2012年05月23日

天皇陛下について112

第三十一代用明天皇、585年より、587年。

その御生母は、蘇我堅塩媛、そがきたしひめ、である。
蘇我稲目の娘であるから、蘇我馬子と、兄弟である。

物部守屋は、穴穂部皇子を擁立したが、皆は、欽明天皇第四皇子、大兄、橘豊日尊に帰した。

だが、即位二年後に、病に罹る。
天皇は、蘇我馬子の後援、御生母の影響もあり、群臣に
仏に頼ろうと思う。いかがだろうか・・・
と、問い掛けた。

皇子の頃より、仏法を信じ、神ながらの道を尊ばれた皇子である。

宗教的には、中立な立場をとられていた。

その天皇が、崇仏とは・・・

大連の、守屋と、中臣勝海は、
とんでもないことでございます・・・
二人は、仏法に反対の立場である。

大臣の馬子が言う。
天皇の仰せである。それに背くとは・・・

そして、即座に、豊国法師という僧を連れ、奥御殿に入った。

それを見た、守屋に、一人の役人が、囁く。
あなたの帰り道に、待ち伏せして、討ち取ろうとしています・・・
それを聞いた守屋は、即座に、帰宅し、兵を集めた。

中臣勝海も兵を集めたが、まもなく押し寄せた、馬子の兵によって、殺された。

更に、馬子も兵を集めて、守備の態勢に入った。

大臣蘇我と、大連物部の、対決である。
これは、一見、仏教の理由に見えるが、実は、豪族の覇権争いである。

それは、後々に解る。

だが、用明天皇は、その間に、お隠れになる。

馬子が、動いた。
まず、穴穂部皇子の宮を襲撃し、殺したのである。
皇子を殺すという、無礼であるから、馬子の考えが解るというもの。

そして、馬子自ら大軍を率いて、守屋の屋敷を攻めたのである。

守屋は、物部であるから、武人である。
馬子の軍勢は、三度、追い返された。

この、馬子の軍勢の中に、14歳の、後に聖徳太子といわれる、厩戸皇子が、従軍されていたのである。

要するに、当時の天皇家は、蘇我の血が入り、親戚関係であり、そうする他に手は、無かったのである。

厩戸王子は、その苦戦を見て、ぬりで、という木の一枝から、小刀で、四天王像を作る。
そして、勝たせてくだされば、四天王のために、寺を建てましょうと、祈られた。

馬子もまた、勝たせてくだされば、寺を建て、仏教を広めますと、祈った。

その後の戦いは、馬子の軍勢に、勝どきを与える。
榎の大木の上から、矢を放っていた、守屋を、馬子の兵が、射殺したのである。

結果、物部一族は、全滅し、滅びた。

蘇我氏の勢いは、旭日昇天になった。
そして、その本性が現れることになる。
無道である。

この戦いの後で、用明天皇の弟である、皇子が、即位した。
第三十二代祟峻天皇である。587年より、592年。

天皇は、任那の再興を願い、蘇我馬子の無道を、懲らしめようとした。
それを知った、馬子は、何と、東漢直駒、やまとのあやのあたいのこま、に命じて、天皇を殺害させたのである。

これは、後に、大逆事件として、知られる。

更に、馬子は、駒を殺した。
つまり、わが身の非道を、駒に擦り付けたのである。

天皇に対し奉り、不届き、不忠であるとして・・・
馬子の横暴が、ここに極まるのである。

日本書紀には、馬子の娘である、河上娘と密通したとあるが、違う。

天皇崩御の後、即位したのが、欽明天皇の皇女、豊御食炊屋姫、とよみけかしきやひめ、である。
日本における、最初の女帝である、推古天皇である。592年より、628年。

18歳で、敏達天皇の皇后となられ、34歳の時に、天皇崩御にあわれている。

即位後、御甥の、厩戸皇子を、摂政として、任命された。
政治の、すべてを、任せたのである。

厩戸皇子は、第三十一代用明天皇の第二皇子である。

幼少の頃より、その聡明さは、知られている。

厩戸皇子にとって、馬子は、叔父に当る。

皇子は、推古元年に皇太子となり、摂政に任じられ、荒稜の地にお移りになられた。
これが、今日、大阪の茶臼山の東にある、四天王寺のはじまりである。

現在のものは、文化9年、1812年に出来たものだが、場所と寺名は、昔のままである。



posted by 天山 at 06:24| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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