2012年07月11日

霊学67

精神物理学から多くの証拠が・・・

そこで、コーエンは、このような話を書いている。

大多数の人びとにとって、証言の総和的な重みは、証言のつりあい以上のものを含んでいるようにみえる。
たとえばたいていの人は、典型的な場面で、被告に有罪な証人が10人と不利な証人10人である場合、それが5対5である場合よりもいっそう有罪に傾いて考えるように思われる。
同じように、5対5は2対2よりもいっそう有罪のように考えられる。
さらに重要なことは、多数の人びとは有罪5対無罪3をそれが2対1である場合よりも、無罪の割合が大きいにもかかわらず、いっそう罪あるもののように考えるという事実である。
こうして、第一の問いの領域においてさえ、われわれは心理学的に特殊な原理によって左右される。
コーエン

第一の問いとは、外部をどのように、自己の世界に取り込むかという問題である。

われわれの二つの問いは、関連し重なり合っているとはいえ、なお本質的に異なる経験の領域を区画するものと思われる。
それらの領域の明確な特徴を確認するならば、第一の問いは、心についての写実的なコンスタブル風の風景に対してだけは充分なガイドとなるが、第二の問いの幻想的な
ヒエロニスム・ボス風の地帯や、無意識の世界にまで入るプルースト的な地域では、ほとんど役にたたないことがわかるであろう。
コーエン

上記、読みやすく、段落を分けている。

第二の問いとは、自己の世界を外部に、伝える時の事だ。

物事を正面的な価値で捉える時、第一の問いにかかわり、それらを、象徴的に受け止める場合は、第二の問いに関わっている。

論理的、科学的な性質の心的活動には、本来的に、事物、あるいは、言葉の正面的な価値に、字義通りの、事実通りの意味に向けられている。

しかし、字義通りではなく、象徴的な意味で受け取ることも出来るのである。

人は、観察者としての彼とは独立に存在する客観的な世界に、事実に即したやり方で尋ね入ることができるだけなのではない。彼は完全に、ましてや本来的に、事物をその正面的価値で受け取るのではない。彼はそれらを、等しく象徴的にも受け取るのである。
コーエン

言葉遊びの、テクニックである。
客観的にも、象徴的にも、受け取る。

心的活動は、複雑なのである。
そして、ある種の行為を、同時に行っている。

それが、同時に、行えなくなるのを、老化という。
また、バランスを欠いた者。
薬物中毒、アル中・・・などなど・・・

とてもじゃないが、人間の心的活動は、凄いものである。

仏陀は、いつも、足元が揺れていると、言った。
それである。

こういう活動を省略して、いや、悟ってか・・・
禅では、山は山、川は川、という。
勿論、言葉遊びである。

そして、それは、道元に言わせると、竿の先から飛べ、であるから、手がつけられない。

人の非写実的な努力の成果は、神話と詩、劇と音楽に見出される。・・・
すなわちかつてコントがわれわれにそう思い込ませようとしたような、神学から形而上学を通り科学へと至る心の発展の低い段階を表すものではない。
それらは、論理的・科学的様式とは異なった象徴的表現を許すものであり、そして見る者の考え方もその知覚の仕方をも色どる一つの変容に起因するものであり、このようにして観察者を、外側の見かけや直訳的な字義通りの意味を超えたところに導くのである。
そこで事物とことばは一つの意味を帯びるが、その意味は、それが観察者と物的に独立して存在する何かを指していないからといって、現実性に乏しいというようなものではない。
コーエン

というように、心的活動は、複雑奇怪なのである。

頭のいい、コーエンさんは、よく頑張りました。

事物と言葉と一つの意味を帯びる、だが、その意味が観察者と物的に独立して存在する、何かを指していないから、現実性に乏しいとは、限らない・・・
統合失調症、分裂病患者の妄想も然り。

妄想で、多数の虫が見える・・・
それが、現実性に乏しいとは、限らないのである。

勿論、コーエンは、通常の精神の人の心的活動を言うのであるが・・・

比喩的なあるいは象徴的な「知識」は、プラトン的な存在を楽しんでいるある霊妙な実在性や、またテーブルや電子が存在するという意味で存在しているある詩的、神秘的な実在については何も教えてくれない。
そうした知識が示している「実在」というものは、それがわれわれに対してもっている個人的な意義によって、充分に認められるものである。
コーエン

小説家と美術家は、もっと野心的な要求を主張する。彼らが作り上げる創造物は、彼らにとってほかの人びとにとってもいっそう現実性をもつものである。
コーエン

作り上げたものが、現実性を持つというのである。

ディズニーランドは、まさしく、現実性があり、映画にある、魔法使いの学校も、現実性がある。

ピカソは宣言した。実在性は事物そのもの以上のものである。わたしはいつも、事物の超実在性を捜している。実在性は事物を見る見方のなかにある。緑のオウムは緑のサラダでもあり、そしてまた、緑のオウムである。それをただオウムにしてしまう人は、その実在性を減じているのだ。
樹を写している画家は真実の樹に盲になっている。わたしは事物を、そうではなく別の仕方で見る。・・・
マティスの仕事場で絵をじっと見ていた婦人が、たしかにこの女性の腕はあまり長すぎますとマティスに言ったとき、この画家は答えた。マダム、あなたは思い違いをしていらっしゃる。これは女性ではありません。絵なのです。

