2012年06月11日

神仏は妄想である。374

道教の、方術は、色々に形を変えて、仏教や神道、そして民間信仰に溶け込んでゆく。

陰陽道や、修験道の呪術も、その多くは、道教が起源である。

前回も書いたが、神社仏閣などで売られる、お守り、お札なども、道教の符を、日本化したもので、鎌倉時代から、はじまっている。
およそ、千年も、経つと、日本の伝統的なものであるといっても、いい。

呪術で、日本が道教の方術のうちで、最も盛んになったのが、禁呪と、符である。

禁呪とは、まじないのことである。
災いを避けるもの、長生きするもの・・・禁忌、タブーである。

符については、桃符といって、桃の木で作った、呪符がある。
中国では、早くから桃は、百鬼を制し、邪気を払う霊木と、信じられていた。

厳重な精進潔斎をした上で、道士は、色々複雑な儀式作法を行い、材料の桃の木から、呪符を作る。
その威力は、実に凄まじいのである。

例えば、
この符を持つと、死籍を削られて不死となる。
罪を犯した人でも、この符を持つと罪を免れて、長生きできる。
諸天善神は、桃符を持つ人を片時も離れず、守護し、天人と一緒に遊楽することができる。
肺病は、ただちに、全治し、以後は、絶対に罹らない。
肝・心・脾・肺・腎の五臓から起こる、中風を治す。
疾病にかかわらず、あらゆる病人をたちまちのうちに、全快させる。
中略
悪神、悪鬼、狐狸などの、一切の祟りを払うことができる。
暴風・落雷の災いを受けず、毒虫・毒蛇に害されない。

上げれば、切が無い。
要するに、とんでもない、妄想である。

道教を信じない者でも、効き目はあるというのだから・・・呆れる。

研究家は、
こうした現世利益の精神が強く貫かれているものは、それを生み出したそれぞれの宗教の性格をのりこえて、現実に苦しい生活をおくっているもの、とくに庶民層のなかにとりいれられていくのが自然の流れである。
と、言う。

それが、極まって、妖怪変化、亡霊などを、圧伏する威力があると、された。
要するに、特別な、霊的力があると、信じられたのである。

結論を言えば、現世利益的効果が、あるということが、起源である。

ここで、一つ、日本の伝統としての、修験道に関して書く。
修験道とは、極めて、曖昧模糊である。

近世では、修験宗といわれた。
えんの行者が、開祖といわれるが・・・

それ以前は、験者、げんざ、山伏の活動があるが、それらが、修験道として、統制されていたのではない。

山伏の活動は、平安時代の中期からあらわれはじめた。
そして、中世、近世と、時代が下るにつれて、活発になってゆくのである。

それらは、武士なのか、僧侶なのか、神主なのか・・・何とも、決めようも無い、服装や、行状をとるのである。

修行の場が、古来からの、山岳信仰の中心的名山なのであることから、神道の一派とも考えられるが、京都の天台聖護院と、真言の醍醐三法院が、それぞれの本山派と、当山派の本山と、仰がれていると、仏教の一派のようでもある。

民衆の側からは、山伏とは、呪術、祈祷で、病を癒し、悪事災難を逃れさせる力がある、修行者と、考えていた。山伏も、そのように、振舞う。

だが、その呪術の大半は、陰陽道のマジックと同じで、その意味では、陰陽道の一派とも、受け取られていた。

この、修験道について、もう少し、書くことにする。

現在のところも、定義づけが難しく、更に、信じがたい蒙昧が、はびこっているのである。





posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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