2012年08月11日

霊学75

シンボルによって無闇に動かされないためには、われわれはその意味を意識的に把握する必要がある。ところが、シンボルの意味が言語化され、自我によって把握されると、それは活力を失い、もはやシンボルではなくなってしまう。
河合

この、良い例が、19世紀の合理主義である。
多くのシンボルを殺したのである。
勿論、それにより、啓蒙することで、多くの迷信を打破し、人間が自由になったといえる。

だが、その後、シンボルを殺すことで、人間の重要な生命力の一部まで、破壊されたのではないかといわれる。

それは、シンボルが、無意識の世界に興味を持たせて、自分自身の全体性の回復とつながるという、考え方である。

さて、その人間性の、エネルギーを、心的エネルギーと呼ぶ。
この、心的エネルギーというが概念を使い、人間の意識、無意識の問題を考えるということになる。

例えば、フロイトは、心的エネルギーを、リビドーと名付けた。
その根底にあるものは、性であるとして、性的リビドーとも、呼ぶ。

ユングは、ここで、フロイトに対して、性的なものばかりではない、人間のエネルギーを見出した。心的リビドーである。
1912年に、リビドーの変遷と象徴、という本を著し、フロイトと袂を分かつのである。

心的エネルギーは、心の中を絶えず、流動する。
自我は、心の内部にある、心的エネルギーを適当に消費して、睡眠や休息時に、補給されると考える。

心的エネルギーが、無意識から意識へと流れるのを、進行、意識より、無意識に流れるのを、退行と呼ぶ。

それが、一日のうちに繰り返されている。

人が困難な状態に陥り、心的エネルギーを退行させることが多々ある。
コンプレックス・・・・
それが、心的エネルギーを引き寄せ、自我のほうに、流れるのを、妨げるのである。

心理療法とは、流れを止められている、心的エネルギーを、自我のほうに、戻すようにする行為となる。

ここで、フロイトは、退行を病として、認識した。
ユングは、病ではないものもあると認識し、更に、創造的な心的過程では、退行が必要であると、考えたのである。

創造的なものは、相反するものの統合が、なんらかの形で、認められる。両立し難いと思われるものが、一つに統合されて、創造がなされるという。

ユングは、無意識内に存在する創造性に注目し、退行現象が常に病的なものとは、限らなず、創造的な側面を持つと、指摘したのである。

それは、フロイト派の人たちにも、気づきを促した。
自我心理学者と呼ばれる人たちは、創造的退行、自我のための退行、という。
つまり、退行の創造的な面を、重要視するようになるのである。

さて、退行をよく見ると、心の中に、定立するものがあり、対して、反定立するものがある。そのどちらかを、抑圧すれば、解決が簡単であるが、創造的とは、いえないのである。

自我を、どちらにも、傾けないと、一種の停止状態になる。
ここで、自我を働かせていた、心的エネルギーが退行を起こし、無意識の世界へと入り込む。

この、退行状態になると、人は外見上、ただぼんやりとしているように、見える。だが、無意識では、動きがあり、自我のそれまでの、働きと無意識の働きが統合されて、統合的なシンボルが顕現されてくる。

それにより、心的エネルギーは、進行を開始し、自我は、新たなエネルギーを得て、活動するという。

新しい発見、発明などは、このような、退行現象が生じることは、多くの実例が証明していることである。

シンボルというものは、新しいエネルギーが自我にもたらされ、それの動き手となるのが、シンボルである。

自然のままのエネルギーの進行と退行の流れに加えて、人間が文化的な目的のために、新たな心的エネルギーを使用しようとするとき、そこに適切なシンボル形成が行われねばならない。
河合

今日、われわれは、19世紀が予感すらできなかったあることを理解しつつあるのである。つまり、シンボル、神話、イメージが精神生活に必須な質であること、われわれはそれらを偽装し、ずたずたに切断し、その価値を落下させることはできても、根絶やしにすることはけっしてできないということを学びつつあるのだ。
宗教学者 エリアーデ イメージとシンボル

現代社会、その人間の様子は、シンボルやイメージを忘れた。
河合は、20世紀は、できるかぎり、明確な概念を打ち立て、それをうまく操作することにより、自然科学の殿堂を打ち立ててきたという。

テクノロジー社会は、人間の生命の働きを絶えさせるようになった。
つまり、それに目を塞がれてしまい、トータルな人間性を、持てなくなったといえる。

つまり、無意識からの、情感とでもいうべき、感受性などである。

無意識は、シンボルの宝庫であるという・・・
だから、無意識に興味を持ち、全体性の回復へと向かう、との意見である。
その手立てが、夢であるとする、ユング派の人たちである。

勿論、夢でもいいが、様々な方法があることを、忘れてはいけない。

夢を観察することが、最も適切な手段であるとする、ユング派。
それは、夢は、無意識から、意識へ流れてくるメッセージであり、シンボルの担い手であるという、考え方である。

夢分析・・・ユングの結末ともいえる、無意識の世界への、挑戦である。
だが、ここで、手際よく、人の夢分析をして、あるような、無いような世界を導き出すという、心理療法家に注意である。

人の夢であるから、何とでも、言える。
更には、それに拘り過ぎて、逆効果をもたらす場合も多々あるということだ。

その夢分析の元、虎の巻は、大半が文献研究である。
実に、恐ろしいと言うべきだ。
これは、極めて慎重に、行われなければならない。




posted by 天山 at 01:39| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月12日

天皇陛下について122

第四十六代孝謙天皇、女帝、749年より758年。
この御代に、藤原不比等の孫にあたる、藤原仲麻呂が重用され、恵美押勝という、姓名を賜った。

ところが、第四十七代淳仁天皇、758年より764年の、御代になり、押勝は、我欲を通して、誅された。
この乱で、功績があったのが、唐留学生の、吉備真備である。

押勝の乱の後、天皇は退位され、第四十六代の孝謙天皇が、再び御位に就かれた。
これは、チョウソといわれ、同じ方がもう一度、皇位に就かれることで、この時は、二度目のことである。