そこで、
経験と現実のこのような多様さは、いろいろな事実を頭に詰め込むことによる知識の蓄積とは何の関係もない。
コーエン
と、なる。

これは、既存の心理学への、極めて激しい批判であり、批難である。

無意識における、シンボルという役割・・・
非現実的、象徴主義の、お説なのである。

象徴主義にある、心理学というものが、いかに、出鱈目なものであるか・・・
現実の実在性を無視して、一人勝手に、論じているのである。

それは、糞の役にも立たない。




posted by 天山 at 06:34| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月12日

霊学68

心理学者たちが知能のテストに専心してきたここ半世紀の間、彼らは大部分、まちがった樹に吠え掛かるような全く見当違いをしてきたが、このように見当違いをする腕前というものは、明らかにその哲学上の先祖から受け継がれたものである。
コーエン

哲学者たちの過ちのほとんどは、人間をあまりに詳細な限られた見地から考察することに出ている。人間は単に道徳的なそして知的なだけの存在ではなく、また、ひときわ抜きん出て想像力豊かな存在である。
シェリ

この哲学者たちは、心理学者と、同じである。
詳細な限られた見地から・・・

狭めて、狭めて・・・
そして、心理学という・・・

更に、学問とは、創造性の豊かなものである。

心、あるいは大脳について包括的な見方をするには、理論的なまた科学的な知力の及ぶ範囲を越えていると思われるさまざまな活動を無視できない。
コーエン

更に、包括的な見方は、感覚にとって、確実だと思われること、自然科学の描く不完全な世界像だけに限定されるものではない。

包括的な見地は、心的な働きの全範囲を含まなければならないのである。

つまり、証明しうる知識を打ち立てるのに、妥当だと、考えられているものだけに、限ってはならないのである。

証明され得ないものが、多数あるのである。
詩的、音楽的、宗教的、神秘的現実・・・

それは、主観的に、そのあり方において、現実的なものである。

更に、である。
それらに、従って、また、それらに、支配されて、生活しているのである。

ここに、神秘的現実というのがあることに、注意して欲しい。

要するに、心霊的、霊的なことも、含まれてある。
それも、現実体験なのである。

だが、
経験のこのような象徴的様式については、神経学はそれ自体としては何も教えることができない。精神神経学的還元主義の熱烈な唱導者であるラシュリですら、彼が「心理学は、こんにち、神経生理学よりももっと基礎的な科学である」と明言したとき、このことを認めたのであった。彼はさらに続ける。なぜなら、行動における神経作用の諸法則は実証しうる心理学的事実に合致しなければならぬのに反して、神経生理学は、行動の常態的な体制化を予測するための原理をほとんど提供していないからである。
コーエン

心理学が科学であることの規準として、他の科学への翻訳可能性に対する要求を正当化することは国難である。
コーエン

つまり、理論家が心理学的「モデル」をとるか、それとも神経学的「モデル」をとるか、また彼がそのいずれに対して知的にいっそう満足を覚えるかは、けっきょく好みの問題であうろ。
コーエン

科学的知性は、実際、はっきりと規定された、認知過程ではない。
それは、働くべきときには、不可欠の、ことばにならない、そして、多分それと確かめ得ない要素の、半影を有しているのである。

これは、挑戦である。

ことばにならない・・・
半影・・・

それを、無理にこじつけると、どういうことになるのか。
だから、臨床では、時間をかけるのである。
結論を急がないのである。

ことばにならない、こととは、いずれ、ことばを超えたところのもので、表現される、可能性がある。

科学における思考は、初めから終わりまでたどることのできる一連の段階を追った働きではないし、また論理的によってあらかじめ定められた道を守るものではけっしてない。
コーエン

心理学の、教科書により、学ぶということは、実に、不案内なのである。
その前にすることがある。
それは、心理学への批判である。

まず、疑ってかかるべきものなのである。

いくら、心理学用語を詰め込んだとしても、全く意味がないのである。

更に、それを駆使して、何事かを、説明するという試みは、単なる、自画自賛と変わらない。

コーエンによる、心理学の一つの見方でさえ、こうである。
心理学への、道は、数限りなくあると、思えば良い。

精神医学からの、治療アプローチから、心理学への、扉を開く場合もある。
心理学者は、精神科医ではない。
だが、精神科医は、その臨床から、心理学へ進むことができる。

それでは、霊学から、心理学への、アプローチの可能である。

極めて、神秘学的に似た感覚である。
霊学という、現実感覚を持って、心理学への道とすることも、可能であるということを、言いたいのである。

勿論、哲学からの、アプローチも、当然ある。
多くの哲学者の論文が、それに対処している。
更に、宗教学からも・・・

posted by 天山 at 00:56| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月13日

霊学69

類推の想像的発見、すなわちいろいろなアイディアやイメージ間の類推を求め、それに心をとめることは、思考そのものの基本的な特徴であろう。それは、心の中に新奇さの感覚が生まれるまで、ある考えのまわりを「踊り」めぐり、問題点の近くをぶらつき、それをいろいろと飾りつけ変形させるわざとして述べられてきている。
コーエン

それは、私が言う、宗教的妄想についても、コーエンは学者であるから、宗教的要素によるものを、リアルなものという。
想像というものも、リアルな現実感覚として、捉えるというのである。

それでは、霊学における感覚、思考も、彼は、リアルなものとして、受けいれることであろう。

学者は、冷静である。

科学的発明は、それ自身いろいろな新しい類推を類同化することにかかるであろう。そして言葉がこれに入ってくる限りでは、それは一種の言語の「博物館」であり、そこにわれわれは「死しても忘れられた詩人たちの、とほうもない空想と類推の遺物」を見るものである。
コーエン

実に、冷静である。
そして、
物理学においては、類推の仕事は見慣れぬものを見慣れたものとすることである。心理学では、事情は反対になろう。心理学のデータは、しばしばあまりにも見慣れたものだからである。
コーエン

