2012年08月14日

天皇陛下について124

桓武天皇は、羅城門の東と西に、東寺と西寺を建立された。

それと共に、比叡山が東北、つまり、鬼門にあるため、王城の鎮護として、その名を、延暦寺と、賜る。

最澄の天台宗と、空海の真言宗が、以後の二大勢力となって行くのである。

少し説明すると、最澄の方が、早い。
空海は、最澄後に、京都に入り、真言宗を立てる。

更に、空海は、民衆的だった。
精力的に活動したのである。

空海が、唐から戻ったのは、桓武天皇崩御の後で、平城天皇の御代である。

空海は、日本固有の、道徳と仏教の教えを結びつけ、日本の国風に合うようにした。勿論、最澄もそうであるが、特に、儒教やその他、道教などの教えを取り入れて、寺に、守護神として、神社を祀ったのである。

つまり、かんながらの道との、調和を図ったのである。
そして、仏と神は、別物ではないと、主張した。

奈良時代から、そのような考え方があったが、空海が更に、それを加速させたのである。

神の本地は、仏であるというもの。
神は、仏が仮に、人間の世界に現れたものであるという。
であるから、我が国の神々の、源流は、仏、菩薩であるというものである。
それを、本地垂迹、ほんちすいじゃく、の説という。

これは、あくまで、空海の創作である。

平城天皇の、次代は、第五十二代嵯峨天皇、809年から823年である。

嵯峨天皇は、空海に高野山を、賜る。

そこに建てられたのが、真言宗の本山、金剛峯寺である。

嵯峨天皇の御代は、特に、漢文学が最も盛んになった時代である。
以前から、漢籍が読まれて、その文学、漢詩を詠んでいたが、天皇が進んで、それを推進したのである。

その時期の、名高い学者は、小野たかむら、空海、菅原是善、都良香などである。

小野たかむら、は、遣隋使で有名な、小野妹子の子孫である。

天皇は、学問だけではなく、政治改革も、行った。
大宝律令が定められてから、百余年が過ぎて、時世が変わっている。時世に適応するためにと、改められたのである。

文書を扱う、蔵人所、くろうどどころ、更に、京都に検非違使庁を置き、警察事務を執られた。

また、この、平安時代初期、日本書紀に続き、続日本書紀、日本後記、続日本後記と、国史を相次いで、作らせたのである。

更に、御代々の、臨時の法令、規則を集めた、格式、きゃくとしき、というものが出来たのも、この時代である。

天皇は、桓武天皇のご意志を継がれて、天台宗を保護し、その興隆に力を致された。
更に、空海も助けて、新しい宗教を樹立させるのである。

弘仁9年、疫病が起こった際に、自ら般若心経をご書写されて、空海に供養せさしめ、祈願をなさった。

ご在位、15年で、崩御されるが、あらかじめ、崩御の際には、ご遺詔があった。

薄葬にせよ、である。
つまり、すべてを、質素にせよということである。

現在の今生天皇陛下も、同じく、その意思を、お示しになっている。
皇后と共に、葬儀を。そして、質素にと。

このように、帝という、権威にある存在が、そのように希望するという、日本という国柄である。

国民に、負担をかけないように・・・

その、心を、大御心、おほみこころ、という。

権威ではなく、権力によるものならば、その権力を誇示するために、更に、盛大に行うであろうこと。
しかし、権威の象徴である、御方は、そんなことは、必要ないのである。

だからこそ、天皇の権威が存在する。

それは、昭和天皇、今生天皇の、御姿を見ても、解るとおりである。
ただ、国民のために・・・
国民と共にある、祈りの存在として・・・

このような、君主というものは、世界的にも稀有な存在である。




posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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