2012年07月18日

天皇陛下について121

さて、大仏建立である。

聖武天皇は、国のため、国民のためが第一義であるとし、これは、信仰を持つ者の力を借りて行うと、この大事業に従うものは、まずと仏を信ずる者に限るとした。

費用は、万民の寄付によるものだが、無理に納めさせてはならないと、国司、郡司に命じた。

天皇の、御趣意を奉じて、全国を行脚したのが、行基である。
その、いわれと、功徳を説いて、応分の寄付を募ったのである。

そうして、費用が集まった。
国を挙げての、大仏建立である。

兎に角、大変なことであった。
完成するに、十年を要したのである。
今もなお、世界一である。

当時の、日本の技術がいかに、高度なものであったかが解る。

この、大仏建立には、天皇ご自身のみならず、皇后の力も大きかった。

その皇后は、大化の改新で、功績のあった、藤原鎌足の子、不比等の娘だった。
古来から、皇后は、皇族以外からは、立てなかったが、この御代に、はじめて藤原氏から出たものが、皇后になられたのである。

その名は、光明皇后である。

皇后は、深く仏教を信仰して、その影響により、施薬院、悲田院を置き、今日でいうところの、社会、福祉事業を行ったのである。

皇后は、自ら、親しく、千人の病人の体を洗われたという。
皆々、大変恐縮したが、皇后は、意に介さなかった。

そのために、伝説まで、生まれた。
その話は、省略する。

大仏の正式名称は、ルシャナ仏である。太陽、光明を象徴する。
東大寺の、正式名称は、金光明四天護国寺、である。

護国とは、国を守るという意味である。

すでに、渡来した仏教が、日本の伝統となったといえる出来事である。

そして、もう一つ、東大寺建立で、我が国が大きな恩恵を受けたのは、正倉院、しょうそういん、である。

正倉とは、主な倉庫であり、院とは、塀をめぐらせて、外界と分かつこと。
他の寺にも、正倉はあったが、今日残るのは、東大寺のもののみである。

今なお、御物、つまり、天皇がお使いになられたものとして、一万点が納められている。

千二百年前の宝物が、これほど多数であり、しかも、優れた工芸美術品が、完全に保存されているのである。

聖武天皇が、お隠れになった後で、光明皇后が、そのご冥福を祈られるため、そのご遺品を、大仏に納められたのが、はじまりである。

先にも書いたが、第四十三代元明天皇が、平城に遷都された。
平城京という。
それが、現在の奈良である。

奈良、飛鳥時代といわれる。

奈良時代になって、仏教の完全国教化が計られたといえる。
南都仏教といわれる。

その当時の、仏教を見る。

名僧として、大仏建立に大功績のあった、行基である。
そして、唐から渡来した、鑑真が、律宗を開く。

更に、唐に19年留学していた、行基と同じ、法相宗の、玄肪である。
法相宗は、あの三蔵法師玄奘が、開祖である。

更に、華厳宗を開いた、良弁、ろうべん、である。

他に、三輪宗、さんろんしゅう、成実宗、じゅうじつしゅう、倶舎宗、ぐしゃしゅう、がある。

南都六宗である。
そして、平安時代に、それが、八宗になる。

最澄の天台宗と、空海の真言宗が加わる。

奈良の都は、仏教開花の面目である。

日本が仏教国といわれる、所以である。
天皇が帰依した、仏教・・・
その思想が、更に、日本的に変容してゆくのである。

だが、矢張り、堕落が起こる。
奈良仏教界も、政治に関わって行くにつれ、次第に、信仰とは別に、権力争いが起こる。

僧侶の権威志向である。
人間のやることである。

中でも、恐るべき僧侶が現れた。
それは、天皇の御位を、狙おうとする者である。

こうなると、その信仰までも、疑いたくなるのである。

宗教が政治と関わりと、時代は、いつも混乱する。

戦国時代も、門徒と呼ばれる、浄土真宗の信徒たちが、兵力を持ち、大名たちに、向かうのである。
織田信長は、この門徒の一派たちと、壮絶な戦いを行う。
それは、家康もそうであった。

何故、信仰団体が、政治に関わるのか。
それは、支配欲であり、最早、宗教とは、言えないのである。

政治を凌駕しようとする、信仰者の支配力とは、何か。
これ以上は、このエッセイの本質ではないから、止める。




posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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