2012年06月10日

神仏は妄想である。373

日本に、儒教が入ってきた際に、道教も、入ったのである。
ところが、その道教は、民衆道教である。

道教には、成立道教と、民衆道教がある。
成立道教に関しては、後で、少し説明する。

兎に角、日本に入った、民衆道教は、あらゆる日本文化に、影響を与えた。
そして、この民衆道教は、日本人の生活の内部まで、入るのである。

日本、古代の末ごろまで、道教的な形で、歴史の表面に露呈していたが、いつしか、神道、仏教、陰陽道、修験道、そして、民間信仰の中に、習合されるに至っている。

魔物は、このように、自然に目立たずに、入り込むものなのである。

余計な言葉の世界のなかった神道にも、大きな影響を与えるほどに、浸透してゆく力は、何だったのか。

例えば、四方拝のような、儀礼、八十嶋祭に泰山府君を祀るという、祭祀、鎮宅霊符神、星宮神社のような信仰がある。

星宮の祭神は、本来、北斗星である。
それも、道教から、もたらされた。

更に、北斗星信仰が、仏教と習合して、妙見菩薩が生まれた。
そして、日本の神と習合して、各地に妙見宮が多くなり、今も、庶民の信仰を集めている。

驚くべきは、密教系寺院の、星曼荼羅である。
これも、道教が仏教、密教に習合された結果の産物である。
この、曼荼羅の前で、庶民は、息災安穏、増長福寿を祈る。

桃の節句、菊の節句、そして、子供の日の、菖蒲の節句。
七五三の宮参り。

民間信仰に習合されて生まれた、民俗であるが、道教の影響は、凄まじいのである。

故に、今では、果たして、道教と呼べるのかといえば、日本の伝統文化となっているのであり、道教とは、言えない。しかし、大元は、道教による、影響である。

道教的なものは、すべて、今では、裏側に隠れたのであり、表は神道であり、仏教であり、伝統行事である。

研究家は、いかに、道教からの信仰や習俗と言えども、日本で生まれ出て来たものは、道教と呼ぶことは出来ないと、言う。

日本における、中世以降の道教は、もはや、道教から離れたものであるとも、言える。

ただし、私は、それらを迷信の所作に陥れ、庶民を蒙昧にしたことは、確実だと、考えている。

お札、お守り、護符なども、遠からず、道教的である。

ところが、不思議なことに、老荘思想の文献、経義を説く経典が、日本に渡来しても、それらは、特に目立たず、儒教主義を持って対処したゆえに、奈良時代は、老子、荘子が、使われることはなかった。

その、講義が行われたのは、平安時代に入ってからである。

また、近世では、儒学の中でも、朱子学が主流となったが、民間の漢学者の中では、老荘を論じる者が相当数いたのである。

老荘思想は、かなり読まれ、研究されていたとも、言える。
だが、道教は、日本では、宗教には、成り得なかった。

そして、日本では、老荘思想は、道教の神学として、行われていないのである。
それは、別物という意識である。

それは、教義関係、経典類や、神仙伝などに対して、それほどの関心が向けられなかったということでも、解る。

故に、道教の教えに関しては、それが老荘思想についてであっても、読書人の段階に留まっていたのである。

ただし、中国と、日本の違いは、倫理的なものは、儒教倫理を取り入れ、中国は、実践道徳として、儒教倫理より、道教の倫理によって支えられていたということである。

道教の実践道徳は、宋代以降で「善書」として道徳律をまとめ、「太上感応篇」その他がある。

日本では、江戸時代に入り、それら「善書」による、道教倫理の影響がある。

江戸時代の、在野の教育者の一人である、広瀬淡窓などは、道教の「功過格」に基づき、「万善簿」十巻を著して、日々の実践規範としたほどである。

更に、道教の医方は、民間療法に取り入れられた。
中でも、導引と調息は、按摩として再生され、近世以後、現代に至るまで、残る。

江戸時代の、貝原益軒は、道教の養成法に傾倒し、「養生訓」に、大幅に採用している。
その健康法は、現在でも行われているのである。

さて、医方の中にある、房中は、性行為による、教えであるが、中国では、淫靡、淫猥に流れ、それが宗教としての道教を、貶める主因となった。

この傾向は、日本でも、同じである。

この、房中に関しては、公的に禁止されたが、江戸末期に至るまで、公然と横行していたのである。

また、現代でも、この房中法を、講じる者がいる。

セックスに関する、歴史的文献は、数多い。
アラビア、インド、中国・・・
廃れることがない。

だが、結局は、淫猥な状態に陥るのは、目に見えている。
道教の場合は、不老長寿を求めてのものだと、言われるが、結果は、単なるセックスの楽しみである。

セックスにより、千年も生き続けることなどは、いまだかつて、一人もいないのである。
中国人の妄想以外の、何ものでもない。




posted by 天山 at 07:21| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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