そして、話は、知性的と、想像的という、古い昔からの、対立命題を、二つのタイプの表象を「明証性」に関して区分けしながら、明らかにするのである。

通常の心理学教科書には、書かれないことである。

心理学を数学のように扱う人たちによって、心理学というものが、成り立つのを見る思いがする。

勿論、数学さえ、答えのではないものもあるのだが・・・
心理学は、答えの出るものとの、意識を、粉砕するのである。

既存の心理学用語で、滔々と、分析に明け暮れる、アホな心理学者が言う。

更には、それで、賢いと思い続けている。
いや、賢いと、思い込むのである。

こういう者たちを、賢い馬鹿という。

この対立的な命題は、明証性の役割に関するかぎり、動物と人間の類似性に照らしてみればいっそう明らかとなるであろう。
コーエン

動物の場合は、同一の行動パターンが、欲求が弱いときに加えられた、強い刺激の結果として起こる。また、欲求が強いときに、弱い刺激によっても起こるようになる。

最後は、反応が、真空でも、生ずるようになる。
空転反応である。

欲求の刺激と、この関係は、置き換えの法則と評していい。

この法則は、欲求が次第に強くなってゆくにしたがい、次々と、第三、第四の刺激を受け入れやすくなることを意味するのである。

刺激の類似性の大小。
刺激の生物学的に訴える力の大小。
このことは、人間についても、当っている。

さて肝心なところにきた。生き延びるために外部世界の現実に合わせなければならない経験と、生死の問題にかかわりなく変わることのできるその他の経験とがあると考えてみる。第一のカテゴリーは、「知性的」な活動には適しているが、「想像的」な活動には不適なものと考えることができる。そして経験の第二のカテゴリーについてはこの逆である。つまり「真空反応」は、もしそれが、欲望とその充足との間におかれる遅滞に対して内的な統制を必要とする場面では、それは高度な想像的なものとなろう。
コーエン

高度に想像的なもの・・・

既存の心理学では、不可能な表現である。

コーエンは、それを解りやすく、レオナルドや、レンブラントの名作を使い説明している。
画中の最も人の心を動かす人物の目を蔭にしておき、見る人に、創造の行為に参加することを、強いることで、成し遂げられたとのこと。

この現象は、エロティックな行動の領域でよく知られるものである。
コーエン

例えば、裸の大地、ぬき出しの刃、赤裸々の真実・・・

裸のものは、性に飢えた大衆の要求を掻き立てることに、結びつく。

行為は、それを引き起こす明証性の正しい値で起こるならば、知性的であるといってよかろう。
コーエン

人間の行動が、何によって、引き起こされているのかということを、コーエンは、証明しているのである。

経験の多様な様式は、その内容とともに経過でも異なる。これらを研究するためには、内観的分析以上のものが必要である。このような意見は、多重フィルター・モデルでもって、経験と意識を分けることにより正しく理由づけられるものであろう。
コーエン

経験と、意識を、分ける・・・

既存の心理学は、内観的な、実に主観的な報告を鵜呑みにして、成り立っている。
経験と、意識を分けるとは、経験を、込み入った継起といくつかの、多様なフィルターを通して、意識へ、水路づけられたものと考えられる、ということになる。

そのものが、あるのに、見ていない・・・
その意識の、問題である。

私は、だから、心にあるものしか、見えないという。
何故、見えないのか、心に無いからである。

脳に無いのではない。
心に無いものである。

心理学では、心に無いものを、見ることが、できるだろうか。
そして、何故それが、見えないのか・・・

そして、無意識の世界への、入り口となる。
だが、コーエンの、心理学の一つの見方を続ける。
その後、無意識の世界へ行く。


posted by 天山 at 06:06| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月14日

霊学70

経験を分析することは、実験の被験者に内観的報告を求めることより、はるかに野心的な企てである。わたくしが内省しているときには、わたくしは自分自身を、あるいは自己の意識内容を客体として扱っている。もし実行できることなら、実験者がわたくしの心のなかに入ってきて、そこに何が起こっているかを彼自身で見てもらいたいものである。
そうすれば、彼は自分で、わたくしの残像を記述することができるわけだし、また彼の記述はわたくし自身のものと実質的には異ならないであろう。内観にあっては、わたくしはいわば外部の観察者の内部的な代理として働いているのである。
コーエン

だが、現象学的分析においては、それとは対照的に、実験者に向かい、あなた自身で見てくれとは、言えない。
外部の観察者としての、実験者が、仮に、わたくしの内部にあったとしたら、行うであろう記述をすることなどにはない。

今何が起こっているかを、主体的な見地から、述べることにあるからだ。
記述しているものは、個人的な経験であり、彼が、わたくしの立場にあればまた別なように感ずる。

現象学的分析では、わたくしは、恐れたり、空腹であったり、ねたんだり、苦しみ悩んでいるときの、自分の身体的変化を記述するような離れた傍観者たろうとするのではない。わたくしは、わたくしの経験に近寄ることのできない観察者の代理としてふるまっているのではない。わたくしは、わたくしが経験しているところのものを、特殊な生活史をもった一人の経験する主体として実験者に伝えているのであり、そして実際、ほかのだれにせよわたくしになるのでなければ全く不可能なことをしているのである。
コーエン

つまり、現象学的分析は、情動的な関連と社会的なかかわり合いについての、言語化されない諸経験を開明するのである。

自分のことは、知っている・・・
だが、それを、すべて表現することは、無理なことである。

更には、自分でも、自分が排除しているものに、気づくことはない。

それを、心理学者が、僭越的に、相手に、押し付けることなど出来ないのである。しかし、それを、彼らは、やってしまうのである。

心理学者が言語行動とそれから抑圧された無意識現象について抱いている先入観が、われわれが確かに「知って」はいるが、しかし大きな努力を払わなければ明らかにすることのできない経験の「余韻」を軽視させてきたのである。
コーエン