第四十八代称徳天皇、764年より770年。
御父聖武天皇と同じく、篤く仏教を信仰された。

ゆえに、常に宮中に僧尼をお呼びになった。

この頃は、行基と同じように、興福寺の義淵僧正の弟子で、弓削道鏡、ゆげのどうきょう、という評判の僧がいた。

これが、孝謙天皇のご信任を得た。それは、天皇が御位を退かれた、上皇時代である。
そして、再び、天皇の御位に就かれた。
そこで、道鏡は、政治のことにも参与すべく、太政大臣禅師という位を授けられた。

これは、大宝律令にはない、不思議な官である。

つまり、朝廷の文武百官の上になるのである。
更に、天皇は、不足とおぼしめして、法王の位も授けた。

法王とは、天皇が退位して、仏教の信仰を続けるという、出家に似た形である。

その下に、法臣、法参議、大律師という、僧侶の役人を配されたのである。
つまり、天下の政治は、道鏡の指示を受けるようにというものである。

しかも、多くの土地も賜り、一族もそれぞれ、高官に取り立てられたのである。

それゆえ、道鏡と、その取り巻きは奢るのである。
天皇と同格になったようなものだ。

大臣以下の百官も、どうしようもない。
法王殿に参り、道鏡さまに、拝賀をせねば、ということになった。

拝賀とは、天皇のみに対する、礼である。

中には、媚びる者も出でくる。
それが、九州、大宰府の神主である、習宣阿曽麻呂である。
この男は、道鏡の次の狙いは、天皇の位だろうと目をつけた。

阿曽麻呂は、道鏡を天皇の位につければ、天下は必ず、よく治まるであろうという、宇佐八幡のお告げとして、朝廷に申し出たのである。

それを聞いた、称徳天皇は、大変ご心配になられた。

天皇の位とは、天照大神の直系でなければ、授けられないものである。

不審なここと思った天皇は、日頃から、信用されていた、尼の法均の弟、和気清麻呂、わけのきよまろ、を、お呼びになった。

それは、前夜、夢に、宇佐八幡のお使いが現れ、八幡の大神から朝廷に告げたいことがあるので、法均をよこすように、とのお告げがあったからである。

しかし、法均は、女の身である。万一のことがあっては、ならないと、弟の清麻呂に、代わりに行くようにと、命じたのである。

清麻呂の身分は、近衛将監で、天皇護衛の武人である。高い位ではない。

この年、神護景雲三年、清麻呂は37歳である。

心身を清めた清麻呂は、八幡の神前に額ずき、つつしんで、その神意を伺った。そして、都に戻り、奏上した。

我が国は、開闢以来、君臣の分が定まっている。臣をもって君とするようなことは、絶対にあるべきではない。天皇の御位には、天照大神の直系を立てよ。臣下でありながら、天皇の位を望む無道の者は、速やかに掃い除けと、ございました。

道鏡には、矢張り、野心があった。それを聞いて、烈火の如く怒り狂い、清麻呂の官位を奪った。更に、名前も、別部穢麻呂とし、大隈国、現在の鹿児島に流されたのである。

姉の法均は、備後、現在の広島に流された。

実は、道鏡は、清麻呂の暗殺まで、謀ったのである。
しかし、それは失敗した。

いかに、道鏡が不遜であり、野心があったという証拠である。

しかし、二人は、藤原百川という、贈太政大臣により、生活に不自由のないように、面倒をみてもらっていたのである。

年が変わり、称徳天皇は、崩御された。
皇太子、白壁王、天智天皇の御孫が、御位に就かれた。

まもなく、道鏡は、下野国、薬師寺別当に左遷される。
更に、大宰府の阿曽麻呂も、種子島の島守にされた。

和気姉弟は、都へ召し出され、名も位も復帰した。
更に、桓武天皇の御代には、大功をたてて、位は従三位、官は民部大輔に、中宮太夫を兼ねることになった。

その後、皇室を守ったことで、護王大明神とあおがれ、京都、別格官幣社護王神社に祀られ、正一位を贈られたのである。

後年、頼山陽は、彼を讃えて、書いた。
男子に気節があるというのは一身上の問題だけではなく、国家をたもち、天下の安危を救うに足る。一国に男子に気節がなければ国はほろんでしまう。
日本政記

現代の政治家にも、心得て欲しい言葉である。
気節とは、気概である。心意気である。

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2012年08月13日

天皇陛下について123

称徳天皇崩御後、皇太子、白壁王(天智天皇の御孫)が、御位に就かれた。

第四十九代光仁天皇、770年より、781年。

天皇の詔勅は、およそ85である。
このうち、祭祀の怠慢を戒められたものがある。

神祇(天津神、国津神)を祭祀するは国の大典なり、と、はじまるものである。

仏教が盛んになり、我が国本来の「神ながらの道」唯神の道を、蔑ろにしてはいけないというものである。

776年のことである。宝亀七年。
前年に、天長節を始められている。
天皇誕生日のはじまりである。
この日は、殺生を禁じた。

更に、宝亀11年に、仏教界を戒める詔を下されている。

つまり、僧侶の堕落甚だしく、一般の俗人と変わらない行為行動を見てのことである。

それは、奈良仏教界に対するものであり、また、それが、奈良時代の終わりを告げることになる。

現在は、どうであろうか・・・
更に、その堕落は甚だしく、手のつけられない状態である。
しかし、誰も、それを戒めることが、出来ないでいる。

奈良時代の最後に、光仁天皇が、皇太子に御位を譲られる時の、宣命、せんみょう、というものがある。

宣命とは、天皇の命令として、多くの人に、言明する、主旨の徹底を図るものである。

その一部
古人がいった。子を知るは親であると。そこで、我が皇太子であるが、若い時から、よく私に従い、今日に至るまで、怠ることなく、仕えてきた。その日常をみるに、仁と孝とに厚い。この仁と孝とは、百行の基である。そもそも、ムカデは死にあっても、ひっくり返ることがない。これは、助け補う足が多いということである。それを考えると、清く正しく、正直な心を持ったものが、一人でも多く、皇太子を助け、また、激励し、導いてくれれば、よく国民を撫育してゆけるだろう。

