2012年07月16日

天皇陛下について119

天智天皇四年、665年。
更に、北九州に、大野城と、キ城。長門、山口。

そして、六年には、対馬の金田、讃岐の島屋、大和の高安城を築かせる。

都を大津に移した。
いずれも、国防上の理由である。

しかし、
この時に、天下の百姓、おおむたから、都を遷すことを願わず。そえあざむく者多し、と、日本書紀にある。

庶民には、日本の、マツリゴトシロシメス、大政の重大なことを、理解できなかったのである。

当時の、歌人たちも、近江を嫌う歌、大津へ行きたくない歌を詠んでいる。

防人は、三年交代である。
その彼らの歌が、万葉集に載る。

大君の 命かしこみ 磯に触り 海原渡る 父母を置きて

唐衣 裾のとりつき なく子らを おきてぞ来ぬや 母なしにして
母の無い子が、どうして過ごしてゆくだろう・・・

天皇は、軍事、民事に携わり、庶民の苦労を身を持って感じていた。

ゆえに、筑紫で軍事を見られていた際も、その住まいは、屋根の茅は切り揃えず、柱も荒木のままだった。
これを見た人々は、天皇を、木丸殿、御殿を黒木御所と呼んだ。

天智天皇御製
朝倉や 木丸殿に 我居れば 名のりをしつつ ゆくは誰が子ぞ

天智天皇の即位は、天智天皇七年である。

天智天皇時代は、文化の発達も、いちじるしいものがあった。
水時計を造られたのも、皇太子時代である。
それが、時鐘を打つようになったのは、天智10年、4月25日である。
太陽暦にすると、6月10日である。今は、時の記念日として残っている。

天智天皇崩御は、46歳。
その二年前に、藤原姓を賜った、鎌足が亡くなっている。

鎌足の最後の言葉は、
私が死にましたら、葬儀を簡単に・・・
である。

現在、その霊位を、祀る談山神社がある。

天智天皇崩御の後、政務をとられたのが、大友皇子である。

だが、皇位継承者に指名されていた、天智天皇の弟の、大海人皇子、おおあまのおうじ、との間に、争いが起こった。
壬申の乱である。

紀元1332年、西暦672年のことである。

この事件は、我が国の悲痛な事件である。
大友皇子は、25歳で、お亡くなりになった。

何故、このようなことが、起こったのか・・・

少しばかり、説明する。
それは、大化の改新の精神である。

その精神が、遂行されない状態に陥ったのは、朝鮮との関わりで、大敗し、多くの人命と、物量を失った。

国力の疲弊、そして、唐軍の来襲に備える警備のため・・・
何よりも、大小の豪族たちの、動揺を抑え、しっかりとした政治を行わなければならない。

しかし、その結果、天智天皇は、冠位制の改定と、氏上、民部、家部を定める政策をとった。
大小の氏族を政府の統制化に置く主旨であったが、それは、氏上の地位の差別の制度であり、大化の改新の精神と、逆行してしまうのである。

大化の改新で、廃止したはずの、私有地の保有を、各氏族に認めることになり、これは、極めて危険なことだった。

大化の改新は、氏族制度を廃して、その支配から、土地人民を解放し、公地公民とすることであった。

天智天皇は、涙を飲んで、止むを得ない、改新の後退を行ったのである。
しかし、弟の大海人皇子には、それが、また蘇我氏のような者を作り出してしまうことだと、憂えたのである。

兄の、大友皇子との戦いは、それも止むを得ないこくとになったのだ。
このままにしておくと、大化の改新の精神が、無になってしまう。

であるから、壬申の乱を平定して、皇位に就かれると、即座に、冠位や、姓制度を廃止して、氏上も、民部も、家部も、撤廃したのである。

大化の改新は、飛鳥維新といっても、いい。

天智と、天武の不和ではなく、更に、皇位継承を巡る対立でもなかった。

革新政策の成し遂げを続けるか、止めるかの、どちらかである。
だが、やめる訳にはいかない。

大友皇子の、死は、悲劇である。
しかし、天智天皇の、妥協したままの政治では、また、豪族、氏族たちの、覇権争いに発展する。
それを、避けて、安定させるためには、どうしても、天武天皇の、断行が必要だった。

歴史は、いつも、激動である。

壬申の乱の翌年、大海人皇子が、即位された。
第四十代、天武天皇である。
皇居は、再び、大和に、移された。




posted by 天山 at 05:43| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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