更に
また、何も陳述しない沈黙が、最も賢い演説よりも雄弁であることも忘れないようにしょう。
と、言う。

心理学者が、沈黙する時が、あるだろうか・・・

おおよそ、すべてを、その先入観で裁くだろう。
数学の答えのように・・・

要するに、テキストにある通りに解釈して、裁き、堂々として、心理学者の、威厳を見せ付けるだろう。

実際、何の痛みを、感じないことでも・・・

医者は、痛みを感じないが、痛みに対処する方法を、学んでいる。
しかし、心理学者は、一体、何を学んでいるのか。
明らかに、先入観という、観念を積み上げているのである。

だから、自分に問題が起こった時に、パニックになるだろう。
論理矛盾、論理破綻が起こる。

先入観は、粉々に壊される。

精神科医の、死因の第一は、自殺である。
何故か。
自分の論理で、自分を治められないのである。
しかし、患者には、その論理で、治療してきたはず。

コーエンの、批判を私は、このように、聞く。

この、コーエンの本の訳者のあとがき、には、
人間の経験は、たんに神経系の活動には還元できぬ独自のものであること、経験の意味は、人の内部からくるものであり、またその個人の過去と未来とからしか解読できないこと、および、人間は自然性をもつと共に歴史性をもつことなどを説こうとするものである。
と、ある。

それは、個人の内的な体験に深く分け入るというより、人間の心理に普遍的にひそむ、自然的な経験を展望するものという意味を、見る。

心理学への、批判は、実に有意義である。
この本は、1963年に、翻訳が開始され、六年に渡って、完成したものである。
つまり、出版されたのは、1969年、昭和43年である。

多くの心理学者によって、読み続けられたであろうが・・・
今も、充分に耐ええるものである。

人間性そのものの、心理現象に迫る、独自の立場を取るといわれる。

だから、人間性の心理なのである。

心理学の一つの見方は、次回で終わるが、より深く心理学に迫るために、無意識の世界を取り上げる。

この、無意識についても、心理学は、観念まみれになっている。
それは、無意識による・・・

無意識からの・・・

潜在意識については、成功哲学といわれる、商売、金儲けの人たちにも、支持されている。
潜在意識は、無意識にある領域である。

もし、無意識を野放図に解放したら、人間は、狂うしかなくなる。
潜在意識も、かろうじて、狂わない手前を使用すべきである。

下手をすると、単なる、誇大妄想に陥るのである。

posted by 天山 at 05:20| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月15日

天皇陛下について118

孝徳天皇は、在位10年で、お隠れになる。
崩御である。

次ぎは、前天皇であった、皇極天皇が、即位された。
第三十七代、斉明天皇である。655年より、661年。

天皇が一旦、位を譲られて、更に、天皇に即位するのを、重そ、ちょうそ、といわれる。

中大兄皇子は、皇太子として、政治を執られた。

この時、蝦夷、エゾ地のことであるが、現在の、秋田、能代、津軽地方に叛乱があり、それを平定するために、討伐軍を向ける。
更に、大船団をもって、北海道、樺太方面にも渡るという、大規模な討伐軍が、出来た。

総帥は、阿部比羅夫である。

討伐軍が、北に向かっている間に、百済から、使者が訪れる。
斉明六年、660年、九月である。

当時は、我が国の朝鮮における勢力は、衰退していた。
だが、百済、高麗、新羅も、貢物を持参していた。

しかし、三韓の間では、絶えず、攻防が繰り返されていたのである。

特に、新羅の百済に対するものは、激しかった。
新羅は、唐と結び、百済を滅ぼそうとしていたのである。

助けていただきたい、との、願いに、朝廷は、正しきを助け、無法、非道を討つのが、昔からの、方針であると、その年の暮れ、天皇は援軍を送られた。

更に、翌年の春には、すでに68歳になられた天皇も皇太子を従えて、九州に下られ、筑前、福岡の、朝倉宮に、大本営をおかれた。

だが、天皇は、七月、崩御されるのである。

皇太子である、中大兄皇子は、麻の着物を着て、喪に服した。
ただちに、天皇に即位しなかったのである。

この、中大兄皇子は、長年、皇太子であり、中々天皇の位に、即位しなかった。
何故か。
それほど、天皇という存在に対して、慎重だったのだ。

流動的な状況にあり、象徴的な天皇の位に就くには、躊躇われたのである。
それほど、天皇の位は、重いものである。

百済援軍の戦いは、続いていた。
安曇比羅夫たちを遣わして、百済を救援したと、大日本年表にある。

更に、天智元年、662年、大量の支援物資を、百済へ送っている。

更に、翌年、今度は、唐と新羅が組んで、高麗を攻めた。
高麗も、日本に救いを求めてきたのである。

朝廷は、これにも、援軍を送った。

その年の、五月、百済王子の、豊を、本国に送り、王位を継がせた。
護衛の指揮は、安曇比羅夫が執った。

つまり、百済の王子は、日本に在住していたのである。

天智二年、三月、日本は、上毛野稚子、かみつけのわくこ、を大将として、二万七千余が、新羅を攻めた。

二城を得たが、この頃、百済王主従の間に、不信があり、王は、臣の福信を殺したのである。

この動揺している様に、新羅が攻めた。

一方、唐の水軍は、白村江、はくすきのえ、に陣を設け、日本の水軍の突進を好機として、これを包み込み、戦った。
日本軍は、敗れた。
そして、百済王も、高麗に亡命し、百済が亡んだのである。

