2012年08月24日

もののあわれについて578

筆さしぬらして書きすさみ給ふ程に、いざり出でて、さすがに自らのもてなしは、かしこまりおきて、めやすき用意なるを、なほ人よりは異なり、と思す。白きに、けざやかなる髪のかかりの、すこしさはらかなる程に薄らぎにけるも、いとどなまめかしさ添ひて、なつかしければ、新しき年の御さわがれもや、とつつましけれど、こなたにとまり給ひぬ。なほおぼえ異なりかし、と方々に心おきて思す。南のおとどには、ましてめざましがる人々あり。




筆をしめして、戯れ書きをされているところに、明石がにじり出て、それでも態度は、慎み深く、程よい心がけである。源氏は、矢張り他の人と違う、と思う、白い装束に、くっきりとかかる髪の具合が、はらりとするほど、少なくなっているのも、一層、優美があり、惹き付けられる。新年そうそう、騒がれることか、と、遠慮されるが、明石の所に、お泊りになった。矢張り、明石への愛情は、違うのだと、源氏は、方々の婦人を気にしている。紫の上の御殿では、一層、酷いことと思う女房達がいた。

御さわがれもや
紫の上の嫉妬を考えたのである。




まだ曙の程に渡り給ひぬ。かくしもあるまじき夜深さぞかし、と思ふに、なごりもただならずあはれに思ふ。待ちとり給へる、はた、なまけやしと思すべかめる心の中、はかられ給ひて、源氏「あやしき仮寝をして、若々しかりけるいぎたなさを、さしもおどろかし給はで」と、御気色とり給ふもをかしく見ゆ。ことなる御答もなければ、わづらはしくて、空寝をしつつ、日高く大殿籠りおきたり。




まだ、薄明るい頃に、お戻りになった。明石は、こんなに暗いうちでなくとも、と思うと、送り出した後、無性に寂しい気がする。待ちうけたほうでも、これまた、面白くない様子、と思うはずの気持ちが察せられて、源氏は、とんだうたた寝をして、子供のように、眠りこけたのを、起こしても下さらず、と、紫の上に、ご機嫌を取るのも、面白いことだ。特に、返事もないので、面倒なことになったと、たぬき寝入りをして、日が高くなってから、起きられた。

なごりもただならず あはれに 思ふ
名残も、そくそくとして、何か物足りない気持ちが、あはれ、なのである。




今日は臨時客の事に紛らはしてぞ、おもがくし給ふ。上達部親王達など、例の、残るなく参り給へり。御遊びありて、引出物、禄など二なし。そこらつどひ給へるが、われも劣らじともてなし給へる中にも、すこしなずらひなるだに見え給はぬものかな。とり放ちては、有職多くものし給ふ頃なれど、御前にてはけおされ給ふ、わろしかし。何の数ならぬ下部どもなどだに、この院に参るには、心づかひことなりけり。まして若やかなる上達部などは、思ふ心などものし給ひて、すずろに心懸想し給ひつつ、常の年よりも異なり。花の香さそふ夕風、のどかにうち吹きたるに、御前の梅やうやうひもときて、あれはたれ時なるに、物のしらべども面白く、「この殿」うち出でたる手拍子、いとはなやかなり。大臣も時々声うち添へ給へる福草の末つ方、いとなつかしうめでたく聞ゆ。何事も、さしいらへし給ふ御光にはやされて、色をも音をもますけぢめ、ことになむ分れける。




今日は、臨時の客にかこつけて、顔をお見せにならない。上達部や、親王達などが、いつものように、残らず、おいでになった。管弦の御遊びがあり、お客への引出物や、禄など、よそにないほどである。数多く集まる方々が、人に負けぬようにと、振舞っている様子で、すこし肩を並べられそうな人にさえ、そのように見えない。一人一人、別に見れば、才学ある方が、沢山いる当時だが、殿様の御前では、圧倒されてしまうのは、困ったことです。人並みでもない下人どもでさえ、この六条の院に伺う時には、気の配りようが、格別である。まして、若々しい上達部などは、心に思うところあり、何となく、緊張して、いつもの年とは、違っている。
花の香りを引き出すような、夕風が、のどやかに吹いて、庭の前の梅の花も、次第にほころび始め、夕暮れ時、管弦の合奏が面白く、この殿、と謡い出した拍子は、とても派手な感じだ。大臣も、時折、声を添えて、福草の終わりの部分は、大変優しく、立派に聞える。何もかも、少し、相槌を打たれると、そのお蔭で、色も音も、勝るけじめが、はっきりと見えるのである。

顔を見せないのは、紫の上に、源氏が、である。
昨夜のこともあり・・・

思ふ心などものし給ふ
上達部は、玉葛に、思いを寄せているのである。

すずろに心懸想し給ひつつ
何となく、緊張しているのである。

この殿、とは、催馬楽の歌詞である。

平安宮廷の雅の様である。




かくののしる馬車の音をも、物隔てて聞き給ふ御方方は、蓮の中の世界にまだ開けざらむ心地もかくや、と心やましげなり。まして東の院に、離れ給へる御方々は、年月に添へて、つれづれの数のみまされど、世のうきめ見えぬ山路に思ひなずらへて、つれなき人の御心をば、何とかは見奉りとがめむ、その外の心もとなく寂しきこと、はたなければ、行ひの方の人は、そのまぎれなく勤め、仮名のよろづの冊子の学問、心に入れ給はむ人は、またその願ひに従ひ、ものまめやかにはかばかしき掟にも、ただ心の願ひに従ひたる住ひなり。




このように、騒がしい、馬や牛車の音をも、直に聞き慣れない御婦人方は、極楽で蓮の花が開かないでいる時の気持ちが、こういうものかと、気が晴れないようである。更に、二条の東の院に離れて住む方々は、年月の経つにつれて、所在ない事ばかり多くなってゆくのだが、憂き世の辛さのない山に逃れたつもりで、冷たい人の心を、何といって、咎めることがあろうかと。そのこと以外に、心配で、寂しいことは別に無いゆえ、仏道に志す空蝉は、気を散らさずに勤行し、仮名書の色々な書物の学問に、熱心な末摘花は、希望通りにされて、実生活の決まりも、婦人方の希望通りの生活をしている。

空蝉、末摘花のことなど、主語がないので、戸惑う。
これを知るには、研究家たちの、努力の甲斐あってのもの。

世のうきめ見えぬ山路・・・
古今
世のうきめ 見えぬ山路へ 入らむには 思ふ人こそ ほだしなりけれ

はかばかしき掟
色々と細かな、決まりごとである。



posted by 天山 at 05:12| もののあわれについて第11弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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