2012年05月17日

霊学60

彼は、ダブリンのムロスにあるセント・ニコラス寺院に属するセント・メアリ教会付属の牧師であったが、「天国の算術」を見出すことに熱心で、1859年に出された彼の論文は、代数とその計算法を、形而上学的、道徳的、社会的、そして政治的な問題、さらに教会に関する事柄にまで適用しようと意図したものであった。彼は詩篇第18番を計算法の用語に翻訳し、次のようなことを論証した。

ダビデの教育上の優秀さとか資質―――彼の敬虔さ信心深さ、謙虚さなどーーーの増加量は非常に大きなものだったので、彼の生来の才能と地位とに乗ずると、その積は、量において王位や名誉や権力などに、つまり天上の属性に匹敵するほど偉大なものである。
コーエン

面白いのは、それを、家庭問題にも、及んだという。
例えば、女中の行為の変化が、この家庭の色々な成員に与える影響を、計算するという・・・

ところが、グレック氏のこれらの功績は、パーソナリティーの「測定」においてもっと大きな手柄をたてようとして躍起になっている今日の熱狂者たちによって、とっくに追い越されてしまっている始末である。
コーエン

ところが、である。
蒙昧は、続く。

真っ当な人も現れたが、真っ当ではない人の方が多い場合は、真っ当ではないものが、正しいとされるし、心理学に、真っ当か、正しいかなど、問うこと自体が、誤りなのである。

簡単に言えば、どうでも、いいものに作ることが、出来るのである。

アメリカの牧師である、マフィーという人の、法則がある。
有名である。
それを真っ当か否かと、論ずることは、出来ない。
ただ、信じる人たちが、信じている。

マフィーが、とても、偏屈で、人の、ど肝を抜く、逆説の主であるかが、よく解るのである。
そこに、ベースになるものが、新約聖書である。

それで、愛好家たちは、当っていると、占いのように、使用する。
そうだ、そうだ・・・
そして、マフィーの法則にすっぽりと、自分を嵌めてしまうのである。

それで、一丁出来上がりになる。

一世紀前に、プールは、数学的概念を借りて、次いでこれを新しい対象に適用する場合に、その用法を支配している法則が不変のままであると考えるのは、誤りであると警告した。パーソナリティーを統計学的な武器でもって征服しようとする見当違いの試みにあっては、この警告はひろく無視されてきているのである。
コーエン

つまり、パーソナリティーについて、というものが、いかに、偏狭であるかということだ。

心理学用語を多用して、パーソナリティーを語る人たちが、後を絶たない。
統計学的な武器で・・・
その通り、統計学なのである。

その統計に、人を当て嵌めようとする、馬鹿な心理学愛好家たちである。
児童心理、発達心理には、それなりの、統計的な考え方が、ある程度、当てはまる。しかし、それが、すべての人にということは、無理がある。

だから、それらの心理学的考察には、誤りがある。
統計学的判断により、通常と違うとして、異常と判定された場合に、どうするのか・・・
矯正が必要なのか・・・

私は、必要ないと、思う。

この、必要ないは、確信である。
新しい子供たちが、既存の心理学の枠に入り切れると思うか・・・

それは、時代性と、時代精神を、無視していることになる。

まだ少年であるものが、企業を作る時代である。
それを、どのように解釈するのか。

心理学で言うところの、成長の過程を、超越して、成長する、子ども達である。
つまり、私は、心理学というものは、いつも、流れている、流動的であるという。

解ったような、解説は、もう、無しである。
人間を扱う、特に、心を、扱うものは、常に流れているのである。

ということは、心理学というものは、定説が無いという学問であるということだ。

定説を作らない、作れない学問、それが、心理学である。
基準も、設けられないのである。
だが、基準も設けられないということは・・・

困る。
それで、学者となって、大枚な金を得ている、大学の教授などは、どうする。
それは、それでいい。

百年前の、心理学を講義していればいいのである。
そういう時代もあったという・・・

学問は、謙虚でしか、有り得ないし、また、学問は、変容するのである。
解らないことは、解らないのである。

新しい世界を、生きる人の、心理など、誰が解るのか。
解るというのは、単なる、傲慢である。




posted by 天山 at 00:08| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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