撫育とは、温かく、育て慈しむことである。

光仁天皇は、仏教界の堕落を見て、ご自身でも、そのタガを締められたのである。そして、実践された。

奈良仏教界は、政治にまでも、介入し、僧侶でありながら、権力を求め、更に、その生活は、自堕落の一途であった。

ゆえに、今でも、奈良の寺院では、浮遊霊が多い。
私も、何度か奈良を、訪ねたが、ロクな寺がなかった覚えがある。

天皇のご在位は、62歳の時より、12年である。すでに、73歳であった。
そして、その年、天応元年、781年、崩御された。

第五十代、桓武天皇、781年より、806年。
平安時代の幕開けである。

時に、天皇は、45歳であった。
仁、孝に篤い御方である。

奈良仏教界の腐敗に対して、新しい都を求めたのである。

それが、長岡京である。
それでも、治まらないゆえに、和気清麻呂の進言で、今日の京都に遷都されることになる。

延暦13年10月のことである。

この地は、比叡、鞍馬、貴船、高雄、愛宕、その他の山々に囲まれている。
東には、加茂川、西には、桂川、南には、宇治の大河が、流れる。

天皇は、山城国としようと仰せられた。
更に、新しい人々が、口々に、平安京、たいらのみやこ、と呼ぶゆえ、都の名前は、それを用いるとの仰せである。

新しい都は、奈良より、大きく、碁盤の目のように、正しく縦横に通じていた。

その中央は、南北に通じる、朱雀門大路があり、最南端には、羅城門である。

さて、奈良仏教界は、退廃の一途である。
更に天皇は、奈良の僧侶、寺院は、大いに害があると、認められていた。
それほどに、酷いものだった。

仏教を否定したわけではないが、これでは、先行きが危ういと、見破られたのである。

そこで、奈良に変わる、新しい仏教を求められたのである。
その、手はじめが、近畿諸寺の興隆である。

東寺、西寺、鞍馬寺の建立である。

そして、人員の配置である。
文官として、和気清麻呂、武官として、坂上田村麻呂をおいた。

更に、天台宗を起こした、最澄を立てられた。
その後、真言宗の開祖、空海が登場する。

最澄は、奈良の僧侶に対抗すべく、精神界に新しい運動を起こすことになる。
それは、釈迦の教えに立ち戻ろうとする、運動であった。

勿論、それは正しいことだが・・・
最澄が学んだ仏教とは、唐の仏教であり、志は、間違いないが、受けてきた教えが誤っていた。
だが、それは、このエッセイの主旨ではない。
神仏は妄想である、を、参照ください。

最澄が、比叡山の山中に、小寺を建てたのは、桓武天皇の、延暦七年である。788年。
現在の、延暦寺の起こりである。

更に、16年には、朝廷が選んだ、十人の高僧の一人となった。
延暦23年、唐へ留学する。そして、帰国後、天台の教えを日本の国柄に合うようにし、広めることになる。

天皇は、その前年に、遣唐使を宮中にお召しになり、餞別に盃を賜った。
その折に、酒に添えて
この酒は おほにはあらず 平らかに 帰り来ませと 祝ひたるさけ
との、御製を贈られた。

おほ、とは、いい加減ではない、気持ちだけではない、という意味である。

真に、無事に帰国することを、願ったのである。
遣唐使たちは、感涙した。


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2012年08月14日

天皇陛下について124

桓武天皇は、羅城門の東と西に、東寺と西寺を建立された。

それと共に、比叡山が東北、つまり、鬼門にあるため、王城の鎮護として、その名を、延暦寺と、賜る。

最澄の天台宗と、空海の真言宗が、以後の二大勢力となって行くのである。

少し説明すると、最澄の方が、早い。
空海は、最澄後に、京都に入り、真言宗を立てる。

更に、空海は、民衆的だった。
精力的に活動したのである。

空海が、唐から戻ったのは、桓武天皇崩御の後で、平城天皇の御代である。

空海は、日本固有の、道徳と仏教の教えを結びつけ、日本の国風に合うようにした。勿論、最澄もそうであるが、特に、儒教やその他、道教などの教えを取り入れて、寺に、守護神として、神社を祀ったのである。

つまり、かんながらの道との、調和を図ったのである。
そして、仏と神は、別物ではないと、主張した。

奈良時代から、そのような考え方があったが、空海が更に、それを加速させたのである。

神の本地は、仏であるというもの。
神は、仏が仮に、人間の世界に現れたものであるという。
であるから、我が国の神々の、源流は、仏、菩薩であるというものである。
それを、本地垂迹、ほんちすいじゃく、の説という。

