2012年06月06日

最後の沈黙を破る63

日本人の、ボランティアの考え方には、多分に、キリスト教もどき、の、考え方がある。

例えば、与えることによって、与えられる。
これが、ウソであることは、実践している人なら、見抜ける。

一度や、二度の、ボランティア活動で、貧しいながらも、笑顔を絶やさない子ども達に、元気を貰いました。
更に、勇気を貰った・・・
励まされた・・・

色々ある。

それらは、皆、ウソである。

与えることによって、与えられることは、まず無い。
ところが、私がそれを書くと、あなたの心の問題なのです、という、正義感溢れた、メールなどを、受ける。

つまり、与えることによって、与えられると、信じているのである。

実践していれば、与えることによって、更に、奪われるということが、解る。そして、更に、心も奪われる。
つまり、ボランティアは、終わらないということである。

与えられると言う人は、ボランティアではなく、気分で、行うのである。
それを、ボランティアと、勘違いする。

日本語では、奉仕、という。

奉仕という言葉は、キリスト教の、概念を超える活動である。

マザーテレサは、神様のために、良いことを、と言う。
彼女は、神様が主であり、支援する人の存在は、従である。

奉仕は、そのもの自体が、神と同じである。

言葉遊びは止める。

兎に角、本当に、人のために、何かをすることは、奪われることなのである。
与えて、与えて、与える行為が、ボランティアの本質である。

ちなみに、主イエスは、上着を一枚求められたら、二枚あげよ・・・と、言う。
左の頬を打たれたら、右の頬も差しだせ・・・

旅行会社が、ボランティアツアーなるものを、企画する。
そして、それに、参加した人たち・・・

優雅に、言う。
子ども達の、笑顔に、元気を貰った・・・

実際は、皆々、商売なのである。
その国と場所は、言わないが、明らかに、商売をしている。

受け入れる施設も、商売なのである。
しかし、子供は、それを知っている。
知っていて、演じているのである。

私は、支援を必要とする、多くの子ども達に、出会っている。
彼らは、こちらの心を、見抜く。
そして、その対応を演じるのである。

子供を、馬鹿にするなと、私は言う。

半日程度の、触れ合いで、子供が、心を開くわけが無い。

子供は、演じるのが、上手である。
だから、大人の心も、見抜く。

この人たちは、自分の満足のために、来ていると、見抜くのである。

だから、笑顔で、その人たちが、喜ぶように、演じている。

利益は、旅行会社と、その施設を運営している者が、取る。
子供たちの、ためには、何も無い。
子ども達は、ただの、道具である。

だから、私は、子ども達に、見抜かれていいように、すべてを、晒す。

私の友達。
でも、今度は、いつ来られるのか、解らない。
私は、あなたのことを忘れないから、私のことも、忘れないで・・・

今度、来た時、私の姿を見たら、必ず声を掛けてね・・・

私は、君の仲間だ・・・

日本ではねーーー私も、貧しいんだよ・・・
でも、多くの人が、私を応援して、こうして、君達に会えることが出来る。

これは、皆、日本からの、プレゼント・・・

フィリピン、ネグロス島、バコロドで、ストリートチルドレンに、食べ物と、飲み物を配っていた。
子ども達は、皆、私のことを、ファザーと呼ぶ。カトリックの神父だと、勘違いしていた。
そんなことは、どうでもいい。

一人の女の子が、不思議そうに見ていた。
そして、私が、渡し終えて、ホテル戻ろうとした。

すると、女の子が、私の前に立った。
何も言わない。
私は、言った、また、来るね、今度は、服を持ってくるよ・・・
女の子は、何も言わず、黙って私を見ていた。

忘れられない光景だった。
彼女は、何を言いたかったのか・・・

ネクスト・タイム
スイュア・ゲン・・・
その女の子に、後ろ髪を引かれる思い。
どうして、あなたは、私たちために・・・
という、思いを感じた。

格好よく言えば、私は、あなたを愛している・・・
と、そういうことになるのか。
違う。

ただ、私は、親もなく、生きていく、あなたに、出来ることをしたい・・・
ただ、それだけである。
あなたから、何を求める訳ではないけれど、あたなに、何かしたい・・・
ただ、それだけである。

突き詰めると、それは、私の性格である。




posted by 天山 at 00:01| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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