2012年08月30日

国を愛して何が悪い30

オランダの、画家ゴッホは、今では知らぬ人がいないし、その作品は、特別な価値がある。だが、彼は生前、一枚の絵も売れなかった。

その彼を支えていたのが、彼の弟のテオである。
兄に仕送りを続けていたのである。

その、親愛の弟に書き送った、ゴッホの手紙・・・
そこには、所々に美しいスケッチが描かれていた。

ゴッホの死後、テオの奥さんが、その手紙を整理し、編集して出版した。
この、ゴッホの手紙が世に出て、そのスケッチが注目を集める。

ゴッホは絵描きになるはずではなく、最初は貧しい炭坑町に出向いて、キリスト教の伝道を行っていた。
文字通り、自分の身についた、あらゆるものを、愛のしるしとして与えて、聖書の言葉通りに、神の愛を、この世のものとすべく、実践した。

最後は、ボロを身にまとい、乞食同然の姿になった。
それが、伝道協会により、相応しくないとの理由で、非難され、遂に牧師を止めさせられたのである。

宗教という形で、神の道を実践できなくなったゴッホは、今度は、絵筆をとり、絵画という芸術の世界において、神の愛を描きあげようとする。

そして、ゴッホの修行がはじまり、その修行上の鏡となったのが、日本画であったという、事実に驚くのである。

そして、彼は日本画を生み出し、日本人の生活に多いに影響されるのである。

ゴッホの手紙から
日本の芸術を研究してみると、あきらかに賢者であり、哲学者であり、知者でもある人物に出会う。このような人物は、どういう歳月をすごしておるのだろう。地球と月との距離を研究しているのか。いや、そうではない。ビスマルクの政策を研究しているのか。いや、そうでもない。彼はただ一茎の草の芽を研究しているのだ。
ところが、この草の芽が、彼にはあらゆる植物を、つぎには季節を、田園の広々とした風景を、さらには植物を、人間の顔を描けるようにさせるのだ。こうして、彼はその生涯を送るのだが、すべてを描きつくすには人生は余りにも短い。
いいかね。彼がみずからが花のように、自然の中に生きていくこんなに素朴な日本人がわれわれに教えるものこそ、真の宗教ではないだろうか。

以上を見ると、宗教という言葉でしか、表せないゴッホの気持ちが解る。

あらゆる情緒的な人間の活動を、宗教という言葉で、表すことと、ここでは、確認しておきたい。

更に、ゴッホは
呼吸のように単純で、まるで服のボタンでもかけるように、簡単に楽々と教本の線で描きあげる。

因襲的な世界で教育をうけて仕事をしている我々には、もっと日本の芸術を研究して、自然に帰らなければいけない。日本の芸術を研究すれば、誰でも、もっと陽気に、もっと幸福にならずにはいられないはずだ。

フランスで、北斎の作品を頂点とする日本画を、鏡とし、基礎として、その手法と精神を生かそうとする、印象派の芸術家たちのことを、ゴッホは、フランスの日本人と、呼んでいたのである。

日本人は、ただ、自然のあるがままにというだけではない。
文化的に洗練した手心を加えて、あたかも、自然そのもののように、自然に則して、自然らしくあることを、究極の目的とするのである。

それは、非常に深い自然に対する、愛情であると、いえる。

日本の文化とは、それなのである。
それは、日本人の心性である。

熟達した生活感情に根をおき、そこから生まれた文化の一つの型を作り上げていった。
それを、伝統と呼ぶ。

そして、伝統は、日本の場合は、いつも新しいのである。
伝統から、伝統へ・・・

牧師だったゴッホが、自分から、花のように、自然の中に生きている日本人の生活が、真の宗教だと、言い切るのである。

これは、旧約聖書などの思想からの、大逆転である。
牧師だったゴッホが、西洋の言う宗教という感覚を、超越したのである。
それが、日本画による理解から、日本人の生活態度を、読み取ったのである。

宗教という、訳語は、明治期にある。
その前は、ペリーの黒船の際に、宗旨と訳していた。

宗旨とは、つまり、仏教のそれぞれの、宗派という意味である。

キリスト教によって、行われた、宗教学という、言葉では、日本の場合は、収まらないものがある。

だから、私は、心性というのである。

民族の、あらゆる精神活動をもって、心性という。

あちらは、宗教という概念で、すべてが収まるが、日本の場合は、収まりがつかない。
一神教と、多神教・・・
そんな違いではない。

生き方の違いであり、精神活動の違いであり、心のあり方の違いである。

更には、論理的に語れば語るほど、あちらの人は、理解できなくなるのである。

その良い例がある。
ドイツ人に、神道のことを尋ねられて、少し説明すると、更に、更にと、問い掛けてくる。すべてを、言葉で理解するという、態度は、理解するが、その場に、来て、体得しなければ解らないことが多々あるのである。

何もない所に結界を設けて、神呼びをして、祈り、そして、皆で会食し、終わると、神送りをして、一切の跡形を無くする。
巨大な神殿を造り上げて、そこに神の存在を感じて祈り、歌うという、キリスト教の儀式とは、全く異質なものである。

宗教学に惑わされてはならない。
更に、日本には、厳密に宗教と呼んでいいものかどうかという、疑問を私は、持つ。
言えば、伝統である。

日本は、天皇を戴く伝統の国である。
私が、海外に出て、一貫して、日本を説明するのに、用いている言葉である。




posted by 天山 at 05:22| 国を愛して何が悪い | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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