これは、あくまで、空海の創作である。

平城天皇の、次代は、第五十二代嵯峨天皇、809年から823年である。

嵯峨天皇は、空海に高野山を、賜る。

そこに建てられたのが、真言宗の本山、金剛峯寺である。

嵯峨天皇の御代は、特に、漢文学が最も盛んになった時代である。
以前から、漢籍が読まれて、その文学、漢詩を詠んでいたが、天皇が進んで、それを推進したのである。

その時期の、名高い学者は、小野たかむら、空海、菅原是善、都良香などである。

小野たかむら、は、遣隋使で有名な、小野妹子の子孫である。

天皇は、学問だけではなく、政治改革も、行った。
大宝律令が定められてから、百余年が過ぎて、時世が変わっている。時世に適応するためにと、改められたのである。

文書を扱う、蔵人所、くろうどどころ、更に、京都に検非違使庁を置き、警察事務を執られた。

また、この、平安時代初期、日本書紀に続き、続日本書紀、日本後記、続日本後記と、国史を相次いで、作らせたのである。

更に、御代々の、臨時の法令、規則を集めた、格式、きゃくとしき、というものが出来たのも、この時代である。

天皇は、桓武天皇のご意志を継がれて、天台宗を保護し、その興隆に力を致された。
更に、空海も助けて、新しい宗教を樹立させるのである。

弘仁9年、疫病が起こった際に、自ら般若心経をご書写されて、空海に供養せさしめ、祈願をなさった。

ご在位、15年で、崩御されるが、あらかじめ、崩御の際には、ご遺詔があった。

薄葬にせよ、である。
つまり、すべてを、質素にせよということである。

現在の今生天皇陛下も、同じく、その意思を、お示しになっている。
皇后と共に、葬儀を。そして、質素にと。

このように、帝という、権威にある存在が、そのように希望するという、日本という国柄である。

国民に、負担をかけないように・・・

その、心を、大御心、おほみこころ、という。

権威ではなく、権力によるものならば、その権力を誇示するために、更に、盛大に行うであろうこと。
しかし、権威の象徴である、御方は、そんなことは、必要ないのである。

だからこそ、天皇の権威が存在する。

それは、昭和天皇、今生天皇の、御姿を見ても、解るとおりである。
ただ、国民のために・・・
国民と共にある、祈りの存在として・・・

このような、君主というものは、世界的にも稀有な存在である。


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2012年08月15日

天皇陛下について125

第五十六代清和天皇、858年から876年。

9歳で、御位に就かれた。

幼少のため、そこに出て来たのが、藤原氏である。
先祖の鎌足が、大功績をたてて以来、藤原氏は、引き続き、朝廷からの、信任を得ていた。その後、皇室との縁も深くなり・・・

清和天皇の摂政として、政治を摂るようになった。

鎌足の子である、不比等の子、四人が、公卿に列せられた。
奈良時代も、同じく朝廷からの信任厚く、不比等の娘の安宿媛が、聖武天皇の皇后となり、つまり、光明皇后である。そして、称徳天皇を、お生みになり、皇室との関係が益々深まるのである。

平安時代になると、不比等の子の房前の、曾孫である、冬嗣になり、その名が、大いに現れることになる。

その子、良房が非常に出世する。

良房は、桓武天皇の末、佐衛士尉、さえいじょう、という低い位から、仕えはじめて、嵯峨天皇の御代に、蔵人頭、くろうどのとう、になり、続いて、大納言、右大臣となり、政治に貢献した。

天皇は、皇女を良房に嫁がせ、その功を表するのである。

冬嗣も、第五十三代の、淳和天皇の御代に、左大臣となり、その娘は、第五十四代仁明天皇の女御となり、第五十五代の、文徳天皇を、生まれている。

良房は、仁明天皇の末から、右大臣となっていたが、天皇崩御により、文徳天皇が、お立ちになると、彼は天皇の、外伯父に当る上、自分の娘を天皇の女御に奉る。

右大臣、そして、太政大臣である。

本来は、皇族のみに与えられる職である。

そして、その後、延々と藤原氏が、その位に就くことになるのである。

更に、良房は、清和天皇が、9歳で即位されると、摂政であるから、その出世は、大変なことである。
だが、世の中も、それを認めていた。

臣下で、摂政は、初めてのことである。

この辺りから、藤原氏の策略が見えてくるのである。

清和天皇には、その上に三人の皇子がおられた。
特に、第一の皇子、惟喬親王は、ご賢明の名が高かった。

そのため、文徳天皇は、この皇子を、皇太子にと考えていた。
だが、皇子のご生母が、紀名虎の娘であったため、藤原氏に対し、遠慮されていたようである。

そのうちに、良房の考えで、皇子、惟仁親王が皇太子となった。
この時、皇子は、九ヶ月の幼児である。

惟喬親王は、失望されて、叡山の麓に隠れ住むことになる。

ゆえに、清和天皇は、ご成長ののちに、兄君たちをこえて、御位に就かれたことを、恥じて、27歳という若さで、御位を皇太子に譲られた。

清和天皇は、大変、仁慈に篤い御方であった。

貞観11年、869年、二十歳の時に、服御常膳、ふくぎょうじょうぜん、という、普段の着るもの、食べるものを、減じて、慈雨を祈られた。

そのお言葉である。
私は、徳うすく、才も乏しい身で、天子の位にのぼった。そして、祖宗の大業を受け継いで以来、いかにこれを守り、維持すべきかに心を砕いている。昔の故事をきいては、わが徳を恥ずかしく思い、朝は、まだ明けぬうちに衣を着て、夕べは、日暮れて後に食をとり、ひたすら、政務にいそしんでいる。
むかし、李子の世には、人々は、道に落ちたものを拾わなかったという。その時代と同じように、わが治める民を教化したいと、思っている。また、黄帝の時、国富み穀物も豊かで、犬でさえ、口にした粟を吐き出して、他の犬に与え、少しも争そわなかったという。私の治める国も、これに劣らぬように、富み栄えさせたいと、念じている。
ところが、この頃、天候が不順で、ひでりが続き、雨の降らぬこと、もう数十日におよんでいる。それでは、農民は、絶望である。そこで私は、諸々の神を祀り、また、僧侶をして、仏天に祈らせ、速やかに、慈雨を祈願している。
しかし、私の真心が、神仏に通じないゆえか、今日になるも、雨が降らず、民の憂いを、取り除くことが出来ない。
これは、全く、私の不徳のためで、民には、何の罪もない。
そこで、私みずからをせめ、深く畏れ慎み、ほとんど成すところを知らない。
そこで、今後は、私は、衣服や調度、また、いつもの食事は、適度に減らして欲しい。また、不必要なものは、なるべく節約するようにして欲しい。・・・