日本も、引き揚げるしかない。

だが、この時、唐や、新羅に属することを拒否した人民が多数出た。
その人たちは、すべて日本を頼ったのである。

推古天皇時代も、多くの人たちが、大陸、半島から来たが、その時と同じく、皆々、日本を求めてきたのである。

天智二年九月、百済国の人、日本の水軍と共に、日本に向かう。
天智四年二月、百済の男女四百余人近江国神前郡に置く。
天智五年冬、百済の男女二千余人を東国に居らしむ。
天智八年、百済の男女七百余人を、近江国蒲生郡に置く。

当時、日本がいかに、憧れと希望の国だったかが、解るというものだ。
国が安定している。

移住してきた者を、大切にするのも、昔のままである。
彼らを、温かく迎えているのである。
住まいの地を与え、更には、能力のある者は、引き上げられたのである。

迎え入れた現地の人との、対立もなかった。
渡来した彼らは、日本の伝統に従い、自分たちの神社まで造り、大和人たろうとした。そして、天皇に対する、崇敬の思いである。

さて、この時、唐も、新羅も、日本に攻めてくることは無かった。
日本の倫理と、戦いの強さを見たからである。

だが、日本は、天智天皇は、防人を置くことを考えた。
国の守りのためである。

防人とは、一時的に、軍人として、大陸からの、防衛のためである。

天智天皇三年、6664年。
対馬島、壱岐島、筑紫国等に、防人と、すすみとを置く。又、大堤を築きて、水を貯へしむ。名づけて水域といふ。
日本書紀
すすみ、とは、山の頂に火を上げて、急を知らせる、のろし、である。


posted by 天山 at 05:50| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月16日

天皇陛下について119

天智天皇四年、665年。
更に、北九州に、大野城と、キ城。長門、山口。

そして、六年には、対馬の金田、讃岐の島屋、大和の高安城を築かせる。

都を大津に移した。
いずれも、国防上の理由である。

しかし、
この時に、天下の百姓、おおむたから、都を遷すことを願わず。そえあざむく者多し、と、日本書紀にある。

庶民には、日本の、マツリゴトシロシメス、大政の重大なことを、理解できなかったのである。

当時の、歌人たちも、近江を嫌う歌、大津へ行きたくない歌を詠んでいる。

防人は、三年交代である。
その彼らの歌が、万葉集に載る。

大君の 命かしこみ 磯に触り 海原渡る 父母を置きて

唐衣 裾のとりつき なく子らを おきてぞ来ぬや 母なしにして
母の無い子が、どうして過ごしてゆくだろう・・・

天皇は、軍事、民事に携わり、庶民の苦労を身を持って感じていた。

ゆえに、筑紫で軍事を見られていた際も、その住まいは、屋根の茅は切り揃えず、柱も荒木のままだった。
これを見た人々は、天皇を、木丸殿、御殿を黒木御所と呼んだ。

天智天皇御製
朝倉や 木丸殿に 我居れば 名のりをしつつ ゆくは誰が子ぞ

天智天皇の即位は、天智天皇七年である。

天智天皇時代は、文化の発達も、いちじるしいものがあった。
水時計を造られたのも、皇太子時代である。
それが、時鐘を打つようになったのは、天智10年、4月25日である。
太陽暦にすると、6月10日である。今は、時の記念日として残っている。

天智天皇崩御は、46歳。
その二年前に、藤原姓を賜った、鎌足が亡くなっている。

鎌足の最後の言葉は、
私が死にましたら、葬儀を簡単に・・・
である。

現在、その霊位を、祀る談山神社がある。

天智天皇崩御の後、政務をとられたのが、大友皇子である。

だが、皇位継承者に指名されていた、天智天皇の弟の、大海人皇子、おおあまのおうじ、との間に、争いが起こった。
壬申の乱である。

紀元1332年、西暦672年のことである。

この事件は、我が国の悲痛な事件である。
大友皇子は、25歳で、お亡くなりになった。

何故、このようなことが、起こったのか・・・

少しばかり、説明する。
それは、大化の改新の精神である。

その精神が、遂行されない状態に陥ったのは、朝鮮との関わりで、大敗し、多くの人命と、物量を失った。

国力の疲弊、そして、唐軍の来襲に備える警備のため・・・
何よりも、大小の豪族たちの、動揺を抑え、しっかりとした政治を行わなければならない。

しかし、その結果、天智天皇は、冠位制の改定と、氏上、民部、家部を定める政策をとった。
大小の氏族を政府の統制化に置く主旨であったが、それは、氏上の地位の差別の制度であり、大化の改新の精神と、逆行してしまうのである。

大化の改新で、廃止したはずの、私有地の保有を、各氏族に認めることになり、これは、極めて危険なことだった。

大化の改新は、氏族制度を廃して、その支配から、土地人民を解放し、公地公民とすることであった。

天智天皇は、涙を飲んで、止むを得ない、改新の後退を行ったのである。
しかし、弟の大海人皇子には、それが、また蘇我氏のような者を作り出してしまうことだと、憂えたのである。

兄の、大友皇子との戦いは、それも止むを得ないこくとになったのだ。
このままにしておくと、大化の改新の精神が、無になってしまう。

であるから、壬申の乱を平定して、皇位に就かれると、即座に、冠位や、姓制度を廃止して、氏上も、民部も、家部も、撤廃したのである。

大化の改新は、飛鳥維新といっても、いい。

天智と、天武の不和ではなく、更に、皇位継承を巡る対立でもなかった。

革新政策の成し遂げを続けるか、止めるかの、どちらかである。
だが、やめる訳にはいかない。

大友皇子の、死は、悲劇である。
しかし、天智天皇の、妥協したままの政治では、また、豪族、氏族たちの、覇権争いに発展する。
それを、避けて、安定させるためには、どうしても、天武天皇の、断行が必要だった。

