2012年08月18日

性について212

性倒錯は、第一次思春期に、人間が不能であったという事実にあると、考えられると、岸田氏は、言う。

つまり、その時期は、性的リビドーが、正常な性交による満足を得られない。ゆえに、それ以外の、可能な限り、あらゆる方法で満足を得ようとするというもの。

フロイトも、ここから、幼児期の、多形倒錯がはじまると、言う。

いわば、人間は、まず正常であって、何らかの異常な原因があって、あとから性倒錯になるのではなく、逆に、まず性倒錯者であって、教育やその他の努力の結果、正常者になるのである。
岸田秀

学者さんは、こんなことを考えていても、金になるからいい・・・

人間の場合は、動物のように本能に規定されたものではなく、後天的に獲得された習慣が、性行為なのだということだ。

果たして、そうだろうか。
人間も、動物である限り、本能に規定されているはずである。
もし、そうでなければ、それは、大脳化のゆえだろう。
と、以前にも、そのために、多く書き付けたはず。

まず、兎に角、岸田氏の、論を続けてみる。

第二次思春期になると、性器が完全に成熟し、正常な性行為が可能となる。
そして、社会通念上も、それが正常だと、容認する。

社会通念は、大勢であるから、倒錯的傾向に対して、激しい偏見と、更には、闘争にまで発展する。

しかし、心理学的に、多少とも、大半の人が、倒錯傾向を残存させている。
というより、マスターベーションも倒錯であれば、おおよそ、すべての人と、言うことも出来る。

倒錯の強弱は、第二次思春期の性満足に由来する。
その満足の形式に、リビドーが固着する強弱である。

だから、この期間は、外部からの性的刺激は、できるだけ少ない方がいいようである。
特に、はじめて、リビドーが非常に満足させられると、その体験形式が重大な影響を与えるという。

性倒錯の、形式を上げれば、実は、切が無い。
それは、性器から、リビドーが分離しているから、何でもありである。

人間のリビドー、つまり性的欲求は、性器から分離することによって、留まることを知らないエネルギーになるのである。

岸田氏に習い、上げてみると、同性愛、サディズム、マゾヒズム、フェティシズム、窃視症、露出症、放火狂、窃盗狂、獣姦症、屍姦症、更に、幼児性愛、老姦症・・・
切が無い。

そして、それが単独にある場合と、複雑に、それらが絡まるのである。

要するに、あらゆる対象、あらゆる行動形式が性欲の目標または手段となり得る。
岸田

そこで、問題は、性倒錯の形式が、どのようにして決定されるかである。

最初にリビドーが興奮させられたときの体験形式が重要な要因であることはたしかだが、それは、その体験形式が個人の人格構造全体の一環をなしているかぎりにおいてであって、要するに、第一次思春期における個人の人格構造が問題である。
岸田

倒錯は、個人の人格の、一つの表現形式である、となる。

如何に、幼児期が大切な時期であるかが解る。

つまり、性倒錯の形式過程を解明するには、人格の発達過程を知らなければならないということになる。

ここで、その児童心理云々を、書き続ける訳には、ゆかない。

端的に言えば、フロイトが名付けた、口唇期である。
赤ん坊、幼児は、客観的には、無能であるが、主観的には、全能である。

そのうちに、自分の思い通りにならないことに気づく。
無能の自己と、全能の自己が、葛藤する。
そして、一種の抑うつ状態に陥る。

そこで、全能の自己を、母親に投影する。
全能なる、母親を信じ、崇拝する。

そして、母親と、自己を同一視するのである。
そのうちに、母親も、全能ではないことを知る。
その幻滅から、反抗するようになる。

心理学では、第一反抗期と呼ぶ時期である。

その後、自己の対象、現実と空想との区別を明確にする。
全能の自己は、その誇大妄想的な要素を失い、理想の自己となり、無能の自己は、その無能性を脱して、現実の自己となる。

その時期から、フロイトによると、肛門期に入るのである。

余計なことを言えば、ユダヤ人だった、フロイトは、無意識に旧約聖書から、多くのヒントを得ているようである。
全知全能の神を掲げて創作された、民族の宗教である、ユダヤ教から、人間の心理を取り出していたのである。

性というものに、注目したのも、ユダヤ教、旧約聖書からの、ものであろう。
人間の生きる、エネルギーを、性的リビドーと命名したのである。
ユダヤ教の神は、性的エネルギーの象徴として存在するのである。

さて、肛門期である。

とにかく、個人の人格は、個人が直面した状況に内在する矛盾(葛藤)を解決するたにある人格体制をつくりあげ、またその人格体制そのものが矛盾をはらみ、さらにその矛盾を解決するためにまた別の人格体制を築く、という風に弁証法的に発達してゆく。
岸田

ここでも、解るとおりに、心理学とは、他の学問に大きく依るところである。
弁証法は、哲学概念である。




posted by 天山 at 00:32| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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