この後、左右馬寮の餌は、穀物に限り、当分の間、一切これを禁ずること。
行路病人の救済。
獄舎にいる者で、無実の者がいないかの、再調査。
年貢米の上納免除等々が、指示されている。

この同じ年、肥後の国に、大雨があり、多くの災害が生じた。
その時も、
民が一物でも失うのは、つまるところ、私の不徳のせいである。
と、仰せられた。

この天皇の、大御心は、現在までも、受け継がれている。

敗戦後の、昭和天皇も、しきりに、我が不徳の致すところと、仰せられていた。
今生天皇が、被災地、ご訪問を切に願われることも、その、御心の、現れである。

矢張り、世界のどこを探しても、このような、君主という存在は、見当たらないのである。

勿論、世界の中でも、偉業や、仁徳の優れた人は、現れた。しかし、それは、その一代限りである。

この、天皇の大御心の歴史は、今年、平成24年、2012年は、建国、2672年続いている。つまり、天皇の歴史である。
天皇は、国体であり、国体とは、国民と領土である。

posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月16日

伝統について56

現にも 夢にもわれは 思はざりき 古りたる君に 此処に逢はむとは

うつつにも いめにもわれは おもはざりき ふりたるきみに ここにあはむとは

正気ではない。夢でさえも思わなかった。古い昔の君に、ここで逢おうとは・・・

昔の恋人に出会ったのである。
まさか、こんなところで逢うなんて・・・
非常な驚きである。

黒髪の 白髪までと 結びてし 心ひとつを 今解かめやも

くろかみの しろかみまでと むひびてし こころひとつを いまとかめやも

黒髪が、白髪になるまでと、誓って結んだ一つの心。どうして、今解いてしまうことなどありましょうか。

まあ、この歌の通りであろう。
黒髪の白髪になるまで、一緒にいるという、決心。
女の心である。

心をし 君に奉ると 思へれば よしこのころは 恋ひつつをあらむ

こころをし きみにまつると おもへれば よしのこころは こひつつをあらむ

私の心は、あなたに差し上げている。だから、この頃は、ただ、お慕いするだけです。

一筋の思い。恋心である。
もう、あなたに、捧げた心があるから、今は、ただ、慕うたけでいい、と言うのである。

思ひ出て ねには泣くとも いちしろく 人の知るべく 嘆かすなゆめ

おもひでて ねにはなくとも いちしろく ひとのしるべく なげかすなゆめ

私を思い出して、涙にくれても、人に解るように、嘆かないでください。

ねには泣く、とは、泣くことの強調である。
いちしろく、とは、はっきりと、明確に・・・

何とも、切ない状況である。
人に気づかれないようにと、敬語で歌うのである。


玉鉾の 道行きぶりは 思はぬに 妹を相見て 恋ふる頃かも

たまほこの みちゆきぶりは おもはぬに いもをあいみて こふるころかも

玉鉾の道を行くと、予期せず、妻に出会った。益々、恋しく思うこの頃である。

男が女の元に、通う形の結婚であるから、このような出会いになる。
皆が認めたものも、認めないものも、色々である。

結婚を証明するものは、何一つ無い。
そんな時代の、歌。

中には、複数のおんなの元に、通う男もいただろう。
女は、待つ身なのである。

現代は、益々、女が強くなり、そんな形の恋愛も、少なくなったようだ。
それは、それでいい。

更に、バーチャルな恋愛関係も、多い。
出会い系サイトで、アルバイトしていた、青年が女になりすまして、男とメールのやり取りをすると、聞いたことがある。

引き伸ばして、儲けるのである。
だから、決して逢うことはできない。

それでも、寂しいゆえに、見ぬ女に、メールを送る。
これが、時代である。
どこで、満足するのか・・・
が、問われている。

posted by 天山 at 05:43| 伝統について2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月17日

性について211

わたしは、・・・性のタブーの起源は、人間の性生活がまず不能者としてはじまるという事実にあると思う。
岸田秀 ものぐさ精神分析

そこからの、解釈によると、人間が、はじめて性欲をもったとき、自分の不能に直面し、無力感と劣等感にうちひしがれた、というものである。

これは、苦痛であった。
この苦痛から逃れ、自信と、自尊心を回復するために、性のタブーを設定したというものである。

要するに、性のタブーは、第一次思春期の幼児の自信と自尊心、ひいては人格の統一を守ったのである。当時の性欲の対象者は、当然、近親者(男の子の場合なら、母親)であったから、性のタブーが、まず近親相姦のタブーであるのは当然である。とにかくそれは、外在的なものではなく、人間の内在的必要に根ざしている。
岸田

ちなみに、フロイトは、エディプス期の男の子が、母親に性欲をもち、そのことに関して、敵である、父親に去勢をもって、脅かされ、去勢されるとの不安から、母親への性欲を抑え付けるに至ったのが、個人的起源であると、いう。

もう一人、ライヒの説は、秩序の維持のために、性のタブーを必要としている社会とは、家父長制的、権威主義的社会であり、そういう社会の支配者が、支配の手段として押し付けた性のタブーであり、文化革命、社会革命の第一歩であると、言う。

