2012年08月11日

霊学75

シンボルによって無闇に動かされないためには、われわれはその意味を意識的に把握する必要がある。ところが、シンボルの意味が言語化され、自我によって把握されると、それは活力を失い、もはやシンボルではなくなってしまう。
河合

この、良い例が、19世紀の合理主義である。
多くのシンボルを殺したのである。
勿論、それにより、啓蒙することで、多くの迷信を打破し、人間が自由になったといえる。

だが、その後、シンボルを殺すことで、人間の重要な生命力の一部まで、破壊されたのではないかといわれる。

それは、シンボルが、無意識の世界に興味を持たせて、自分自身の全体性の回復とつながるという、考え方である。

さて、その人間性の、エネルギーを、心的エネルギーと呼ぶ。
この、心的エネルギーというが概念を使い、人間の意識、無意識の問題を考えるということになる。

例えば、フロイトは、心的エネルギーを、リビドーと名付けた。
その根底にあるものは、性であるとして、性的リビドーとも、呼ぶ。

ユングは、ここで、フロイトに対して、性的なものばかりではない、人間のエネルギーを見出した。心的リビドーである。
1912年に、リビドーの変遷と象徴、という本を著し、フロイトと袂を分かつのである。

心的エネルギーは、心の中を絶えず、流動する。
自我は、心の内部にある、心的エネルギーを適当に消費して、睡眠や休息時に、補給されると考える。

心的エネルギーが、無意識から意識へと流れるのを、進行、意識より、無意識に流れるのを、退行と呼ぶ。

それが、一日のうちに繰り返されている。

人が困難な状態に陥り、心的エネルギーを退行させることが多々ある。
コンプレックス・・・・
それが、心的エネルギーを引き寄せ、自我のほうに、流れるのを、妨げるのである。

心理療法とは、流れを止められている、心的エネルギーを、自我のほうに、戻すようにする行為となる。

ここで、フロイトは、退行を病として、認識した。
ユングは、病ではないものもあると認識し、更に、創造的な心的過程では、退行が必要であると、考えたのである。

創造的なものは、相反するものの統合が、なんらかの形で、認められる。両立し難いと思われるものが、一つに統合されて、創造がなされるという。

ユングは、無意識内に存在する創造性に注目し、退行現象が常に病的なものとは、限らなず、創造的な側面を持つと、指摘したのである。

それは、フロイト派の人たちにも、気づきを促した。
自我心理学者と呼ばれる人たちは、創造的退行、自我のための退行、という。
つまり、退行の創造的な面を、重要視するようになるのである。

さて、退行をよく見ると、心の中に、定立するものがあり、対して、反定立するものがある。そのどちらかを、抑圧すれば、解決が簡単であるが、創造的とは、いえないのである。

自我を、どちらにも、傾けないと、一種の停止状態になる。
ここで、自我を働かせていた、心的エネルギーが退行を起こし、無意識の世界へと入り込む。

この、退行状態になると、人は外見上、ただぼんやりとしているように、見える。だが、無意識では、動きがあり、自我のそれまでの、働きと無意識の働きが統合されて、統合的なシンボルが顕現されてくる。

それにより、心的エネルギーは、進行を開始し、自我は、新たなエネルギーを得て、活動するという。

新しい発見、発明などは、このような、退行現象が生じることは、多くの実例が証明していることである。

シンボルというものは、新しいエネルギーが自我にもたらされ、それの動き手となるのが、シンボルである。

自然のままのエネルギーの進行と退行の流れに加えて、人間が文化的な目的のために、新たな心的エネルギーを使用しようとするとき、そこに適切なシンボル形成が行われねばならない。
河合

今日、われわれは、19世紀が予感すらできなかったあることを理解しつつあるのである。つまり、シンボル、神話、イメージが精神生活に必須な質であること、われわれはそれらを偽装し、ずたずたに切断し、その価値を落下させることはできても、根絶やしにすることはけっしてできないということを学びつつあるのだ。
宗教学者 エリアーデ イメージとシンボル

現代社会、その人間の様子は、シンボルやイメージを忘れた。
河合は、20世紀は、できるかぎり、明確な概念を打ち立て、それをうまく操作することにより、自然科学の殿堂を打ち立ててきたという。

テクノロジー社会は、人間の生命の働きを絶えさせるようになった。
つまり、それに目を塞がれてしまい、トータルな人間性を、持てなくなったといえる。

つまり、無意識からの、情感とでもいうべき、感受性などである。

無意識は、シンボルの宝庫であるという・・・
だから、無意識に興味を持ち、全体性の回復へと向かう、との意見である。
その手立てが、夢であるとする、ユング派の人たちである。

勿論、夢でもいいが、様々な方法があることを、忘れてはいけない。

夢を観察することが、最も適切な手段であるとする、ユング派。
それは、夢は、無意識から、意識へ流れてくるメッセージであり、シンボルの担い手であるという、考え方である。

夢分析・・・ユングの結末ともいえる、無意識の世界への、挑戦である。
だが、ここで、手際よく、人の夢分析をして、あるような、無いような世界を導き出すという、心理療法家に注意である。

人の夢であるから、何とでも、言える。
更には、それに拘り過ぎて、逆効果をもたらす場合も多々あるということだ。

その夢分析の元、虎の巻は、大半が文献研究である。
実に、恐ろしいと言うべきだ。
これは、極めて慎重に、行われなければならない。




posted by 天山 at 01:39| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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