2012年05月11日

神仏は妄想である。366

神道の自然に対する思いに関して、書いている。
そこで、ミル、スピノザを引いて、如何に、かの国の言葉の世界と違うのかということを、証明してきた。

結果、神道は、言挙げ、つまり、言葉にすることなく、何度も言うが、所作によって、成り立ってきたのである。

自然は、かしこく、おそれおおい、もの、という思いを、ただ、所作にした。
そして、祭りに託して、農民は、豊穣を土に祈り、漁民は、わだつみに、祈り・・・
すべてを、神として・・・
いや、神という概念もなく、自然を、尊ぶものとして、所作にして表してきた。

これから、スピノザの聖書の解釈について、という、箇所を読むことにする。
というのは、言葉で、語り尽くすという行為には、必ず、このような批判が、多く起こるということを、言うためである。

言葉にすると、後々で、言葉遊びに始終するのである。
そして、それに権威を付与するという、人間の性。

宗教の功罪も、そこにあり。

すべての人は、口では、聖書は神の言葉であって人間に真の福祉や救霊への道を教えるものであると言っている。しかし彼の行いの示すところは口で言うのと全く別である。
スピノザ

何事もそうだが、口で言うことと、行為することが、全く別物というのは、聖書解釈だけではない。
人間とは、そういうものなのであると、得心することだ。

実に民衆は聖書の教えに従って生きることなどまるで念願に置かないように見える。そして余の見るところでは、ほとんどすべての人が、自分の妄想に過ぎないものを神の言葉であると称し、宗教の口実のもとに他の人々を自分と同じ考えに強制することをのみこれ努めている。
スピノザ

とても、激しい、否定と、攻撃である。
既存の思想、そこから生まれる、行為行動に対して、批判するということは、このように、激しいものになる。
主イエスでさえ、殺されるほどの、激しい否定と、批判を繰り返したのである。

次のスピノザの言葉は、今も、その通りである。

あえて言う、余の見るところでは、神学者たちはおおむね、如何にして自分の思い付きや自分の独断を聖書に依ってこぢつけるか、如何にしてそれを神的権威に依って守るかということに心を砕き、聖書や聖霊の精神を解釈するに当っては何をするにもまして軽率かつ大胆にやってのける。
その際もし彼らの心配することがあるとすれば、それは聖霊を誤って解釈して救霊への道からそれはしまいかということではなくて、ただ自分の誤りを他人に指摘されて自分自身の権威を落とし、他の人々の侮蔑の的になりはしないかということだけである。
スピノザ

聖書自体の本質ではなく、我の、権威に心を砕く。
それが、言葉の世界にある、人間の姿である。

言葉にして、発言することで、賞賛される・・・それが、言葉を扱う人の、願いである。それが、誤りでも、いいのである。

だから、
もし人々が聖書について証言するところのことを真に心の底から言っているのだとしたら、人々は今と全然違った生活の仕方をしたであろうし、あれ程多くの闘争で心を激昂させることもなく、あれ程多くの憎しみで相互に争うこともなかったであろう、又聖書を解釈して宗教の中に何か新奇なことを考案しようというあれ程盲目的な、あれ程向こう見ずな欲望にひきずられることもなく、反対に、聖書が最も明瞭に教えることをのみ聖書の教えとして認めたであろう。
最後に又、聖書をその幾多の個所において改竄することをあえてするあの瀆神の徒たちはそうした罪深い行いを止め、彼らの不信の手をそうしたことから引っ込めたであろう。
スピノザ

このように、言葉の世界で、語り尽くせない世界を言葉にすると、結果、このような、主イエスや、スビノザのような、徹底批判が起こるのである。

そして、それは、余りにも、見え透いている。

宗教戦争に明け暮れた西欧の時代。
それは、解釈の違いで、戦争に明け暮れたのである。

そして、何と、勝った者が、その教えに勝利するという、仰天である。
真なるものではなく、力によるもの。
それは、もう、宗教とは、言えないのである。
だが、西欧は、一時期それに、明け暮れた。

恐ろしい、蒙昧である。

然るに野心と冒瀆の横行するところ、遂に宗教は聖書の教えに服従するとこではなくて人間の妄想を擁護することにあるの観を呈している。否、宗教は愛に存せずして人間の間に不和の種を播いたり、激烈な憎しみ「これを彼らは聖なる熱意、烈しき献身と僭称する」を広めたりすることに存するとみられるに至っている。
これらの悪にかてて加えて迷信なるものがある。迷信は人間に理性と自然とを軽蔑し、この両者に矛盾することをのみ嘆賞し尊敬するように教える。だから人々が聖書を益々嘆賞し、尊敬するために、聖書をこの両者―――理性と自然とーーーに最も矛盾するが如く解釈しようと努めるのも不思議ではない。
スピノザ

とんでもない、世界に導いてしまう、解釈の妄想を言う。

それが、言葉の世界を主体とした、西欧の大罪なのである。
言葉にすべきものと、言葉にすべきものではないことを、知らない。

東洋の思想を理解する際に、西欧の人は、極めて迷う。
言葉に出来ないものを、言葉にしないからである。

日本の、言霊と、言葉は神であるという思想を持つ彼らとは、天地の差がある。
それは、説明すれば、同じようになる。
言霊は、言葉自体が動く神である。
言葉は神である。
同じようだが、違う。

根本から違うのである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第8弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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