2012年06月18日

天皇陛下について114

厩戸皇子の内政上、注目されるものは、まだある。
仏教の隆盛である。
そして、人材登用制。

推古天皇時代は、多くの渡来人が日本にやって来た。
半島を通り、日本を目指したのである。
彼らを、手厚く支援したことも、特記されるべきことである。

朝鮮半島の混乱に、王朝の一族が渡来し、日本に住み着いた。

ユダヤ人までも、渡来している。
朝廷は、それらの者たちも、採用している。

推古天皇15年、607年
神祇祭祀の詔
それを要約し、現代文に訳す。

わが皇室の御先祖である、歴代天皇は、政治を行うに当っては、非常に畏れ謹みつつ、丁重に天地の神々を礼拝されて、あまねく山、川の神々を篤く奉りになった。それゆえ、至誠の霊と合い通じ、四時の気候も、順調であり、雨、風も調和して、五穀も豊に実り、民が喜び、国が豊になった。それゆえ、天地の神々をお祀りすることを、どうして怠ってよいものか。決して、怠ってはならない。群臣も、また、この意味を解して、お互いに誠意をもって、天地の神々を拝するようにしたい。

更に、この年、小野妹子を遣隋使として派遣する。

仏教が盛んになっても、神ながらの道、古道と、敬神の精神は、廃れないのである。

皇子は、更に、推古天皇28年、620年、天皇記、国記、そして、臣連伴造国百八十部、公民の、本記、もとつふみ、を編纂したのである。
残念ながら、それらは、蘇我蝦夷によって、焼かれてしまった。

大化の改新の際に、再度書く。

600年に、大量の書物が、中国から日本にもたらされている。
誰が、持ってきたのかは、不明である。
その際に、道教、儒教の資料多数である。
であるから、すでに、それらの常識も、持っていた。

そこから、様々なことを、学び、日本の事情に合うように、更に、作り上げている。

この、推古天皇の時代、厩戸皇子摂政の時代は、幕末、維新と似たような、改革の時代だったことが、解る。

政治、外交、学問、文物・・・
あらゆるものが、一新された。

皇子は、だからこそ、古い道を、大切にということで、神祇祭祀の詔を、発したのである。

中国大陸では、隋という国が興り、隆盛を極めていた。
その、隋に対して、初めて、使いを出すという、外交の年としても、重大である。

今までは、半島を通して、伝わったものが、今度は、自らが、出掛けて行くのである。

当時の、隋の皇帝は、二代目の煬帝である。
その国威は、頂点に達し、他の国は、属国扱いであった。

遣隋使、小野妹子は、私も小説にしているが、何しろ、三ヶ月以上をかけて、当時の、長安に向かっている。

手作りの、船に乗り、山東半島に上陸して、そこから、長安を目指して徒歩で向かう。

更に、命懸けの旅である。

第一回の遣隋使が日本の国書を差し出す。
厩戸皇子が認めたものである。

日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや

それを報告された、煬帝は、書を受け取らず、礼儀の知らぬ、無礼な国として、憤慨した。

だが、隋の外交官たちにより、兎に角、煬帝に面会して、小野妹子は、帰国する。
その際に、隋の方からも、使者を数名日本に派遣したのである。

これは、高句麗を攻める煬帝の下心があり、日本に対して、その援軍を求める意味もあった。

更に、小野妹子が、隋の使者と伴に、再度、隋に渡るのである。
その際の、国書にも、

東の天皇、敬んで西の皇帝に白す
と、書かれた。

この時、日本は、厩戸皇子を天皇として、隋の使者たちに、面会させている。

つまり、天皇は、男で無ければならなかったのである。
女の皇帝は、隋の国では、認められなかったのである。

小野妹子が、再度、隋に向かう時に、初めて、八名の留学生を同行させた。

だが、隋は、煬帝の代で、滅亡している。
そして、唐の時代となった。

その革命は、大変ものだった。
唐の二代目、太宗により、安定した国情になる。

日本は、引き続き、遣唐使を派遣して、その後、250年ほどに渡り、唐への留学生を送り出している。

推古天皇29年2月、厩戸皇子、皇太子として49歳まで、歩まれたが、斑鳩宮にて、お隠れになる。

それから、大化の改新に向けて、また時代は、急展開するのである。

蘇我氏、馬子、蝦夷、入鹿と、三代に渡る、支配と、権力に、天皇家に関わる者たちが、猛然と反旗を翻す。
実際、蘇我王朝になりつつあったのである。
特に、厩戸皇子の崩御により、それが、顕著化したのである。



posted by 天山 at 00:23| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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