2012年07月13日

霊学69

類推の想像的発見、すなわちいろいろなアイディアやイメージ間の類推を求め、それに心をとめることは、思考そのものの基本的な特徴であろう。それは、心の中に新奇さの感覚が生まれるまで、ある考えのまわりを「踊り」めぐり、問題点の近くをぶらつき、それをいろいろと飾りつけ変形させるわざとして述べられてきている。
コーエン

それは、私が言う、宗教的妄想についても、コーエンは学者であるから、宗教的要素によるものを、リアルなものという。
想像というものも、リアルな現実感覚として、捉えるというのである。

それでは、霊学における感覚、思考も、彼は、リアルなものとして、受けいれることであろう。

学者は、冷静である。

科学的発明は、それ自身いろいろな新しい類推を類同化することにかかるであろう。そして言葉がこれに入ってくる限りでは、それは一種の言語の「博物館」であり、そこにわれわれは「死しても忘れられた詩人たちの、とほうもない空想と類推の遺物」を見るものである。
コーエン

実に、冷静である。
そして、
物理学においては、類推の仕事は見慣れぬものを見慣れたものとすることである。心理学では、事情は反対になろう。心理学のデータは、しばしばあまりにも見慣れたものだからである。
コーエン

そして、話は、知性的と、想像的という、古い昔からの、対立命題を、二つのタイプの表象を「明証性」に関して区分けしながら、明らかにするのである。

通常の心理学教科書には、書かれないことである。

心理学を数学のように扱う人たちによって、心理学というものが、成り立つのを見る思いがする。

勿論、数学さえ、答えのではないものもあるのだが・・・
心理学は、答えの出るものとの、意識を、粉砕するのである。

既存の心理学用語で、滔々と、分析に明け暮れる、アホな心理学者が言う。

更には、それで、賢いと思い続けている。
いや、賢いと、思い込むのである。

こういう者たちを、賢い馬鹿という。

この対立的な命題は、明証性の役割に関するかぎり、動物と人間の類似性に照らしてみればいっそう明らかとなるであろう。
コーエン

動物の場合は、同一の行動パターンが、欲求が弱いときに加えられた、強い刺激の結果として起こる。また、欲求が強いときに、弱い刺激によっても起こるようになる。

最後は、反応が、真空でも、生ずるようになる。
空転反応である。

欲求の刺激と、この関係は、置き換えの法則と評していい。

この法則は、欲求が次第に強くなってゆくにしたがい、次々と、第三、第四の刺激を受け入れやすくなることを意味するのである。

刺激の類似性の大小。
刺激の生物学的に訴える力の大小。
このことは、人間についても、当っている。

さて肝心なところにきた。生き延びるために外部世界の現実に合わせなければならない経験と、生死の問題にかかわりなく変わることのできるその他の経験とがあると考えてみる。第一のカテゴリーは、「知性的」な活動には適しているが、「想像的」な活動には不適なものと考えることができる。そして経験の第二のカテゴリーについてはこの逆である。つまり「真空反応」は、もしそれが、欲望とその充足との間におかれる遅滞に対して内的な統制を必要とする場面では、それは高度な想像的なものとなろう。
コーエン

高度に想像的なもの・・・

既存の心理学では、不可能な表現である。

コーエンは、それを解りやすく、レオナルドや、レンブラントの名作を使い説明している。
画中の最も人の心を動かす人物の目を蔭にしておき、見る人に、創造の行為に参加することを、強いることで、成し遂げられたとのこと。

この現象は、エロティックな行動の領域でよく知られるものである。
コーエン

例えば、裸の大地、ぬき出しの刃、赤裸々の真実・・・

裸のものは、性に飢えた大衆の要求を掻き立てることに、結びつく。

行為は、それを引き起こす明証性の正しい値で起こるならば、知性的であるといってよかろう。
コーエン

人間の行動が、何によって、引き起こされているのかということを、コーエンは、証明しているのである。

経験の多様な様式は、その内容とともに経過でも異なる。これらを研究するためには、内観的分析以上のものが必要である。このような意見は、多重フィルター・モデルでもって、経験と意識を分けることにより正しく理由づけられるものであろう。
コーエン

経験と、意識を、分ける・・・

既存の心理学は、内観的な、実に主観的な報告を鵜呑みにして、成り立っている。
経験と、意識を分けるとは、経験を、込み入った継起といくつかの、多様なフィルターを通して、意識へ、水路づけられたものと考えられる、ということになる。

そのものが、あるのに、見ていない・・・
その意識の、問題である。

私は、だから、心にあるものしか、見えないという。
何故、見えないのか、心に無いからである。

脳に無いのではない。
心に無いものである。

心理学では、心に無いものを、見ることが、できるだろうか。
そして、何故それが、見えないのか・・・

そして、無意識の世界への、入り口となる。
だが、コーエンの、心理学の一つの見方を続ける。
その後、無意識の世界へ行く。




posted by 天山 at 06:06| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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