2012年07月11日

霊学67

精神物理学から多くの証拠が・・・

そこで、コーエンは、このような話を書いている。

大多数の人びとにとって、証言の総和的な重みは、証言のつりあい以上のものを含んでいるようにみえる。
たとえばたいていの人は、典型的な場面で、被告に有罪な証人が10人と不利な証人10人である場合、それが5対5である場合よりもいっそう有罪に傾いて考えるように思われる。
同じように、5対5は2対2よりもいっそう有罪のように考えられる。
さらに重要なことは、多数の人びとは有罪5対無罪3をそれが2対1である場合よりも、無罪の割合が大きいにもかかわらず、いっそう罪あるもののように考えるという事実である。
こうして、第一の問いの領域においてさえ、われわれは心理学的に特殊な原理によって左右される。
コーエン

第一の問いとは、外部をどのように、自己の世界に取り込むかという問題である。

われわれの二つの問いは、関連し重なり合っているとはいえ、なお本質的に異なる経験の領域を区画するものと思われる。
それらの領域の明確な特徴を確認するならば、第一の問いは、心についての写実的なコンスタブル風の風景に対してだけは充分なガイドとなるが、第二の問いの幻想的な
ヒエロニスム・ボス風の地帯や、無意識の世界にまで入るプルースト的な地域では、ほとんど役にたたないことがわかるであろう。
コーエン

上記、読みやすく、段落を分けている。

第二の問いとは、自己の世界を外部に、伝える時の事だ。

物事を正面的な価値で捉える時、第一の問いにかかわり、それらを、象徴的に受け止める場合は、第二の問いに関わっている。

論理的、科学的な性質の心的活動には、本来的に、事物、あるいは、言葉の正面的な価値に、字義通りの、事実通りの意味に向けられている。

しかし、字義通りではなく、象徴的な意味で受け取ることも出来るのである。

人は、観察者としての彼とは独立に存在する客観的な世界に、事実に即したやり方で尋ね入ることができるだけなのではない。彼は完全に、ましてや本来的に、事物をその正面的価値で受け取るのではない。彼はそれらを、等しく象徴的にも受け取るのである。
コーエン

言葉遊びの、テクニックである。
客観的にも、象徴的にも、受け取る。

心的活動は、複雑なのである。
そして、ある種の行為を、同時に行っている。

それが、同時に、行えなくなるのを、老化という。
また、バランスを欠いた者。
薬物中毒、アル中・・・などなど・・・

とてもじゃないが、人間の心的活動は、凄いものである。

仏陀は、いつも、足元が揺れていると、言った。
それである。

こういう活動を省略して、いや、悟ってか・・・
禅では、山は山、川は川、という。
勿論、言葉遊びである。

そして、それは、道元に言わせると、竿の先から飛べ、であるから、手がつけられない。

人の非写実的な努力の成果は、神話と詩、劇と音楽に見出される。・・・
すなわちかつてコントがわれわれにそう思い込ませようとしたような、神学から形而上学を通り科学へと至る心の発展の低い段階を表すものではない。
それらは、論理的・科学的様式とは異なった象徴的表現を許すものであり、そして見る者の考え方もその知覚の仕方をも色どる一つの変容に起因するものであり、このようにして観察者を、外側の見かけや直訳的な字義通りの意味を超えたところに導くのである。
そこで事物とことばは一つの意味を帯びるが、その意味は、それが観察者と物的に独立して存在する何かを指していないからといって、現実性に乏しいというようなものではない。
コーエン

というように、心的活動は、複雑奇怪なのである。

頭のいい、コーエンさんは、よく頑張りました。

事物と言葉と一つの意味を帯びる、だが、その意味が観察者と物的に独立して存在する、何かを指していないから、現実性に乏しいとは、限らない・・・
統合失調症、分裂病患者の妄想も然り。

妄想で、多数の虫が見える・・・
それが、現実性に乏しいとは、限らないのである。

勿論、コーエンは、通常の精神の人の心的活動を言うのであるが・・・

比喩的なあるいは象徴的な「知識」は、プラトン的な存在を楽しんでいるある霊妙な実在性や、またテーブルや電子が存在するという意味で存在しているある詩的、神秘的な実在については何も教えてくれない。
そうした知識が示している「実在」というものは、それがわれわれに対してもっている個人的な意義によって、充分に認められるものである。
コーエン

小説家と美術家は、もっと野心的な要求を主張する。彼らが作り上げる創造物は、彼らにとってほかの人びとにとってもいっそう現実性をもつものである。
コーエン

作り上げたものが、現実性を持つというのである。

ディズニーランドは、まさしく、現実性があり、映画にある、魔法使いの学校も、現実性がある。

ピカソは宣言した。実在性は事物そのもの以上のものである。わたしはいつも、事物の超実在性を捜している。実在性は事物を見る見方のなかにある。緑のオウムは緑のサラダでもあり、そしてまた、緑のオウムである。それをただオウムにしてしまう人は、その実在性を減じているのだ。
樹を写している画家は真実の樹に盲になっている。わたしは事物を、そうではなく別の仕方で見る。・・・
マティスの仕事場で絵をじっと見ていた婦人が、たしかにこの女性の腕はあまり長すぎますとマティスに言ったとき、この画家は答えた。マダム、あなたは思い違いをしていらっしゃる。これは女性ではありません。絵なのです。

そこで、
経験と現実のこのような多様さは、いろいろな事実を頭に詰め込むことによる知識の蓄積とは何の関係もない。
コーエン
と、なる。

これは、既存の心理学への、極めて激しい批判であり、批難である。

無意識における、シンボルという役割・・・
非現実的、象徴主義の、お説なのである。

象徴主義にある、心理学というものが、いかに、出鱈目なものであるか・・・
現実の実在性を無視して、一人勝手に、論じているのである。

それは、糞の役にも立たない。




posted by 天山 at 06:34| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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