歴史は、いつも、激動である。

壬申の乱の翌年、大海人皇子が、即位された。
第四十代、天武天皇である。
皇居は、再び、大和に、移された。


posted by 天山 at 05:43| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月17日

天皇陛下について120

天武天皇が、一部の歴史家から、独裁政治だと言われるのは、彼が行った、壬申の乱後の、処理である。
従来の皇室にまつわる、強力な集団を一掃し、乱に功績があった、臣も、一人として、大臣以上にすることはなかった。

天皇絶対主義・・・
それを天武天皇は、実行したといわれる。
違う。

長い日本の未来を、眺めての、決断である。
それ以後の、皇室、天皇を見れば、良く解る。

天武天皇在位は、14年。673年から686年。

その、詔は、数多い。
例えば、負債を免ずるの詔
天下の百姓、貧乏に由って、稲及び貨財を貸すものは、乙酉十二月三十日以前のものは、公私を問わず、みなゆるせ

八姓の仕組みを作られた。
八色の姓
真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置

従来の、一番上の、臣、連が、末に下げられている。
真人は、皇室から出た家にだけ、与えられる。

六十の階位。
皇族を、十二階、諸臣を四十八階と、増やした。
これは、有力、才能がある者を、朝廷の役人にし、組織を固めるために役立てた。
このような役をつけることで、豪族の不満を抑えたのである。

また、仏教を大いに奨励したが、同時に、朝廷のまつり、古くからの慣わしである、祈年祭、きねんさい、なども、盛んにした。

崩御の前年には、
九月十日、はじめて伊勢神宮の遷宮の制を定めた。
そして、第一回の、御遷宮が、持統天皇四年に行われている。

更に、稗田阿礼に命じて、古事記編纂と、日本書紀の編纂を行う。
古事記は、第四十三代元明天皇、707年から715年の、和銅五年に完成。
日本書紀は、第四十四代元正天皇、715年から724年の、養老四年に完成となっている。

天武天皇崩御の後、皇位に就かれたのが、皇后の持統天皇である。686年から697年。
在位12年で、その後は、天武天皇の御孫である、文武天皇が就かれた。697年から707年。

天武、持統、文武、三帝は、継続して、法令の整備をされた。

それが、完成したのが、文武天皇の御代、大宝元年、紀元1361年、西暦701年である。

大宝律令である。

律が、六巻、令が、十一巻である。

律は、現在の刑法である。
令は、臣民の階級、位階、諸官省の、官制、軍事、教育、社寺などの制度である。
その他、行政上の諸事を定めた。
今日の、憲法、民法、商法など、すべてにわたった。

この、大宝律令は、その後、我が国の政治の根本となったものである。
官制、諸制度は、その時々に変更があったが、明治18年まで、千二百年近くも、保存されて、位階や、勲等などは、戦前のままで、そのまま用いられていたのである。

律、令の、詳しいことは、省略する。

大化の改新、つまり、飛鳥維新は、完成した。
そのまま、飛鳥時代と、いっても、いいだろう。

天智天皇、天武天皇によって、日本の国の成り立ちが、固められたという。
国の、大元を作り上げたのである。

奈良時代は、女帝、元明天皇より始まる。707年から715年。

都が、平城、なら、に定められた。
現在の奈良は、当て字である。

平城京である。
遷都は、和銅三年。710年。

以後、元明天皇、元正天皇、聖武天皇、孝謙天皇、順仁天皇、称徳天皇、光仁天皇の七代で、およそ、70年である。

元明天皇の御代に、古事記が完成する。

そして、元正天皇の御代の時に、天武天皇の時に発足した国史編纂事業である、日本書紀が完成する。

第四十五代聖武天皇、724年から749年の御代、太政官の、帝都は諸国より人々の集まってくるところゆえ、ということで、五位以上のもの、力ある者は、茅葺を瓦屋根に、柱は赤く、壁は白くするなどした。

そのため、都は、一段と美しくなった。

青によし ならのみやこは 咲く花の 薫ふがごとく 今盛りなり
と、謳われたのである。

この都の繁栄と、仏教の興隆は、密接な関係がある。

そして、当時、激しい勢いで、蔓延した、天然痘、ほうそう、とも、関係がある。

それは、天平七年、朝鮮半島から、北九州へ入り、東へどんどんと、広がったのである。
庶民のみならず、郡臣も、次々と死んだ。

この不幸な出来事を天皇は、
私がいたらぬためであると、嘆いたのである。
そして、仏のお力を頼もうと、おっしゃり、陛下自身、写経に励み、一方、諸国に、国分僧寺と、国分尼寺を建てるようにと、詔を発したのである。

仏寺の建立は、結果、仏教を広めることになる。
奈良の大仏で有名な、東大寺は、国分僧寺の総本山である。

東大寺に対する、国分尼寺は、奈良西北にある、法華寺である。

これが、いずれ、仏教団体の腐敗の元になるのだが・・・


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2012年07月18日

天皇陛下について121

さて、大仏建立である。

聖武天皇は、国のため、国民のためが第一義であるとし、これは、信仰を持つ者の力を借りて行うと、この大事業に従うものは、まずと仏を信ずる者に限るとした。

費用は、万民の寄付によるものだが、無理に納めさせてはならないと、国司、郡司に命じた。

天皇の、御趣意を奉じて、全国を行脚したのが、行基である。
その、いわれと、功徳を説いて、応分の寄付を募ったのである。

そうして、費用が集まった。
国を挙げての、大仏建立である。

兎に角、大変なことであった。
完成するに、十年を要したのである。
今もなお、世界一である。

当時の、日本の技術がいかに、高度なものであったかが解る。

この、大仏建立には、天皇ご自身のみならず、皇后の力も大きかった。

その皇后は、大化の改新で、功績のあった、藤原鎌足の子、不比等の娘だった。
古来から、皇后は、皇族以外からは、立てなかったが、この御代に、はじめて藤原氏から出たものが、皇后になられたのである。

