2012年08月10日

霊学74

無意識を探索するということは、イメージを捉えるということである。
更に、イメージと関連しての、シンボルというもの。

学者によって、それは、相当に異なる意味に用いられる。
これも、心理学の欠点であり、また、節操のなさであり、よく言えば、自由なのである。

どの学説を採るか・・・
それによっても、話し合いが進まない心理学である。

まあ、最低妥協するとしたら、山に登る道は、多数あるということだ。

ただし、同じ山でないこともあるが・・・

同じ山に登っているつもりでいる、心理学者も多々いるだろう。
特に、日本の場合は。

例えば、日本の、人間の精神、心理を研究するために用いられた方法は、自分の気持ちや意識を、自分で調べる内観法である。

だが、これは、意識、行動についての、因果関係が明らかに出来ないという、欠陥があった。
更に、意識や、行動は、自分でも気づかない無意識的な原因によって、左右されるという、考えが出て来たといわれるが、違う。
文献が少なかっただけの話。

続けてみると、そこで、人間も、自然の物体と同じく、対象物と見なして、ある条件の中に置く、または、条件を加えると、どんな反応、行動となるのか、どんな、意識が生じるのかを調べるという。
つまり、条件と行動、意識との因果関係を研究するという、形式的には自然科学と同じ、実験的な方法が用いられるようになる。

だが、人間は、外部の条件に依存せず、自発的な意思に基づき、行動する場合が多く、意識、行動の内部的な仕組みについて、様々な仮説が必要であり、そこで、仮説通りだとしたら、こういう条件であれば、こういう行動、意識を生じるという、実験的に検証するという、方法がなされた。

つまり、ご苦労さんなのである。

更に、ご苦労なことは、人間の高等で複雑な精神活動は、実は動物にはない、更に、脳によって、営まれているということから、動物が人間の代用にはならないと、気づくという、お粗末さである。

動物実験から、人間の精神活動を理解する資料としては、それなりの限界をもっており、とくに高等な精神活動の場合は、限界なのだと、知るべし。

これは、進化論をテーマにしての、心理学の、チャレンジである。

お疲れ様でした。

さて、一般的に心理学においては、イメージを外界の像としてのイメージを考えること、多々あり。
イメージを知覚対象のない場合に生じる、視覚像と定義する。

イメージに関しては、実験心理学的な考え方と、無意識の心理学の考え方があり、それは、両極端になるのである。

河合隼雄氏は、
実際に、個々のイメージはこの両者の中間にあって、内界、外界の両方からの影響を受けて存在しているものである。
と、なる。

河合氏の場合は、臨床家であり、イメージを内界の表現として捉える立場にたつ。

そこで、内界の表現としては、言語というものがあり、言語によって、苦しい、嬉しいと、内的な状態を他人に示すのである。

更に、身体言語と呼ばれる、行為がある。
簡単に言えば、嫌なものは見えないとか、聞えないとか、である。

言語と、身体言語の中間にあるのが、イメージ言語である。

イメージは、単純な記憶像から、夢、ビジョンに至るまで、色々ある。それは、すべて、主観的な体験である。

河合氏による、イメージの分類を見る。
資格像そのもの。個人の主観的体験。
資格像の表現。言語よるものと、非言語によるもの。
外在化されたイメージ。
以上である。

この、イメージを通して、無意識の世界に挑むのである。

イメージは、具象性、集約性、直接性、多義性などを有し、心的内容を伝える。
ユングは、イメージと概念を比較して、イメージは生命力を持ち、概念は、その逆であるという。

概念とは、明確に規定し、それを操作して、合理的に思考を組み立てる。だが、その背後にある、イメージにも注目することで、思考が生き生きとするのである。

そして、シンボルである。
一般の心理学では、何らかの他の対象を代表するものと、広く定義される。
ユングは、シンボルを、記号、標識と区別する。

言葉やイメージはそれが明白で直接的な意味以上の何ものかを包含しているときに、象徴的なのである。それはよりひろい「無意識」の側面を有しており、その側面はけっして正確に定義づけたり完全に説明したりされないものである。誰もそれを定義したり説明し切ろうと望むことはできない。人間の心が象徴の探求を始めると、それは理性の把握を超えた観念に導かれる。
ユング 人間と象徴

理性の超えた観念とは、狂うということである。

無意識の探求には、欠かせない、イメージと、シンボルであるが、それらを通じて、その特性を言語化し、意識化することに努めるのが、学者、臨床家であるが・・・

それを言語化するとなると、あの、妄想の禅の世界の言葉のようになる。
解ったような、解らないような、そして、解った気にさせるという。

ここで、仏教の唯識の思想でも、取り出したいが・・・
そんなことをしていると、益々、膨大な原稿になる。

それは、別なエッセイに書くことにして・・・
兎に角、無意識の世界に挑戦するというのであれば、狂うことを前提にするべきである。だから、心理学で、語るところの、無意識なんていうのは、無意識の滓のようなもの。

ユングが狂う寸前で、留まったのは、神話から、学者が手をつけないような、様々な、古代からの、妄想に託したからである。

そんな奇特な心理学者は、日本にはいない。
精々、うつ病になる程度で、終わり。



posted by 天山 at 00:01| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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