しかし、それは、性のタブーを無視して、性的放縦に耽ることが、新しい革命的行動だと、勘違いする者たちを、一部に生み出した。

両者、共に、外在的なものである。
そうではなくて、内在的なものだとしたのが、グランベルジュである。
岸田氏も、それに倣う。

だが、仮説である。
それを実なる説であると、解釈し、問題解決に向かう者たち・・・
本当は、誰も知らないことである。

ただし、一応、近親相姦は、タブー視されているのは、事実だ。
だが、タブー視と、実際は、別物。

近親相姦は、無くなりはしないのである。
最も、手っ取り早い性欲解消法である。

性のタブーは不自然で不合理で、有害無益なものだから、そんなものは子どもに植え付けるべきではないと考える親や教育者を見かけることがあるが、以上の考え方からすれば、このような態度は危険きわまりない。それでは、幼児が自分で築きあげようとしている人格防衛の堤防に、まわりの者が穴をあけることになる。
岸田

幼児期の性体験が、のちに、神経症や、性倒錯の病因となる、精神外傷を引き起こすのは、このような、事情による。

はじめから完全な性的自由を与えた方が自然で健康的なのであれば、幼児期の性体験は精神外傷になるはずがないことになろう。
岸田

要するに、性のタブーは、内在的で、個人が必要としたものである、という説である。

そこから考えるに、性の無制限な解放は、不能者と、性倒錯者を、増すことになるのではないかと、岸田氏は、言う。

性交の能力を持つに至る、第二次思春期以後は、性のタブーは、それほど、必要ではなくなる。
そこに、より強い、タブーが存在すれば、別の問題を引き起こすのである。

岸田氏は、そこから、性倒錯についてと、進む。
私も、性倒錯を書き始める。

性倒錯とは、何か。
倒錯と、簡単に言うと、誤りである。
何故、性の誤りが、起こるのか・・・

性倒錯の定義を、岸田氏に、真似て、
同種属の異性との、性器結合以外の方法によって、性的満足を得ると、定義すると、多数の性倒錯が出てくる。

その倒錯は、男性に最も多く、更に、多様な形で、現れる。
この原因も、第一次思春期に不能であったという、事実にあると、考えるのである。

フロイトの言う、性的リビドー・・・

第一次思春期のリビドーは、正常な性交による満足を得る事ができない。ゆえに、必然的に、それ以外の、あらゆる方法で、満足しようとする。
この時期の、リビドーは、性器から分離したリビドーである。

フロイトが言う。
幼児の多形倒錯である。
何でもありの、幼児期の性的満足である。

性倒錯の時期が、花盛りである。

いわば、人間は、まず正常であって、何らかの異常な原因があって、あとから性倒錯になるのではなく、逆に、まず性倒錯者であって、教育やその他の努力の結果、正常者になるのである。
岸田

正常な性行為は、後天的に獲得された、習慣であるということだ。

そして、その正常といわれる、性行為で、大半の人は、性欲を満足させる。
ところが、そうではない人たちが存在する。
それが、性倒錯の人たちである。

先にも書いた定義であれば、それ以外は、皆、性倒錯になる。
マスターベーションも、性倒錯になってしまう。
一人で、満足するという、性行為は、正常ではないから。

性行為の誤り・・・
本当は、そんなものは無いが・・・
書き進めてみる。

posted by 天山 at 04:31| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月18日

性について212

性倒錯は、第一次思春期に、人間が不能であったという事実にあると、考えられると、岸田氏は、言う。

つまり、その時期は、性的リビドーが、正常な性交による満足を得られない。ゆえに、それ以外の、可能な限り、あらゆる方法で満足を得ようとするというもの。

フロイトも、ここから、幼児期の、多形倒錯がはじまると、言う。

いわば、人間は、まず正常であって、何らかの異常な原因があって、あとから性倒錯になるのではなく、逆に、まず性倒錯者であって、教育やその他の努力の結果、正常者になるのである。
岸田秀

学者さんは、こんなことを考えていても、金になるからいい・・・

人間の場合は、動物のように本能に規定されたものではなく、後天的に獲得された習慣が、性行為なのだということだ。

果たして、そうだろうか。
人間も、動物である限り、本能に規定されているはずである。
もし、そうでなければ、それは、大脳化のゆえだろう。
と、以前にも、そのために、多く書き付けたはず。

まず、兎に角、岸田氏の、論を続けてみる。

第二次思春期になると、性器が完全に成熟し、正常な性行為が可能となる。
そして、社会通念上も、それが正常だと、容認する。

社会通念は、大勢であるから、倒錯的傾向に対して、激しい偏見と、更には、闘争にまで発展する。

しかし、心理学的に、多少とも、大半の人が、倒錯傾向を残存させている。
というより、マスターベーションも倒錯であれば、おおよそ、すべての人と、言うことも出来る。

倒錯の強弱は、第二次思春期の性満足に由来する。
その満足の形式に、リビドーが固着する強弱である。

だから、この期間は、外部からの性的刺激は、できるだけ少ない方がいいようである。
特に、はじめて、リビドーが非常に満足させられると、その体験形式が重大な影響を与えるという。

性倒錯の、形式を上げれば、実は、切が無い。
それは、性器から、リビドーが分離しているから、何でもありである。

人間のリビドー、つまり性的欲求は、性器から分離することによって、留まることを知らないエネルギーになるのである。

岸田氏に習い、上げてみると、同性愛、サディズム、マゾヒズム、フェティシズム、窃視症、露出症、放火狂、窃盗狂、獣姦症、屍姦症、更に、幼児性愛、老姦症・・・
切が無い。

そして、それが単独にある場合と、複雑に、それらが絡まるのである。

要するに、あらゆる対象、あらゆる行動形式が性欲の目標または手段となり得る。
岸田

そこで、問題は、性倒錯の形式が、どのようにして決定されるかである。

最初にリビドーが興奮させられたときの体験形式が重要な要因であることはたしかだが、それは、その体験形式が個人の人格構造全体の一環をなしているかぎりにおいてであって、要するに、第一次思春期における個人の人格構造が問題である。
岸田

