2012年05月14日

神仏は妄想である。369

西洋の自然観を、ミル、スピノザによって、少し垣間見た。

ただ今は、神道の自然観であるから、一応、神道の自然観の屁理屈ではなく、そのままを伝える。

高御産巣日神、たかみむすびのかみ
神産巣日神、かみむすびのかみ

造化神、天之御中主神、あめのみなかぬしのかみ、の次ぎに現れる神である。

そこで、学者、宗教家の、妄語は、取り上げない。
本居宣長にせよ、その後の、大本教にせよ、大本教から、数多く出た、新興宗教の教組たち、例えば、世界救世教、生長の家などの、解説、解釈は、批判の対象にも、ならない。

勝手な解釈、勝手な、妄想である。

あれほど、語るということは、神道のことを知らない。
それよりも、大和言葉について、無知なのであるから、取り上げることはしない。

私が言うのは、むすびの神とは、働きのことをして、神と呼ぶ。

生まれるのも、むすび、であり、成長することも、むすび、である。
自然は、その、むすび、に溢れている。

折口信夫も、大変興味深いことを言うが、それも、思いつきである。
それが、アカデミズムにて、ご大層な説として、通るのは、彼が、有名な学者であるから。
ただ、それだけ。

自然は、むすび、に、溢れていると、古代人は、感じたのである。
そして、自然の働きを、むすび、と称して、以後、一切を語らない。

それを、産土神、うぶすなのかみ、として、お祭りした。
自然の働きを、神として、お祭りし、感謝した。

事は、単純明快である。

そして、自然は、人知では、計り知れないゆえに、それを霊の働きと受け入れたのである。

それで、神という、尊い称号で呼ぶことになる。

だが、超越した存在ではない。
人間も、かみ、といえば、守、監、神といい、テリトリーを守り支配するものという意識である。

人間より、上の自然の働き、それを神として、尊びお祭りする。
それが、村祭り、海祭り・・・
自然のあるところは、無いのであるから、至る所で、祭りが行われた。

それは、極めて、信仰の所作に見えるが、信仰ではない。
挨拶である。

尊いものに対する、挨拶であるから、信仰とは、違う。
日本人には、信仰という、邪魔なものは、必要ない。

何せ、自然は、隣どころか、その中に包まれて暮らして生きているのである。
自然との、共生、共感以外の何ものでもない。

これに、特別な意味をつけるということは、邪心である。

折口信夫は、
産土の神は、天照大神の系列とは系列がちがうので、その点をはっきりしておかないと、考えが行き詰まってしまう。
という、それは、縁結びの神のことである。
その、縁結びの神と、産土の神は、別物であるという。

産土の神に対する信仰が、薄くなり、その後、縁結びの神の信仰が、入ってきたので、この両者は、別にして、話さなければならない。
と、どうでもいいことを言う。

霊学から言えば、縁結びの神とは、産土神の眷属である。

折口は、産土の信仰が消えたという前提で、話を進めているが、全く、違う。
産土神の信仰は、最初から無いのである。
何故なら、一緒であるから、意識せずとも、いいのである。

生きていること、自体が、産土の行為である。

人間が生まれて存在していること、が、産土であり、自然の働きも、産土の行為である。

古神道を名乗る、大本教をはじめ、そこから、派出した、多くの新興宗教の教組が語ることは、単なる妄想である。
よく解らない信者を、言葉遊びで、騙しているのである。

意味づけ・・・
それによって、如何に信じる者が、騙されるか。

むすぶ、とは、掬ぶとも書く。
ここから、折口は、この掬ぶという、文字にかけて、新発見のようなお説を語る。

水を掬ぶは、信仰的に言うと、人間の身体の内へ霊魂を容れる・霊魂を結合させるということらしい。

ことらしい・・・
そして、大そうなことを語る。

つまり、水の中へ霊魂を容れて、それを人間の身体の中へ容れるというのが、産霊の技法だったことになり、そういう意味で、むすぶと言う言葉が、水を掬って飲む動作にも用いられているのである。
現在では、そうした産霊の精神的な内容は、失われてしまっている。
とのこと。

産土を、産霊と、書くことなど、作為的である。

失われてしまったのではない。
すでに、そういうことを、意識せずに、身につけたのである。

当たり前のこととして、身につけた。
それが、民族の精神のあり様である。
だから、信仰などという、言葉にしては、誤るのである。

所作を身につけたのである。

さて、神道でも、古神道でも、何故、言葉遊びに始終するようになったのか。
それは、中国からの、書物による。

最も、影響を受けたのが、道教である。
実に、訳の解らない、道教という、宗教か、屁理屈か・・・

600年代に、大量の書物が入っている。
その中に、道教、儒教の物、多数あり。

小野妹子が、遣隋使として、隋に出掛けたのが、607年であるから、その前に、大量に書物が入っているのである。
それらが、奈良から、平安にかけて、日本の言葉に、大きな影響を与える。

更に、生活にも、である。
その、道教というものを、少し見ておかなければ、理解できない。




posted by 天山 at 06:12| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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