その名は、光明皇后である。

皇后は、深く仏教を信仰して、その影響により、施薬院、悲田院を置き、今日でいうところの、社会、福祉事業を行ったのである。

皇后は、自ら、親しく、千人の病人の体を洗われたという。
皆々、大変恐縮したが、皇后は、意に介さなかった。

そのために、伝説まで、生まれた。
その話は、省略する。

大仏の正式名称は、ルシャナ仏である。太陽、光明を象徴する。
東大寺の、正式名称は、金光明四天護国寺、である。

護国とは、国を守るという意味である。

すでに、渡来した仏教が、日本の伝統となったといえる出来事である。

そして、もう一つ、東大寺建立で、我が国が大きな恩恵を受けたのは、正倉院、しょうそういん、である。

正倉とは、主な倉庫であり、院とは、塀をめぐらせて、外界と分かつこと。
他の寺にも、正倉はあったが、今日残るのは、東大寺のもののみである。

今なお、御物、つまり、天皇がお使いになられたものとして、一万点が納められている。

千二百年前の宝物が、これほど多数であり、しかも、優れた工芸美術品が、完全に保存されているのである。

聖武天皇が、お隠れになった後で、光明皇后が、そのご冥福を祈られるため、そのご遺品を、大仏に納められたのが、はじまりである。

先にも書いたが、第四十三代元明天皇が、平城に遷都された。
平城京という。
それが、現在の奈良である。

奈良、飛鳥時代といわれる。

奈良時代になって、仏教の完全国教化が計られたといえる。
南都仏教といわれる。

その当時の、仏教を見る。

名僧として、大仏建立に大功績のあった、行基である。
そして、唐から渡来した、鑑真が、律宗を開く。

更に、唐に19年留学していた、行基と同じ、法相宗の、玄肪である。
法相宗は、あの三蔵法師玄奘が、開祖である。

更に、華厳宗を開いた、良弁、ろうべん、である。

他に、三輪宗、さんろんしゅう、成実宗、じゅうじつしゅう、倶舎宗、ぐしゃしゅう、がある。

南都六宗である。
そして、平安時代に、それが、八宗になる。

最澄の天台宗と、空海の真言宗が加わる。

奈良の都は、仏教開花の面目である。

日本が仏教国といわれる、所以である。
天皇が帰依した、仏教・・・
その思想が、更に、日本的に変容してゆくのである。

だが、矢張り、堕落が起こる。
奈良仏教界も、政治に関わって行くにつれ、次第に、信仰とは別に、権力争いが起こる。

僧侶の権威志向である。
人間のやることである。

中でも、恐るべき僧侶が現れた。
それは、天皇の御位を、狙おうとする者である。

こうなると、その信仰までも、疑いたくなるのである。

宗教が政治と関わりと、時代は、いつも混乱する。

戦国時代も、門徒と呼ばれる、浄土真宗の信徒たちが、兵力を持ち、大名たちに、向かうのである。
織田信長は、この門徒の一派たちと、壮絶な戦いを行う。
それは、家康もそうであった。

