2012年07月15日

天皇陛下について118

孝徳天皇は、在位10年で、お隠れになる。
崩御である。

次ぎは、前天皇であった、皇極天皇が、即位された。
第三十七代、斉明天皇である。655年より、661年。

天皇が一旦、位を譲られて、更に、天皇に即位するのを、重そ、ちょうそ、といわれる。

中大兄皇子は、皇太子として、政治を執られた。

この時、蝦夷、エゾ地のことであるが、現在の、秋田、能代、津軽地方に叛乱があり、それを平定するために、討伐軍を向ける。
更に、大船団をもって、北海道、樺太方面にも渡るという、大規模な討伐軍が、出来た。

総帥は、阿部比羅夫である。

討伐軍が、北に向かっている間に、百済から、使者が訪れる。
斉明六年、660年、九月である。

当時は、我が国の朝鮮における勢力は、衰退していた。
だが、百済、高麗、新羅も、貢物を持参していた。

しかし、三韓の間では、絶えず、攻防が繰り返されていたのである。

特に、新羅の百済に対するものは、激しかった。
新羅は、唐と結び、百済を滅ぼそうとしていたのである。

助けていただきたい、との、願いに、朝廷は、正しきを助け、無法、非道を討つのが、昔からの、方針であると、その年の暮れ、天皇は援軍を送られた。

更に、翌年の春には、すでに68歳になられた天皇も皇太子を従えて、九州に下られ、筑前、福岡の、朝倉宮に、大本営をおかれた。

だが、天皇は、七月、崩御されるのである。

皇太子である、中大兄皇子は、麻の着物を着て、喪に服した。
ただちに、天皇に即位しなかったのである。

この、中大兄皇子は、長年、皇太子であり、中々天皇の位に、即位しなかった。
何故か。
それほど、天皇という存在に対して、慎重だったのだ。

流動的な状況にあり、象徴的な天皇の位に就くには、躊躇われたのである。
それほど、天皇の位は、重いものである。

百済援軍の戦いは、続いていた。
安曇比羅夫たちを遣わして、百済を救援したと、大日本年表にある。

更に、天智元年、662年、大量の支援物資を、百済へ送っている。

更に、翌年、今度は、唐と新羅が組んで、高麗を攻めた。
高麗も、日本に救いを求めてきたのである。

朝廷は、これにも、援軍を送った。

その年の、五月、百済王子の、豊を、本国に送り、王位を継がせた。
護衛の指揮は、安曇比羅夫が執った。

つまり、百済の王子は、日本に在住していたのである。

天智二年、三月、日本は、上毛野稚子、かみつけのわくこ、を大将として、二万七千余が、新羅を攻めた。

二城を得たが、この頃、百済王主従の間に、不信があり、王は、臣の福信を殺したのである。

この動揺している様に、新羅が攻めた。

一方、唐の水軍は、白村江、はくすきのえ、に陣を設け、日本の水軍の突進を好機として、これを包み込み、戦った。
日本軍は、敗れた。
そして、百済王も、高麗に亡命し、百済が亡んだのである。

日本も、引き揚げるしかない。

だが、この時、唐や、新羅に属することを拒否した人民が多数出た。
その人たちは、すべて日本を頼ったのである。

推古天皇時代も、多くの人たちが、大陸、半島から来たが、その時と同じく、皆々、日本を求めてきたのである。

天智二年九月、百済国の人、日本の水軍と共に、日本に向かう。
天智四年二月、百済の男女四百余人近江国神前郡に置く。
天智五年冬、百済の男女二千余人を東国に居らしむ。
天智八年、百済の男女七百余人を、近江国蒲生郡に置く。

当時、日本がいかに、憧れと希望の国だったかが、解るというものだ。
国が安定している。

移住してきた者を、大切にするのも、昔のままである。
彼らを、温かく迎えているのである。
住まいの地を与え、更には、能力のある者は、引き上げられたのである。

迎え入れた現地の人との、対立もなかった。
渡来した彼らは、日本の伝統に従い、自分たちの神社まで造り、大和人たろうとした。そして、天皇に対する、崇敬の思いである。

さて、この時、唐も、新羅も、日本に攻めてくることは無かった。
日本の倫理と、戦いの強さを見たからである。

だが、日本は、天智天皇は、防人を置くことを考えた。
国の守りのためである。

防人とは、一時的に、軍人として、大陸からの、防衛のためである。

天智天皇三年、6664年。
対馬島、壱岐島、筑紫国等に、防人と、すすみとを置く。又、大堤を築きて、水を貯へしむ。名づけて水域といふ。
日本書紀
すすみ、とは、山の頂に火を上げて、急を知らせる、のろし、である。




posted by 天山 at 05:50| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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