2012年07月10日

霊学66

心的生活は、一つは外側からわれわれに流れ込んでくる情報を選り分けて貯える過程と、他は市場で拡げてみせるために奇想をこらした内的な織物を織る過程との、二種の区別から成っているのではない。このような区分は、いくつかの理由からして、任意的で人為的なものである。
コーエン

言葉に帰結するな・・・
と、更に、コーエンは、続ける。

第一に、われわれは、外部で進行している事がらを受動的にわれわれのうちに描くのではない。
たとえば、わたくしが月明かりの空をみつめているとき、月やたくさんの星のそのままの写しがわたくしの心に印銘されたりはしない。確かにわたくしの指の痛みは、わたくしの指を刺しているピンを描き出しはしなし、また事物は、それが実際には違っていても、その大きさや形や色には変わりないようにみえる。

第二に、外部世界についてのわれわれのもろもろの知覚は「相互依存的」であって、知覚を呼び起こす物的刺激が互いに独立しているとは異なる。

第三に、われわれの心の状態そのものが、外部からの信号の受容の仕方を決めている。われわれは、何によらず事物や人びとがこうであると自分で信じているところのものに反応し、ほんとうにそうであるところのものに反応しているのではない。
われわれは、そこにあることを期待し、希望し、恐れ、信じ、あるいは知っているものを見る。・・・
コーエン

事物や、人々を、自己の愛情と憎しみ、確信と先入観を画くカンバスのように扱うのである。
そして、それは、知覚の、もっとも単純な作用にも、解釈が入り込んでいるからだ、という。

それぞれが何かはっきりしない秘密のやり方でもって、スエーデンボルグのような神秘主義哲学者や、因子分析学者や、あるいは学習理論家でさえも、彼らのもっている信じられないような幻想で、自己の世界を解釈しようとする企てを構成していることは否定できない。
コーエン
信じられないような幻想・・・
理解に苦しむ、幻想である。

スエーデンボルグとは、あの、霊界探索の書を著した。

意識の物理的次元・・・
それでは、理解され得ない、経験の要素多々あるのである。

更に、物理的次元で理解できる経験の形式でさえも、内部的な規則によって、支配されることがある。
精神物理学から、多くの証拠が、このことを支持するために、上げられている。

だが、話を進める。

知覚するにも、解釈が入り込み、更に、心の状態は、それ自体で、究極的に、外側の場面と結びついている。
内部的な、織物は、外部のでき事によって、供給された素材と、パターンから織りなされている。

そして、それは、それぞれに、秘密のやり方で、自己の世界を解釈しようとするのである。

勝手な解釈、勝手な思い込みである。

宗教における、信仰心というものを、見ると、まさに、それにより、自己の世界を解釈して、憚ることなく、行われる。

それが、強ければ、強いほど、信じられない、幻想の中に、入り込むのである。
決してそれは、神聖なものではない。
魔力である。

我が心の内に、魔物を住みつけてしまうのである。
あらゆる、事象が、その信仰心に結びつく。

宗教心理学というものがあるが・・・
いずれ、紹介するが・・・

霊的次元に接触すると、思うのか、否か・・・

とても、面白いのに、死んでも、魂は、残る、更には、転生するというもの。
霊学では、転生を考えるが、生まれ変りではない。

誰それの、生まれ変りである、というのは、ウソである。
転生するのは、意識の一部なのであり、更に、多くの意識の一部が混合して、行われる。

霊学に至る道に行くために、心理学を通っているが、まだまだ、通らなければならないものが多数ある。

私の霊学とは、過去の神道系の言うところの、霊学ではない。
あちらは、儒教、道教に対抗するための、理論であり、更には、道教に取り入れられた理論である。

何かに、対するものという、意識は、その何かに、飲み込まれる可能性もある。
そして、飲み込まれたのである。

つまり、壮大な幻想と、妄想である。

私が言う、霊学とは、古道のことである。
古道とは、古き道である。
日本の、古き道とは、何か・・・

それを、こうして、時代に、時代性に合わせて、突き詰めている。

古神道という言葉も、手垢にまみれた。
宗教として、成るということ事態が、誤りである。

古道とは、霊学である。
そして、私は、学者ではない。
単に、霊学と、名乗っている。

学者とは、以後、私の霊学を、研究し、幻想と、妄想逞しく、尾ひれはひれを付けて、解釈する者たちである。
度し難い者たちという。



posted by 天山 at 06:19| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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