倒錯は、個人の人格の、一つの表現形式である、となる。

如何に、幼児期が大切な時期であるかが解る。

つまり、性倒錯の形式過程を解明するには、人格の発達過程を知らなければならないということになる。

ここで、その児童心理云々を、書き続ける訳には、ゆかない。

端的に言えば、フロイトが名付けた、口唇期である。
赤ん坊、幼児は、客観的には、無能であるが、主観的には、全能である。

そのうちに、自分の思い通りにならないことに気づく。
無能の自己と、全能の自己が、葛藤する。
そして、一種の抑うつ状態に陥る。

そこで、全能の自己を、母親に投影する。
全能なる、母親を信じ、崇拝する。

そして、母親と、自己を同一視するのである。
そのうちに、母親も、全能ではないことを知る。
その幻滅から、反抗するようになる。

心理学では、第一反抗期と呼ぶ時期である。

その後、自己の対象、現実と空想との区別を明確にする。
全能の自己は、その誇大妄想的な要素を失い、理想の自己となり、無能の自己は、その無能性を脱して、現実の自己となる。

その時期から、フロイトによると、肛門期に入るのである。

余計なことを言えば、ユダヤ人だった、フロイトは、無意識に旧約聖書から、多くのヒントを得ているようである。
全知全能の神を掲げて創作された、民族の宗教である、ユダヤ教から、人間の心理を取り出していたのである。

性というものに、注目したのも、ユダヤ教、旧約聖書からの、ものであろう。
人間の生きる、エネルギーを、性的リビドーと命名したのである。
ユダヤ教の神は、性的エネルギーの象徴として存在するのである。

さて、肛門期である。

とにかく、個人の人格は、個人が直面した状況に内在する矛盾(葛藤)を解決するたにある人格体制をつくりあげ、またその人格体制そのものが矛盾をはらみ、さらにその矛盾を解決するためにまた別の人格体制を築く、という風に弁証法的に発達してゆく。
岸田

ここでも、解るとおりに、心理学とは、他の学問に大きく依るところである。
弁証法は、哲学概念である。


posted by 天山 at 00:32| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月19日

性について213

フェティシズムは、個人が口唇反抗期から肛門期に進むのに失敗した場合に形成されるとわたしは考えている。その失敗の結果、個人は、それ以前の段階、すなわち口唇崇拝期に退行する。
岸田

そして、全能の自己、ナルチシズムを再び、母親に投影する。
だが、その試みは、失敗する。
そうすると、抑うつ状態になり、何とか、ナルチシズムを投影できる、対象を求めるのである。

ついに個人が人間ではなく何らかの事物にナルチシズムを投影したとき、この事物がフェティッシである。つまり、フェティッシは、個人にとって、全能の自己の象徴となる。
岸田

第一次思春期がはじまり、何らかの形で、リビドーが刺激され、ある種の性的満足を得ると、この状態が、後の、性的満足の原型になるわけである。

ただし、性倒錯ではない、フェティシズムも存在する。
それは、その人格発達の過程で、ナルチシズムを事物に投影し、フェティシズム的人格構造をもったときに、リビドーの興奮の体験を持つか、持たないかで、別れ道になる。

ただ、いずれにせよ、抑うつに対する、防衛の役割を持つのである。

ナルチシズムを異性に投影すれば、そこから恋愛関係がめばえてくるのだが、性倒錯者としてのおとなのフェティシストは、・・・子どものような人格構造から脱却できず、その発達段階に停滞し、事物にナルチシズムを投影する傾向をもちつづけ、そういう方法によってしかリビドーの満足を得ることができない者である。
岸田

人格が未熟である、ということだ。
これで、日常生活の様々な場面における対応も、理解することができる、というものである。

岸田氏は、フェティシズム以外の、性倒錯も、同じ理論で、説明できるという。

そこで、その他の、成立原因について・・・
性倒錯を維持させている原因として、異性の対する恐怖があると見る。
成熟した異性と、対等な人格対人格の関係を持つのが、怖いという心理である。

