2012年08月13日

天皇陛下について123

称徳天皇崩御後、皇太子、白壁王(天智天皇の御孫)が、御位に就かれた。

第四十九代光仁天皇、770年より、781年。

天皇の詔勅は、およそ85である。
このうち、祭祀の怠慢を戒められたものがある。

神祇(天津神、国津神)を祭祀するは国の大典なり、と、はじまるものである。

仏教が盛んになり、我が国本来の「神ながらの道」唯神の道を、蔑ろにしてはいけないというものである。

776年のことである。宝亀七年。
前年に、天長節を始められている。
天皇誕生日のはじまりである。
この日は、殺生を禁じた。

更に、宝亀11年に、仏教界を戒める詔を下されている。

つまり、僧侶の堕落甚だしく、一般の俗人と変わらない行為行動を見てのことである。

それは、奈良仏教界に対するものであり、また、それが、奈良時代の終わりを告げることになる。

現在は、どうであろうか・・・
更に、その堕落は甚だしく、手のつけられない状態である。
しかし、誰も、それを戒めることが、出来ないでいる。

奈良時代の最後に、光仁天皇が、皇太子に御位を譲られる時の、宣命、せんみょう、というものがある。

宣命とは、天皇の命令として、多くの人に、言明する、主旨の徹底を図るものである。

その一部
古人がいった。子を知るは親であると。そこで、我が皇太子であるが、若い時から、よく私に従い、今日に至るまで、怠ることなく、仕えてきた。その日常をみるに、仁と孝とに厚い。この仁と孝とは、百行の基である。そもそも、ムカデは死にあっても、ひっくり返ることがない。これは、助け補う足が多いということである。それを考えると、清く正しく、正直な心を持ったものが、一人でも多く、皇太子を助け、また、激励し、導いてくれれば、よく国民を撫育してゆけるだろう。

撫育とは、温かく、育て慈しむことである。

光仁天皇は、仏教界の堕落を見て、ご自身でも、そのタガを締められたのである。そして、実践された。

奈良仏教界は、政治にまでも、介入し、僧侶でありながら、権力を求め、更に、その生活は、自堕落の一途であった。

ゆえに、今でも、奈良の寺院では、浮遊霊が多い。
私も、何度か奈良を、訪ねたが、ロクな寺がなかった覚えがある。

天皇のご在位は、62歳の時より、12年である。すでに、73歳であった。
そして、その年、天応元年、781年、崩御された。

第五十代、桓武天皇、781年より、806年。
平安時代の幕開けである。

時に、天皇は、45歳であった。
仁、孝に篤い御方である。

奈良仏教界の腐敗に対して、新しい都を求めたのである。

それが、長岡京である。
それでも、治まらないゆえに、和気清麻呂の進言で、今日の京都に遷都されることになる。

延暦13年10月のことである。

この地は、比叡、鞍馬、貴船、高雄、愛宕、その他の山々に囲まれている。
東には、加茂川、西には、桂川、南には、宇治の大河が、流れる。

天皇は、山城国としようと仰せられた。
更に、新しい人々が、口々に、平安京、たいらのみやこ、と呼ぶゆえ、都の名前は、それを用いるとの仰せである。

新しい都は、奈良より、大きく、碁盤の目のように、正しく縦横に通じていた。

その中央は、南北に通じる、朱雀門大路があり、最南端には、羅城門である。

さて、奈良仏教界は、退廃の一途である。
更に天皇は、奈良の僧侶、寺院は、大いに害があると、認められていた。
それほどに、酷いものだった。

仏教を否定したわけではないが、これでは、先行きが危ういと、見破られたのである。

そこで、奈良に変わる、新しい仏教を求められたのである。
その、手はじめが、近畿諸寺の興隆である。

東寺、西寺、鞍馬寺の建立である。

そして、人員の配置である。
文官として、和気清麻呂、武官として、坂上田村麻呂をおいた。

更に、天台宗を起こした、最澄を立てられた。
その後、真言宗の開祖、空海が登場する。

最澄は、奈良の僧侶に対抗すべく、精神界に新しい運動を起こすことになる。
それは、釈迦の教えに立ち戻ろうとする、運動であった。

勿論、それは正しいことだが・・・
最澄が学んだ仏教とは、唐の仏教であり、志は、間違いないが、受けてきた教えが誤っていた。
だが、それは、このエッセイの主旨ではない。
神仏は妄想である、を、参照ください。

最澄が、比叡山の山中に、小寺を建てたのは、桓武天皇の、延暦七年である。788年。
現在の、延暦寺の起こりである。

更に、16年には、朝廷が選んだ、十人の高僧の一人となった。
延暦23年、唐へ留学する。そして、帰国後、天台の教えを日本の国柄に合うようにし、広めることになる。

天皇は、その前年に、遣唐使を宮中にお召しになり、餞別に盃を賜った。
その折に、酒に添えて
この酒は おほにはあらず 平らかに 帰り来ませと 祝ひたるさけ
との、御製を贈られた。

おほ、とは、いい加減ではない、気持ちだけではない、という意味である。

真に、無事に帰国することを、願ったのである。
遣唐使たちは、感涙した。




posted by 天山 at 04:55| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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