2012年07月12日

霊学68

心理学者たちが知能のテストに専心してきたここ半世紀の間、彼らは大部分、まちがった樹に吠え掛かるような全く見当違いをしてきたが、このように見当違いをする腕前というものは、明らかにその哲学上の先祖から受け継がれたものである。
コーエン

哲学者たちの過ちのほとんどは、人間をあまりに詳細な限られた見地から考察することに出ている。人間は単に道徳的なそして知的なだけの存在ではなく、また、ひときわ抜きん出て想像力豊かな存在である。
シェリ

この哲学者たちは、心理学者と、同じである。
詳細な限られた見地から・・・

狭めて、狭めて・・・
そして、心理学という・・・

更に、学問とは、創造性の豊かなものである。

心、あるいは大脳について包括的な見方をするには、理論的なまた科学的な知力の及ぶ範囲を越えていると思われるさまざまな活動を無視できない。
コーエン

更に、包括的な見方は、感覚にとって、確実だと思われること、自然科学の描く不完全な世界像だけに限定されるものではない。

包括的な見地は、心的な働きの全範囲を含まなければならないのである。

つまり、証明しうる知識を打ち立てるのに、妥当だと、考えられているものだけに、限ってはならないのである。

証明され得ないものが、多数あるのである。
詩的、音楽的、宗教的、神秘的現実・・・

それは、主観的に、そのあり方において、現実的なものである。

更に、である。
それらに、従って、また、それらに、支配されて、生活しているのである。

ここに、神秘的現実というのがあることに、注意して欲しい。

要するに、心霊的、霊的なことも、含まれてある。
それも、現実体験なのである。

だが、
経験のこのような象徴的様式については、神経学はそれ自体としては何も教えることができない。精神神経学的還元主義の熱烈な唱導者であるラシュリですら、彼が「心理学は、こんにち、神経生理学よりももっと基礎的な科学である」と明言したとき、このことを認めたのであった。彼はさらに続ける。なぜなら、行動における神経作用の諸法則は実証しうる心理学的事実に合致しなければならぬのに反して、神経生理学は、行動の常態的な体制化を予測するための原理をほとんど提供していないからである。
コーエン

心理学が科学であることの規準として、他の科学への翻訳可能性に対する要求を正当化することは国難である。
コーエン

つまり、理論家が心理学的「モデル」をとるか、それとも神経学的「モデル」をとるか、また彼がそのいずれに対して知的にいっそう満足を覚えるかは、けっきょく好みの問題であうろ。
コーエン

科学的知性は、実際、はっきりと規定された、認知過程ではない。
それは、働くべきときには、不可欠の、ことばにならない、そして、多分それと確かめ得ない要素の、半影を有しているのである。

これは、挑戦である。

ことばにならない・・・
半影・・・

それを、無理にこじつけると、どういうことになるのか。
だから、臨床では、時間をかけるのである。
結論を急がないのである。

ことばにならない、こととは、いずれ、ことばを超えたところのもので、表現される、可能性がある。

科学における思考は、初めから終わりまでたどることのできる一連の段階を追った働きではないし、また論理的によってあらかじめ定められた道を守るものではけっしてない。
コーエン

心理学の、教科書により、学ぶということは、実に、不案内なのである。
その前にすることがある。
それは、心理学への批判である。

まず、疑ってかかるべきものなのである。

いくら、心理学用語を詰め込んだとしても、全く意味がないのである。

更に、それを駆使して、何事かを、説明するという試みは、単なる、自画自賛と変わらない。

コーエンによる、心理学の一つの見方でさえ、こうである。
心理学への、道は、数限りなくあると、思えば良い。

精神医学からの、治療アプローチから、心理学への、扉を開く場合もある。
心理学者は、精神科医ではない。
だが、精神科医は、その臨床から、心理学へ進むことができる。

それでは、霊学から、心理学への、アプローチの可能である。

極めて、神秘学的に似た感覚である。
霊学という、現実感覚を持って、心理学への道とすることも、可能であるということを、言いたいのである。

勿論、哲学からの、アプローチも、当然ある。
多くの哲学者の論文が、それに対処している。
更に、宗教学からも・・・



posted by 天山 at 00:56| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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