2012年05月20日

天皇陛下につて109

第十五代の、応神天皇(270年から310年)
この天皇は、父を知らない。だが、母は、古代史で有名な、神功皇后である。

その御誕生は、九州の、宇美であった。
ご成人するまで、母皇后が摂政を勤める。

応神天皇の御代、儒教の渡来が注目される。
その16年、285年、百済から、王仁、ワニが来日し、論語十巻と、千字文一巻を携えてきた。

その前年に、百済王が、アチキを日本に派遣し、良馬二匹を応神天皇に献上している。
アチキは、学問に優れていたため、天皇は、皇太子の家庭教師にした。

そして、天皇は、アチキに、
ところで、百済には、アチキ以上の学者もいるのかと、
質問された。

アチキは、即座に、王仁と言うものがいますと、答えた。
このことから、朝廷では、改めて、百済に使いを送り、王仁を招いたのである。

後に、アチキも、王仁も、日本に帰化している。

その他にも、百済からは、機織、裁縫の上手な工女を送ってきた。
更に、鍛冶の職人、酒、醤油を作る者たち。

そして、シナの始皇帝の子孫だという、弓月君、ゆづきのきみ、の来朝、帰化である。
彼は、長いこと、百済に住んでいた。

応神天皇の威徳を慕い、一家一族百二十七県の民を引き連れてきたのである。

彼は、養蚕と紡織の技に優れていた。
そして、波多公、はたのきみ、という、姓を賜わっている。

これを見ていると、当時の大陸、半島は、いつも乱れていたことが解る。
人民の住みにくい風土であった。
それに反して、日本は、平和で安心して住むことが出来たのである。

漢人の、アチノオミという者も、十七県の親類を率いて、来日し、帰化している。

さて、応神天皇の御子、大さきぎの尊と申し上げるのが、第十六代の仁徳天皇である。

皇太子は、うじのわきいらつこ、である。が、彼は、帰化した王仁について、学問されるうちに、大きな疑問を持たれた。
弟の身分で、兄を越えて、天子の位に就くのは・・・との、思いである。

皇太子は、大さきぎの尊の弟だったのである。
これが、応神天皇お隠れの後で、表面化する。

皇太子は、
兄君こそ、ご即位されるべきですと、主張した。
だが、兄は、
父君が決めたことであるから、それを破っては、子の道にもとる
と、譲らないのである。

そのために、天皇の御位が、三年間、空位となった。

兄の尊は、難波に、皇太子は、宇治に、お住まいになった。

ある時、漁師が鮮魚を献上しようとして、宇治に、持参した。
すると、皇太子は、
天皇は私ではない。難波にいらっしゃる、兄君こそ、天皇であらせられる。そちらに届けるように
と、仰せられる。

次に、漁師が、難波へ行くと、
いや、私は、違う。宇治にいらっしゃる方が天皇である。
宇治へ届けよ。

鮮魚が行ったり来たりしているうちに、腐る。
漁師は、泣いてしまったという。

そこで、思い余った皇太子は、自分がこの世にいなければいいのだと、命を縮めてしまうのである。

驚いたのは、兄である。
宇治に掛け付け、皇太子の遺骸にすがり、嘆いた。
ご遺骸を、宇治の山の上に葬られ、難波にお帰りになる。

そして、御位に就かれたのである。

皇居は、高津宮である。
今までは、大和が多かったが、天皇ははじめて、摂津にお移りになられた。

その即位の儀は、実に質素だったという。

住まいも、荒壁のまま、柱にも天井にも、飾り無く、屋根の茅も、そのままで、切り揃えることもしなかった。
それは、庶民の負担を考えられたからである。

ご即位四年の、春二月、天皇は、お側の人々に、仰せられた。
高いところに登って四方を見るが、民の煙が立たない。これは、貧しさのためではないか。都に近いところでも、このようである。遠い国は、もっと酷いのではないか・・・

翌三月、詔、みことのり、が、くだった。
三年間、税金、労役を課すことはしない。

しかし、そのため、御殿は荒れ放題、雨は漏れ、風も容赦なく、御衣、褥を濡らした。星が、屋根の破れから、見えたという。

その三年間に、豊作が続いた。
仁徳天皇は、高台に再び、登られ、民の煙が盛んに見えた。

良かった。私は富んだ。これで大きな心配がなくなった。
と、仰せられると、皇后が、
何を富んだと、仰せられますのか・・・

あの、民の煙である。人々が富んだためである。天子というものは、民をもって、元としなければならぬ。いにしえの聖の君は、一人でも、こごえるものあれば、顧みて、己をせめた。今、仮に、民が貧しいとすれば、それは、私が貧しいと同じである。今、民が豊になった。それは、私が豊になったことと、同じである。

この、お言葉を、後の人が、歌に詠んだ。
高き屋に
のぼりて見れば
煙立つ
民のかまどは
にぎはひにけり

また、民の方は、荒れ放題の、御殿を見て、
これは、申し訳ないこと。皆、豊になりました。税も、労役も、お申し付けください。
と、申し出たが、いやもう少し、もう少しと、それから、三年を経て、やっと、それをお許しになられたのである。

日本書紀に、その時の民の働き振りが出ている。
ここにおいて百姓うながされずして、老を助け幼を携えて、材を運び茅を負ひ、日夜と問はずして力を尽して競い作る




posted by 天山 at 00:00| 天皇陛下について3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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