窃視症、露出症・・・
相手と距離を置いて、覗く、あるいは、性器を見せるなど。

幼児にいたずらして、殺したという、事件もあったが、一人前の女には、近寄れない、気の弱い男なのである。

異性に対するこのような自信のなさは人格の未成熟を物語っている。
岸田

同性愛、サディズム、マゾヒズム・・・
圧倒的に、男性に多いのである。

女性の、露出症などは、聞いた事がない。更に、覗きなども、である。

つまり、正常な性行為では、男の方が、より大きな困難を背負うという。だから、異性恐怖も、強くなる。

更に、男の方が、想像力が豊かで、観念的であるともいえる。

岸田氏は、一枚のパンティから、異性の全体像をイメージするような想像力は、女性には、欠けていると、言う。

男のリビドーが、性器から、分離していると、納得するのである。

もう、一度、性器から分離した、リビドーの一つが、性倒錯であるが・・・
別の運命を辿る場合もある。
芸術である。

大脳化した、性意識による、進化が、芸術に与える影響は、大きい。
性的リビドーが、芸術に向かう時、それが、素晴らしい作品を生む可能性が高いのである。

生物学では、個体保存本能と、種族保存本能の、二つを区別している。
性欲は、種族保存本能に由来するといわれる。

この、生物学的仮説は、人間には、当てはまらない。

人間の性が、生殖から、分離していることは、最早、明らかである。

更に、その分離過程は、留まることなく、性欲は、生殖欲とならず、性器も、それから、分離しているということである。

性器から、分離した、性欲が、性倒錯を生み出し、また、様々なものも、生んでいるのである。

そして、フロイトの仮説では、生まれた時から、性欲があることになっている。だから、フロイトは、生きるエネルギーを、性的リビドーと名付けたのである。

人により、第一次思春期から、子どもの性欲がはじまると考える人もいるが・・・

だから、人間の、特に男は、不能からはじまる、性の物語であるとの説である。

ユングは、心的リビドーが、生きるエネルギーであるとした。
それについては、別のエッセイ、霊学で書いているので、省略する。

さて、人間の場合の、性欲をエロスと呼ぶ。
それは、動物の性本能とは、別物であると、考えられる。

だが、そのエロスには、実は、タブーと言うものが無いのである。
しかし、エロスにおける、タブーを作り出した、人間である。

そうすると、話は、また、元に戻り、人間のエロスが、不能のエロスとして、はじまったためであると、なる。

そのエロスが、幼児からはじまるという、残酷な話である。

幼児はおのれの能力のなさのゆえにできないことを、外的禁止があるから、できるのだけれど許されないのだと考える。そう考えることによって、不能であることの劣等感からやっと逃れる。
岸田
そして、そこに、合理化と、防衛機制という、心理的状態が生まれる。
心理学の、得意な、言葉遣いである。

そして、これらの、言葉を鵜呑みにして、合理化、防衛機制を、ふんだんに利用して、解説するのが、また、得意である。


posted by 天山 at 05:23| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月20日

性について214

性倒錯について、岸田秀氏の定義でみてきたが・・・

本来、私は、当然のことと思っている。
問題は、その行為が、反社会的行為になる時である。

幼児性愛・・・
自身で勝手に妄想して、遊んでいる分には、何ら問題はない。
そのための、ダッチ幼女まで、存在するのである。

更に、同性愛が、倒錯とは、言えない。
当然あって、然るべきもの。
異性間の性行為のみを、性行為の定義とすると、非常に狭くなるのである。

兎に角、人間は、多型倒錯の過程を経て、成熟してゆくものだと・・・
その幼児期を、脱却できず、性の成熟が歪むと、心理的というか、脳に倒錯の芽が残ると、考える。

時代は、誰もが、指摘するように、機械親和性困難の状態にある。

それは、自己を閉鎖空間に閉じ込めて、限りなく、内に向けるのである。
その相手をするのは、機械である。

核家族化であり、プライバシー尊重からか、個室で行われることに対して、無防備である。

そこで、極端な、虚妄の世界に入り込む若者がいる。
この世に、存在するものが、モノであり、記号になる。

簡単に葬り去っても、画面には、再生されて、甦る。

逸脱した脳ということになる。
殺す、切断する、焼く、という消去行為・・・
ビデオ映像の中に、遺体を閉じ込めて、更には、再生させて、楽しむ。

それが、行動の延長になると、犯罪が起こる。

このように、虚像に取り囲まれた、閉鎖性の中にあって、生身の人間と接しないと、限りなく、性的に幼児化した、人間になる。

その幼児化した人間が、平気で、反社会的行為を行う。
それが、様々な事件に現れている。

倒錯というより、異常性欲の方が、問題である。

性倒錯者が、逸脱行為すると、決め付けることは、出来ない。
自身で、その満足を得ているならば、問題ないからである。

マスターベーションが、逸脱した行為だとしても、誰にも、迷惑はかけないし、反社会的行為にはならない。
自己完結しているのである。

倒錯の芽は、誰にでもあるが、その強弱が違うこと、そして、それをどのように昇華させているのかが、問題である。

SM好きの、カップルが結婚した。
同じ傾向を持つ者同士である。
他人が、口を挟むことではない。

同性を愛する者が、よい相手を見つけて、一緒に暮らす。
何の問題も無い。

つまり、自己完結と、反社会的行為でなければ、成熟した性感覚を持つと、考える。

これが、幼児性愛で、幼児を拉致し、殺害するなどというのは、犯罪である。
そして、その生まれ育ちを考慮しても、犯罪者として、その罪を受けなければならない。

ちなみに、アメリカの精神医学会が、1980年に、性の逸脱を、大きく四つに分類している。
性同一性の障害
パラフィリア
性心理機能異常
その他の性心理異常

この中で、パラフィリアが、性倒錯に当る。
今まで書いたとおりである。

その他の性心理異常に、同性愛が上げられるが、今では排除されていることだろう。

パラフィリアに関して、驚くべきものがある。
糞便愛好、尿愛好である。

それが、すべて、幼児期、少年少女期における体験により、逸脱してしまうのである。
一々、実例を上げている暇がないので・・・

その中に、サド・マゾ専門の女性もいた。責め道具のおもちゃを見せてもらううちに彼女がポツリという。「スカトロっていうでしょう。私のウンチだけ食べに来る男の人がいるの」・・・無言でいる私に、たたみかけるような彼女の声。「私のうんこ硬くて小さくて味がいいらしいの」事もなげにいってのける。まだあどけなさの残る少女の顔を、私は呆然と見つめるだけだ。
性は生なり 大島清

その客層を聞いて、更に、驚く。
10,20代の若者なのである。
その若者たちも、幼児期から、何らかの、性的虐待を受けていた可能性がある。

現代の形相は、成熟した女性とのコミュニケーションが出来ない、更に、草食系などと言われて、セックスに興味を示さない。

そして、それらが相手にするのは、幼児や児童だとしたら・・・

トラウマを持つ者が、更に、トラウマを持つ者を作り出すという、連鎖的状況である。

人間の心の、原風景は、9歳までに、決まる。
それまでの、体験が、人生を大きく左右するのである。

今、社会に、教育に、何が求められているのだろうか・・・
子どもを守るには、どうすれば、いいのか・・・
更に、未成熟な性意識を持つ者たちを、どのように指導することが理想なのか・・・
育て直し体験か・・・

posted by 天山 at 07:49| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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