権大納言になる。
時平より、一段低い地位であるが、その位が上がってゆくのである。

時平、27歳、道真、53歳の年、天皇は、み位を、皇太子にお譲りになる。

第六十代、醍醐天皇である。
だが、まだ幼く、お心得となるべきお言葉を贈られた。
後世、寛平のご遺憾として、有名になった。

賞罰をはっきりさせること。愛憎に迷うことがないように。何事も、平均が大切である。好悪によって、それをなしてはならない。また、喜怒を慎み、それを表面に現さぬように。

そして、藤原時平と、菅原道真に関することである。

時平は功臣良房を祖父、基経を父とする。年は若いが、政治には熟練している。先年、婦人のことで、失策があったが、私は、これを心に留めていない。むしろ昨年の春から、公事に励むようにと励ました。すでに第一の臣としてよい。相談相手として大丈夫であろう。

道真は、大儒である。深く政治を知る。私は選んで、彼を文章博士とし、しばしば、色々と諫言もしてくれたので、これを入れた。特に抜擢して、その功に応えた。更に、先年、皇太子を立てた折、彼だけが、相談相手だった。
その後、二年もたたないが、譲位しようと思ったが、彼は、そのような大事は、天の時というものがありますという。早まってはなりませんとも、直言した。確かに、正論であった。今年七月、諸臣は、やはりお延ばしした方がよろしいかと言ったが、今度は、彼が、このたび、もしお辞めになれば、変事が起こるのではありますまいかと言った。ということで、道真は、新帝の功臣といってもよい。それを、よく考えて欲しい。
なお、天子というものは、経史百家をひろく極めることがなくても、よろしい。ただ、郡書治要を、早く読み習うことである。くれぐれも、雑書に耽り、歳月を無駄にしてはならない。

郡書治要とは、佐伝、礼記などの、50巻のことである。


posted by 天山 at 05:36| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。