2012年06月19日

天皇陛下について115

厩戸皇子の、病死は、蘇我氏にとって、好都合であった。
好き勝手に政治を、行えるのである。

更に、大連の物部氏もいない。

蘇我王朝を造る最大の、チャンスである。

馬子が、推古天皇に申し出た。
葛城の県は、私の生まれた土地です。現在、皇室の御料地となっています。是非、私の料地に賜りたい。

天皇にとって、馬子は、叔父にあたる。

だが、推古天皇は、
もし、私の世に、あの県を失ったなら、後の天子に、愚かな女が天下を治めていたため、いわれもなく、県を失ったといわれましょう。それは、私一人が、愚か者に留まらず、大臣のお前もまた、不忠の臣となろう。
と、許さなかった。

この要求自体、蘇我氏が、いかに勢力を持っていたかが、解る。

その馬子も、厩戸皇子の崩御から、四年後、死ぬ。
そして、たま、推古天皇も、その二年後に、崩御される。

次ぎは、どなたが御位に就かれるのか・・・

多くの者、厩戸皇子の、御子である、山背大兄王、やましろのおおえのおう、が、と思っていた。

しかし、馬子の後を継いだ、蝦夷は、大兄王では、やりずらいと、敏達天皇の、子嫡孫である、田村皇子を立てた。

第三十四代、舒明天皇である。629年から641年。

ご病身でいらした。
それゆえ、蝦夷が政治を独占するのに、都合がいいのである。

蝦夷は、そればかりか、山背大兄王を推した、境部摩理勢、さかいべのまりせ、父子を攻め殺したのである。

舒明天皇は、在位13年で、崩御された。

皇太子は、中大兄皇子、なかのおおえのおうじ、である。後の、天智天皇。
だが、17際であり、舒明天皇の皇后であった、中大兄皇子の生母が、位に就いた。

第三十五代皇極天皇、こうぎょくてんのう、である。642年から645年。

大臣は、蘇我蝦夷である。

その上、その年から、蝦夷の子、入鹿が政治に参加した。

入鹿の横暴は、蝦夷より、酷いものだった。

天皇即位の年、蝦夷は、先祖の廟を、葛城の高宮という場所に、造った。

その、祭り方が、問題だった。
天皇と同じく、舞楽を使い、諸国の民を集めて、二つの大きな墓を造らせたのである。

その一つを、大陵といい、自分のもの、もう一つは、小陵といい、入鹿のものとした。

その工事の労務者には、厩戸皇子の家に属する者まで、使ったのである。

天皇と同格であることを、暗に示した行為である。

更に、蘇我氏の横暴が続く。
二年冬、蝦夷は、体調を崩し、朝廷に出られなくなった。
そこで、紫の冠を、入鹿に授けたのである。
更に、大臣に任命した。

更に、次男には、物部大臣と称すと、命じた。

紫冠は、冠位十二階の最高位である。
蝦夷の母は、物部守屋の妹である。

父、馬子が守屋を滅した後、その財産まで奪っている。

蝦夷に、大臣の任命権などは無い。
朝廷をないがしろにする行為である。

更に、極めつけは、厩戸皇子の、山背大兄王に対する、謀叛である。

皇子亡き後、21年。
人々は、王が即位することを願っていたのである。

ところが、入鹿は、蘇我系の古人大兄皇子を推す構えであった。

山背大兄王が、邪魔である。
そこで、斑鳩宮を攻めるのである。

山背大兄王は、生駒山に逃れた。
そこで、三輪文屋君が進言した。
東国に逃れて、兵を集めれば勝てます。

しかし、王は、確かに、勝てるだろう。しかし、私は、十年の間は、人民を使うまいと思っている。また、私一人のために、多くの者の命を失いたくない。それでは、後世、人民から、私のために親を失ったといわれる。それより、私は、身を捨てよう。戦いに勝つことが、正しいことではない。

やがて、入鹿が王の所在を知り、捕らえるために、兵を遣わした。

結果、王は、一族の人々と共に、自決し、厩戸皇子の血筋が絶えたのである。

だが、それを知った、蝦夷は、驚いた。
何と言うことをしたのか・・・
しかし、後の祭りである。

その後も、蘇我氏は、明日香村に、大きな屋敷を二つ造る。
蝦夷の家を、上宮門、うえのみかど、入鹿の家を、谷宮門、はざまのみかど、である。
子ども達には、王子を使った。

天皇家に似せたのである。

蘇我王朝の出来上がりである。




posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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