何故、信仰団体が、政治に関わるのか。
それは、支配欲であり、最早、宗教とは、言えないのである。

政治を凌駕しようとする、信仰者の支配力とは、何か。
これ以上は、このエッセイの本質ではないから、止める。


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2012年07月19日

伝統について55

慰もる 心は無しに かくのみし 恋ひや渡らむ 月に日にけに

なぐさもる こころはなしに かくのみし こひやわたらむ つきにひにけに

慰められる心もなく、このように恋しい思いを、持ち続けるのだろうか。月に日に、いっそう募る思い。

かくのみし
このようにして・・・

月日が経てば、経つほどに、恋焦がれるのである。
片恋か・・・

いかにして 忘れむものそ 吾妹子に 恋はまされど 忘らえなく

いかにして わすれむものそ わぎもこに こひはまされど わすれらえなく

どのようにして、忘れられるものだろうか。吾妹子に、恋はまさりゆくが、忘れることなどはないのだ。

益々と、恋心激しくなる。
忘れるなんて、出来るものか。

遠くあれど 君にそ恋ふる 玉鉾の 里人皆に われ恋ひめやも

とおくあれど きみにそこふる たまほこの さとびとみなに われこひめやも

遠く離れているけれど、あなたをこそ、恋する。近くの、玉鉾の里人は、誰一人、恋しくなどと、思わないだろう。

里の人は、誰も知らないだろう。
私がこんなに、恋しく思う心を。
また、身近に、男がいても、恋するは、君一人である。

一人で、耐える恋心である。

験なき 恋をもするか 夕されば 人の手まきて 寝らむ児ゆえに

しるしなき こひをもするか ゆうされば ひとのてまきて ねらむこゆえに

恋しても、しようがない。夜になると、他の男の手を枕に寝ているだろう、あの子のために・・・

失恋・・・片恋・・・
これは、辛い思いだ。
他の男と、伴寝をしている、恋する女。

百世しも 千代しも生きて あらめやも わが思ふ妹を 置きて嘆くも

ももよしも ちよしもいきて あらめやも わがおもふいもを おきてなげくも

百年も、千年も、生きることがあろうか。短い命だと、思う妻を抱いて嘆くことだ。

置きて、とは、離れている状態であり、このままの状態を嘆くのである。
出来れば、百年も、千年も、一緒にいたい。

万葉の歌は、直情的である。
そして、それは、性愛である。
野生的な、本能的な、心情を吐露する歌。

技巧無し。
ただ、思うが如く、口にする歌。

このような、歌集を残してくれたというのは、僥倖である。
似たような歌ばかり・・・
当たり前である。

人の心に大差は、無い。
また、万葉時代も、今も世も、人の心に大差は無いのである。

皆同じ 悩みを抱えて 生きるごと 万葉歌人 今もありては



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2012年07月20日

性について207

トランスジェンダーの研究は、今、始まったばかりである。
特に、その社会学的意味。

これは、矢張り、その問題に触れない人、関係ない人にとっては、混乱なのである。
しかし、そこから、見えてくるものがある。

確実に社会は、それは世界全体が、ホモソーシャルという、性別二元制と、異性愛主義に基づいて、性差別を行う、社会構造であるということに、尽きる。

研究家たちも、それを掲げている。

男性集団における強固な「男同士の絆」は、そこに内包された男どうしの心情的にも身体的にも性的な結びつきを隠蔽するために、同性愛者というカテゴリーを創作し、本来は「男同士の絆」が持つ同性愛的要素を、否定的にニュアンスでそこに押し付ける。同時に、自分たちの異性愛性をアリバイとして確認しつつ、その欲望を実践する対象として、女性というカテゴリーをも周縁に配置する。
性同一性障害の社会学 佐倉智美

だから、面白いのは、ゲイ差別をする、男にゲイ的要素があるということだ。
ノーマルな男の場合は、全く、同性愛に対して、寛容である。
しかし、同性愛的要素を強く持つ男ほど、同性愛者を、差別する。また、ゲイがゲイを差別するということの方が大きい。

また、もう一つは、ゲイ差別は、宗教の原理に違反するということからの、絶対的差別を受ける。

ユダヤ、キリスト、イスラム教の原理主義者は、ゲイを、殺すのである。

らしさ、というものに、誤魔化される人間である。

男らしさゆえに、男同士の仲間に入る。
男らしくない男は、その中から、排除される。

男らしくない男とは、女のような、あるいは、差別用語としての、オカマと、言われる。

病気としての、性同一性障害、トランスジェンダーの問題が、男と、女の、境界線の問題とも、なり得るのである。

すでに、性転換手術をして、戸籍も、変更したものに対しては、ある程度の、理解を示すようになったと、思われる。
思われるというのは、まだ、多くの偏見と差別がある。

タイ、バンコクには、世界中から、性転換を希望する者の心理、その後の指導などの研究が行われている。

タイは、世界で、一番それが多いゆえに、研究する場所として、適当であるとの、見解である。

しかし、タイでは、性転換手術をしても、戸籍は変更できないのである。
不思議なことだ。

さて、欧米では、ホモソーシャルの感覚が鋭敏になり、自分の息子が年頃になると、抱き締めることも出来ないという。

それほど、恐れているのである。

だが、アメリカでは、軍隊にゲイである者も、受け入れた。
時代の流れである。

更に、同性婚である。
それぞれの州により、格差はあるが、次第に同性婚に向かう。

これは、性同一性障害を考える上でも、大きなことである。

つまり、異質なものを、受けいれる下準備が、着々として、進んでいるのである。そして、それらが、異質でなくなる時代がくる。

生まれついた、性別を変更することが、出来るという、時代である。

生き方の多様性が、認められた時代がある。
それから、今に至る。

性的指向の多様性が、認められる。
それが、社会の目指すところである。

さて、先の、男同士の絆、ホモソーシャルの世界では、それを維持するために、女性蔑視と、同性愛嫌悪がある。
そこには、トランスジェンダーに対する、蔑視と、嫌悪も存在する。

これを、見て行くと、私は、旧約聖書の神を思う。
全く、その神は、ホモソーシャルな神である。

女性蔑視と、同性愛嫌悪であり、更に、人殺しを好むのである。
異教徒は、皆殺しにするという、野蛮な記述が多い。

この父系型宗教が、大きく世の中に、関与している。
欧米列強時代がはじまり・・・

明治維新により、日本も西欧から、学ぶようになり、同性愛行為が、罪であり、病であると、されて、日本の伝統的、同性愛、少年愛行為は、激減した。

私は、同性愛と、トランスジェンダー問題を、同一の問題として、考えている。

人間の性行為が、生殖をのみを、目的とする、古い考え方から抜けて、生き方の問題であると、考えるからである。

だから、セックスをしないという、無性という、存在も、認めることができる。

異常と、正常の間にあるものとは、何か・・・
それは、それぞれの社会が、決めている。
時代と、時代精神が決めている。

少数者を、マイノリティーと呼んで、マイノリティーに目覚める社会活動が行われた時期がある。
そして、政治、行政が、マイノリティーに少しばかり、寛容になり、今では、障害者用の、トイレから、バリアフリーなどは、当たり前の感覚になっている。

長年続いた、性的指向差別も、いよいよ、大詰めを迎えて、それが、社会的に、意志を表明するようになり、更に、存在観を増すようになる。

その時、ホモソーシャルの社会的構造が、どのように変化するのか。
更に、実際、隠れているが、多くの男社会の中で、例えば、軍隊などの中で、男同士による、性行為が、明らかにされている。

結婚もして、妻子ある男が、男と関係する。
彼女がいる男も、男と関係する社会が、訪れている。

性的指向というものが、らしくない、状況に蠢いているのである。



posted by 天山 at 03:02| 性について5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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