2012年06月15日

霊学65

認知―――すなわち知覚し、学習し、思考し、そして想起することーーーについての現代の研究において、中心的な問いは、“われわれはどのようにして外部の世界を自らのうちに描き出しているのか”ということである。
コーエン

その、描き出すものを、少ないカテゴリーの中に押し込めて、統計を取り、心理学・・・
冗談ではない。

人間は、生身である。
その時々でも、違う。

そこで、コーエンは、提案する。

1、 どのようにしてある一つのでき事が、われわれにとって何か別のでき事、あるいは一連のいくつかの別のでき事を意味するものとなるのか。たとえば、予期しないドアのノックの音が、どうして持ちこがれた客、あるいは来てもらいたくないともっとも強く願っているうんざりするような人の到来を意味するようになるのか。
2、 どのようにして、われわれの積み重ねてきた経験が、生きた「ファイル組織」を構成するのか。受容と再生の間で、記憶の素材を形づくるものは何か。
3、 さらに、どのようにしていろいろなでき事についての解釈が、それ自身についての個人のもつ見込みの大小を獲得するのか。ある政治家は、熱核兵器を所有することが戦争を防止するのに役立つという極端な確信を抱くようになり、一方別な政治家は、そのような武器の所有によって戦争がいっそう起こりやすいと確信するのは、どのようにしてなるのか。
4、 そして、あることがらが別な事がらを意味するというとき、たとえばアメリカで、卵型をした頭は博識を表すというとき、われわれはどれほどの正確さでそれをいうのであろうか。
コーエン 心理学の一つの見方

とても、皮肉に聞えるのだが・・・

われわれは認知的表象とともに情動的表象をも含めることができる。
コーエン

外部の世界を、自己のうちに、どのように描くのか・・・

それは、また、われわれが自己の内部に作り出した世界を、どのようにして、外側に、描き出すのかとの、支えが必要なのである。

結論を言えば、情報理論が必要だということになる。

こうして、欧米式の、物の考え方、捉え方というものを、多くの日本人は、敗戦から、学んできた。そして、そういう言葉の、遊びにより、学んだという、錯覚に陥ってきたのである。

だから、面白いから、コーエンを続けている。

コーエンの、人間性の心理、という、題名は、心理学とは、言わないのである。
つまり、心理学を、徹底的に、批判しているのである。

そして、限りなく、心理学に近づけている、理論である。

だが、限りなく、近づけているのであるが、心理学という、学問は、無いと、同じなのである。

例えば、児童心理学ではないのである。
児童学なのである。

経営学であり、経営心理学とは、マヤカシなのである。
極めて言えば、妄想学である。

われわれが外部の世界について語るとき、そこでは自動車や女主人やミサイルが考えられている。内部の世界について語るときには、触知できる事物や人びとやでき事をかんがえはしない。
考えられているのは、むしろ思考や感情や情動であり、そのなかには容易にそれを表現できるものもあればむずかしいものもあり、またおそらく全く表現できないものもある。
コーエン

驚くべくことは、
われわれは、信念と感情、希望と後悔、あこがれと嫌悪、そうしたものを考える。
コーエン
である。

このことに、気づく人は、少ない。
外部のものに対して、対処しているつもりが、内部のあり方を、曝け出しているということに、である。

そこで、エリートとか、賢いと言われる人に、本音を出させるために、強力な言葉を吐いてみる。
即座に、内部の様々な、情動的言葉を、彼は、吐くことになる。

何を言いたいのか・・・
相手に、本音を語らせる場合は、相手を感情的にするために、怒らせる、とは、本音を聞きだす、ライターの手である。

公的立場の、冷静な者でも、怒らせると、簡単に、本音を言うという、心理的、混乱である。

その手法で、様々なルポを書き続けたライターもいる。

ある物を見ても、そこには、その物を見るのではなく、彼の本心を投影して、見ているのである。

ここでは、外部の世界を、どのように、受け入れているかと、更に、内部の世界を、どのように外部に描き出すかという、二つの問題である。

少し話は、余談になるが、小林秀雄が、物を見る心、という、小学生向けのエッセイを書いている。

チューリップが咲いていると、あっ、チューリップだ、綺麗だね・・・
では、いけない。
同じ花は、一つもない。
チューリップという言葉で、物を捉えているということに、疑問を持つべきです、と。

言葉を、覚えると、言葉で完結するのではなく、本当に物を見るというのは、一つ一つを、丁寧に見ることなのです、と。

昭和天皇は、雑草という草は、無い、と仰せられた。
確かに、雑草という草は、無い。
皆、それぞれ名前がついている。
これも、小林と同じ考え方である。

雑草という言葉で、完結してしまう。

そして、心理学というものは、そういうものになる可能性、いや、なっているのである。

いずれ、コーエンは、心理学的という言葉を、使い出す。
しかし、心理学とは、言わない。

心理学が、机上の空論、あるいは、現実遊離の蜃気楼にならないために、である。




posted by 天山 at 00:00| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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