2012年05月21日

天皇陛下について110

仁徳天皇崩御82年後の第二十二代、清寧天皇、せいねいてんのう、の御代を書く。

西暦480年頃であり、紀元は、すでに千年を超えて、1140年である。

この時、危機が起こった。
皇統、天子さまのお血筋が絶える。
現在も、女性皇室・・・云々などと、天皇家の問題があるが、当時も同じく、世継ぎが無いという、危機であった。

日本民族は、天皇、皇室の存在なくしては、考えられない国である。
そのことを、十分に知る人は少ない。
天皇が無くても、国があるという人もいるだろう。

本当だろうか・・・
権力は、いずれ倒れる。しかし、権威というものは、倒れない。
そして、その権威を重んじる日本民族。いや、先祖たちである。
それが、国を安定させる、智慧だったという。

更に、独裁制ではなく、まず、祖先の気持ちを鑑みて、更に、祖先の御霊をお守りして、その教えを、脈々と続けて行くこと。
合議制、つまり、話し合いの政治である。
そして、どうしても、結論が出ない場合は、そのままにして、時を待つ。
それでも、駄目な時は、天皇の、お言葉に従うという、国である。

天皇の、お言葉を、詔、みことのり、という。

さて、この時期に、播磨の国司の祖である、小楯という人が、朝廷の命を受けて、田税を収めて歩く途中で、赤石の郡の、忍海部細目、おしみべのほそめ、の家に、招かれた。

新築祝いである。

祝宴であり、酒が振舞われた。
歌が出る。

末座に、二人の少年がいた。
兄を、島郎、しまのいらつこ、弟を、丹波小子、たにわのわらわ、である。
二人は、細目家の、使い走り、賎しい火焼童だった。

月が二人を照らした。
小楯は、それを見て、ハッとした。
何か、普通の子とは違う。
たたずまいが、貴人の様子である。

誰か、舞う者はいないか・・・
細目が言った。

郎でも、少子でもいいから、舞え・・・
と、命じる。
二人の間で、兄が、いや、弟がと、やり取りがあった。

人々は、そのやり取りを見て、賎しい火焼きの子にしては、礼儀正しいと、感じた。

実は、この日の昼間、二人で話し合っていた。
私たちは、後胤(天皇の血筋)でありながら、この家の下男となり、馬を飼い、牛を追って年月を過ごした。これは、すべて素性を隠すためである。しかし、あの国司は、立派な方だと思う。素性を明かしてみましょう。

弟の少子の提案である。

兄は驚いた。
まて。今、名を明かしては、父、皇子のように命を奪われることにならないか・・・
父とは、履中天皇の子、市辺押磐皇子、いらべおしはのおうじ、である。

しかし、弟は、剛毅な性格である。
今宵こそ、機会です・・・

兄は、その気持ちに負ける。
そして、それは、お前の使命だと言う。

しかし、そういったが、まず、兄の郎が舞った。
続いて、弟である。

弟、少子は、歌った。
いなむしろ 川添柳 水行けば なびき起きたち その根は失せず
繰り返し舞うのである。

小楯は、更に歌って舞ってみよ、と言う。

もののふの わが夫子が 取りはける 太刀の手上に 丹画きつけ その緒には 赤幡をたち 赤幡立てて 見ればい隠る 山の三尾の 竹をかき刈り 末押しなびかすなす 八弦の琴を調べたる如 天下治めひし いざほわけの 天皇の御子 市辺之押歯王の 奴末と歌い舞う。

意味は、
もののふは、赤旗をなびかせ、太刀を腰にという、勇姿をみて、悪人どもは、皆その威厳に服した。また、竹を切り、それを手に取り、さらさらと、葉末を鳴らすように、国民に号令し、八弦の琴を調べるように、国民の心を一つにまとめた履中天皇の皇子、市辺之押歯王の子である。

小楯は、仰天した。
二人は、履中天皇の御孫であらせられる・・・

ものども どけ どけ
下座に下りて、小楯は二人の元にすがり、大声で泣いたのである。

島郎は、億計王、おけのみこ、丹波少子は、弘計王である。

後に、兄のたっての、提案で、弟君が、第二十三代、顕宗天皇となり、その後が、兄君の、第二十四代、仁賢天皇であらせられる。

現在も、このように、天皇の血筋を持つ、男子を推すとよい。
敗戦後に、皇室から、剥奪された、皇族の中にも、いらっしゃる。

兎に角、皇統を守るという、精神が、日本民族の、宝であり、智慧である。

この、権威が、今年2012年、平成24年で、皇紀、あるいは、紀元2672年である。
堂々たる、歴史である。



posted by 天山 at 05:50| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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