人は、神の次の存在ある。
そこから、更に発展して、他民族を征服し、奴隷化すれば、奴隷は家畜と同列になり、家畜並みに扱っても、何ら罪悪感も、憐れみも、感じることはない。
人間を奴隷にするという意識は、古代日本人にはなかった。
日本の場合は、奴婢である。
彼らは、奴隷のようであるが、人として扱われた。
動物と同じではない。
有史以来、世界の砂漠化は、人間の営みによって、急速に進んだ。
それは、遊牧、肉食民族の、一神教と軌を一にする。
現在の、地球環境の悪化、砂漠化の責任の一端は、その思想にあるといえる。
キリスト教の、南米アメリカ大陸への拡散により、森林の牧畜化によって、森の破壊が一挙に拡大した。
北米は、キリスト教徒の入植以来、わずか300年の間に、森の八割が消滅したのである。
更に、新約聖書にて、イエスが説いた愛の思想は、人間のみの愛と、自己犠牲と解釈した。自然に対する愛は、無い。
そして、動物に対しても・・・
そして、恐ろしいことは、イエスの説く、平和と愛の対象が、白人自身の身内であり、自然の動植物、家畜や、奴隷などは、入っていない。
白人以外の、異民族、他宗教の信仰を持つ人たちも入らない。
ここに、非排他的独善性の思想がある。
キリスト教以外の人間は、野蛮人として排除、抹殺しても、いいのである。
モーゼの十戒を見ると、殺すな、盗むな、騙すな、姦淫するな・・・
野蛮人が守るべき教えである。
つまり、そういうことを、行っていたということである。
それに比べて、日本の最初の、憲法は、和を以って貴しとなす、である。
今から、1400年前も日本人は、高度な礼節を守る国家を形成していたのである。
十戒は、命令であり、十七条憲法は、諭すものである。
ユダヤ教から、砂漠のカナンの地から、地中海を通り、キリスト教を生み出し、ローマの国教となり、北方のヨーロッパ全域に、急速に広まった。
妬み、復讐、対立、抗争の思想である。
それは、権力者、政治支配、侵略行為には、都合がいいものだ。
宗教が政治と結び、互いに相助けて、白人キリスト教が布教されるという、形である。
インドの、仏教の教え・・・
東洋の思想・・・
全く意を異にする。
そして、日本の思想も、自然との共感と、共生であり、慈しみの心に溢れる。
自然に対する、二つの考え方。
一つは、自然を征服して、自然からかけ離れた、反自然のものに、作り上げるという、あり方である。
そして、もう一つは、自然を耕しながら、自然を離れず、自然らしく見せ、自然に即する、洗練を求めるあり方である。
最初のものは、ユダヤ教から出た、キリスト教、イスラム教の一神教である。
そして、次が、豊葦原の瑞穂国、と呼んだ、日本人の固有の自然観である。
仏教、東洋思想にあるもの。
日本人は、自然のいのち、人間のいのち、を連続してみることになる。
いのち、というものの中に、連続性を見るとは、自然のいのちを、鏡として、目標とし、それと一つになろうとする営みを生活の根本におく。
そこから、生まれた、宗教的態度・・・
この宗教という言葉自体が、キリスト教から生まれたものであり、信仰と呼んでもいいが、心性と、呼ぶ方が好ましい。
信仰とは、心性によるものである。
それぞれの、信仰と呼ぶことより、心性と呼ぶことが解りやすい。
日本人の心性は、その固有の性質において、日本の気候、風土に即した、自然的な生活、そして、日本語という特殊な言語構成を持つ、精神生活と深く結びつく。
それは、つまり、伝統的な生活の仕方と、切り離して考えられないものである。
もっと、深く追求すると、自然に色々と文化の手を入れて、自然と明確に対立する形で、文化を打ち立てた西洋。
それに対して、自然に手を加え、文化の手を入れるが、粗野な自然を脱して、自然らしい、洗練を装うことを主とする、日本の伝統である。
自然に即するもの・・・
全く別物である。
だから、日本人は、西洋文化を真似ても、しっくりとこない。また、和洋折衷という姿を作り出せるのも、その心性が底辺にあるからである。
そして、和洋折衷も、日本のものになったのである。
一時期、猿真似といわれた日本人だが、真似ることから、日本人に相応しい形を、作り出すことが出来る、許容範囲を持つのである。
極めて、寛容である。
そこに、排他性があれば、出来ないことである。
調和と、美意識は、自然を鏡として、手本として、自然を写し、手入れをしてきた、民族のあり方である。
それは、宗教的であり、信仰的である。
心性と、呼ぶ。