2012年05月13日

神仏は妄想である。368

神の存在と、その神聖性は、奇跡から証明されない、という、スピノザを見てきた。
まさに、当時のユダヤ人、及び、聖書研究、解釈に対する、堂々たる、否定である。

それでは、奇跡は、何故起こるのか・・・
スピノザは、奇跡は無いと、断言する。
それは、自然を観察すれば、理解できることであると。

では、新約聖書の中に書かれる、イエスの奇跡物語は、どうするのか・・・
それについては、聖書の出来かた、その成り立ちについて、別に書く。

スピノザは、後に、カトリックに取り入れられて、利用される。
だが、カトリックも、充分に咀嚼していないのである。

未だに、奇跡を求めているのである。
何せ、カトリックの聖人認定には、奇跡がなければ聖人として、認定されないのである。

更に、聖母マリアの出現・・・
これも、理解に苦しむところである。
ルルドの泉は、世界的に知られた場所であり、今も、奇跡が行われるという。
そして、それを求めて、多くの信者が、巡礼に向かう。

神道には、それが無い。
神様に、願い、病が治った程度である。
だが、それは、それなりに治療して、快癒しても、そうして、神様に、お礼をするという。

神道は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教とは、違い、超越した、神という存在を置かない。置く必要がないのである。
何故なら、神といわれる、存在が、実に実態のある存在なのである。

超越しているのではなく、すぐ傍に存在する。
例えば、天照大神は、皇祖の神である。

そして、この、神という言葉の、観念も違う。
それを一緒くたにして、論じることは出来ないのである。

日本には、唯一神が存在しない。だから、神不在であるとは、カトリック信者であった、作家の言葉であるが、実に、呆れる発言である。

初めから、日本には、唯一の神という、観念が無い。
そして、必要がなかった。
自然が、神なのである。

もっと、言えば、神そのものを見ていたのである。
だから、言葉の世界における観念は、無い。

ただし、全く、神道が、その思想を書かなかったのかといえば、違う。
それは、それは、大枚な、思想を書き続けているのである。

古神道について書く時に、それを紹介する。

スピノザが、聖書解釈と、自然との対比において、同然だというのが、当時の、眼目であったという。

それ以前は、神が主体で、自然は、その被造物として、解釈されていたのだ。
だから、奇跡は、自然を超越していて、そこには、神の介入があるという、解釈が生きていたのである。
それを、妄想であると、判断した、スピノザの勇気は、賞賛に値する。

更に、スピノザは、それを推し進めて、聖書解釈には、自然と同じように、解釈することは、聖書の記述された、歴史が如何なるものであるかを、それが、専ら、どんなものを含むのかという、前進を見せたことである。

現代の聖書研究では、当たり前のことを言うのである。

自然の種種雑多な出来事から諸諸の自然物に関する定義を導き出さねばならぬように、丁度そのように、聖書における諸事物の定義もまた個々の事柄に関して聖書の中に見られる種々雑多な記録から導き出されねばならぬ。
スピノザ

そこから、具体的に、スピノザが解説してゆくのである。

それは、次の機会に譲ることにする。
私は、神道の自然観というものを、紹介している。

西洋の思想が、唯一の神との、対座によるものであることは、充分に理解できた。
それでは、神道の場合は、唯一という、考え方ではなく、多々、自然を通して、人間と共に、ある、特別な存在としての、神意識である。

超越していない、共生してある存在。
全く、西洋の神意識とは、別物である。

更に、神道の神意識は、呼び出せば、即、応答する神意識である。
何故なら、目の前に存在するからである。
更に、それを特別に、お祭りするには、その場を造り上げて、そこに鎮座して頂くという、感覚、意識である。

また、ご神体として、樹木や、石、更には、山そのもの、などを、神として、取り扱うである。

そこには、注連縄を張れば、それで、終わる。
結界である。
それ以上は、神の世界であるという、意識である。

そして、言葉の世界は、無いが、所作がある。
神に向かう際の、所作が明確にしてある。

身を清めて、対座する。
更に、直接に言葉を述べてもいいのである。

祝いの言葉を述べて、神との、交流を図る。
神が、そこに、降臨するという意識で、共に、酒を飲み、共に食べ物を頂くという、感覚である。

神道のみならず、多くの民族的行事の中に、それが、見出される。
神とは、人と共にある存在だという、意識である。

姿は、見えずとも、神の威徳、威光を、感じられるのである。
見事な感性である。

だが、現在の神社神道においては、単なる、儀式と化しているのは、否めない。
所作に、堕落しているのである。

更に、神社という、建物に、依存し、堕落するのである。
そこには、満ち満ちる神の、威徳、威光も無い。

あるのは、神主の、マンネリ化した、堕落のみである。




posted by 天山 at 05:52| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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