2012年05月15日

霊学58

パーソナリティの研究においては、攻撃開始の根拠地を見つけることがむずかしいために、そのほとんどは、すでに棄てられてしまっている、暗い荒れ果てた老朽理論の奇妙な陣立てに頼ることになる。
コーエン

日本の心理学愛好家たちは、それを無批判に取り入れて、騒ぎを大きくし、何ら、それを日本的に解釈しなかった。

今でも、賢い馬鹿たちは、老朽化した理論で、何やら言うのである。
そして、心理的には・・・

それに対して、コーエンは、明確に、
かなり気のきいた陣立てのうち二つのものは、全く簡単に「inter personal」という表現にハイフンがあるかないかによって、それと見分けることができる。「inter-personal」と「interpersonal」かである。
ハイフンで結ばれている・・・にあっては、人はおのおの個人的な行動の「法則」に支配され、そして事情によっては他者に関係をもつ、一つの自己充足的な存在であると考えられる。これはたんに、J、S、ミルのいう個人主義にすぎない。彼によれば、社会のなかの人間といっても、それは、個人的に人の法則に由来し、またこれに帰着させることのできるもの以上の性質をもつものではない。そしてこのようなドグマが、いわば独立独行の人間についての心理学の礎石を与えたのであった。
ハイフンのない・・・は、反対に、個々の人という概念は形而上学的なものであって、このような単一の存在についての経験的知識は得られないのだ、という態度をとる。
われわれは、単に人と人との間の関係について知りうるにすぎない。したがって、「interperson」から始めるべきであり、個人から取り掛かってはならないのである。
と、言う。

心理学が、何故起こりえたのか・・・
物理学、化学、地質学、数学、発生学、それと伝染病学、これらがおのおの心理学への刺激の源となったのである。
コーエン

経済学でさえも、その効用をもったのである。

心理学の歴史は、そのような類推に基づいた、着想の流れと考えられる。

だが、一つの領域で妥当する考えが、別の領域に影響を与えるようになるまで、時間的遅れがある。その時、すでに、その考えが、本家本元で棄てられてしまっていることがある。

日本の心理学者で、早くから、それに気付いていた一人に、岸田秀がいる。

パーソナルとは、日本語では、性格と言われる、
その、性格の傾向と対策・・・

性格分析が、いかにお粗末であるかは、知られた事実である。
大雑把なことを言えば、遠からず、当るのである。

占い師と、変わりないのである。

岸田秀のエッセイの中に、
要するに、性格とは当人の「大袈裟に言えば」世界認識における盲点を表しているのであって(したがって、もしすべてを見通す全知全能の神が存在するとすれば、彼は無性格であろう)すなわち、ポジティブなもの「実体」ではなく、ネガティブなもの「欠落」であって、彼には何が見えていないかを知ることが、彼の性格を理解する鍵である(そして、言うまでもないことだが、他人の性格を判断するわれわれ自身の世界認識にもどこかに盲点があるのだから、他人の性格を判断してその「歪み」を正してやろうとするのは、馬鹿が馬鹿を指導するようなものである)。したがって、ポジティブなもの「実体」ではない性格を、血液型とか、リビドーの内向または外向とか、いろいろな衝動の力関係とか、大脳皮質に形成された条件反応とかの実体的なものによって説明しようとするのは、何かが欠けていることでできている穴という現象を「穴とはいかなる物質でできあがっているのか。丸い穴の物質組成と四角い穴のそれとはどう違うか」という観点に立って研究しようとするのと同じであって、まさに荒唐無稽である。
と、ある。

これを、大真面目に、学問として、取り扱う人たちの、神経が知れないのである。
実に、神学に似た、妄想であるとしか、いいようが無い。

心理学を学ぶと、何かが、解った気分になるというのが、いい。
解った、つもりである。

そして、そこから、生まれる臨床心理士という、人たちも、解ったつもりで、人の悩みを聞いている。
そして、回復に向かいつつあるなどという、妄言を吐く。
本当は、彼らではなくても、誰でも、出来ることなのである。

要するに、話しを、よく聞く。
それだけで、人は、その人なりの、人に成ってゆくのである。

少しばかり、道に迷ったのであり、専門家といわれる人たちの、存在などは、いらないのである。

暇な、爺さん、婆さんでも、できるのである。

心理学の方法によって、立ち直ったという学者が、事例を書くが、治らなかった人の方が多いのである。

そして、治らなかった人は、二度と足を運ばないから、解らないのである。

昔、精神分析で、うつ病を治療するのに、どれほどの時間を費やしたか。
しかし、治らないのである。
ところが、坑うつ剤、一粒で、めきめきと、改善に向かった。

何のことは無い、脳内物資のゆえであり、いくら精神分析をしても、治るわけがない。
ただ、それに意味があるとしたら、暇をもてあました、金持ちの奥様くらいであろう。

そんな暇の無い人たちは、早々に、病院に行き、坑うつ剤を処方されて貰った方が上々である。

親はなくとも、子は育つ。
実に、明言である。

心理学がなくとも、人間は、成長するのである。
しかし、もし、心理学を学ぶとすれば、そこに、大海に船出するほどの、覚悟が必要であるということ。

常人には、出来ないことである。
いずれ、無意識について、書き始めるが、ユングは、狂う寸前までいった。
そして、その狂いを止めるために、東洋思想と、オカルトに目覚めた。

心理学というもの、単独では、知りえないものである。
つまり、心理学書だけでは、危ういのである。

人間の心などという、魑魅魍魎の巣に、入り込むなど、よほどの馬鹿でない限りは、しない。




posted by 天山 at 05:50| 霊学2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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